奴隷屋と薬屋 1
奴隷屋は、とある人物が用意した屋敷を譲り受け、更に店として機能するよう改築してもらったものである。
一階の正面にある扉が店の入り口となり、そこから右に逸れると階段があって、住居とする二階の玄関に繋がっている。
住居のほうの扉を開けると、アンティークのタイルで彩られた小さな玄関が、柔らかなオレンジ色の光と共に迎えてくれる。
廊下には扉が一つあり、おしゃれな水回りがゆったりと広がる。こまめな清掃を心がけているので、いつもピカピカで使いやすい。
廊下を超えた先はダイニングキッチンとなっており、ブルーグレーに塗装されたキッチンが清潔感を、天然木のテーブルが優しい印象を生む。
更に、開放感を味わせてくれる梁見せ天井は、二階を住居にしているからこそ為せる設計だ。
それぞれの寝室はほとんど似たような造りで、ベッドとクローゼット、その他最低限の物のみで作られた空間である。
外観も文句なしの、素晴らしい家。
そして、シリウスとライファットのためにここまでしてくれたその人物は、昔からこの【8番都市】で、薬屋を営んでいた。
+ + +
「そういやライファット。今月分の家賃って払ったっけ?」
陽が西に傾き、街を囲む城壁の向こうへと姿を消して、光だけがかすかに届いている今の時間帯。
奴隷屋の閉店は、他の店舗と比べて少し早い。それに深い理由があるわけではないが、店を終えたあとの清掃や夕食の準備、身体をゆっくりと休める時間を作ろうとした結果、今くらいに閉めるのがちょうどいいという結論に至った。
本日の客足もぼちぼちといったところで、閉めの作業に入っていたシリウスが、ふと思い出したように尋ねる。
「あ、忘れていたかもしれません」
店内の掃き掃除をしていたライファットが答えた。やっぱりそうだったか、と呟いたシリウスは、カウンターの下にある金銭登録箱を開けて、中に入っていたお金をいくつか取り出す。
「じゃあ俺、閉めが終わったら行ってくるわ。お前は夕飯の支度を頼む」
「わかりました」
「ちなみに、今日は何にする?」
「確か鶏肉が残っていましたが……。シリウスさんは何が食べたいですか?」
「んー。鶏肉があるんだったら卵と米と、あとはケチャップを使ったものが食べたいかなー」
「閃きました、オムライスにしましょう」
「よっしゃ」
好物への誘導に成功したシリウスは、気合いを入れて清掃を終わらせたあと、封筒の中にお金を入れて、ライファットを残して外へ出ようとした。
「シリウスさん、『シオン』はいいんですか?」
「あっ」
仕事中はいつも、自分が座るカウンターの横に『シオン』を置いている。
ただ家賃を払いに行くだけとはいえ、街中でも何が起こるかわからない。【8番都市】は治安が良いほうではあるが、厄介な輩が全くいないわけでもない。ましてや少し前に、堕狼やゴーグルの男の件もあった。
そうだった、と引き返して愛刀を手に取り、しっかりと腰に差す。
「行くか、『シオン』」
シリウスが視線を落とすと、忘れるんじゃないぞ、とでも言っているかのように、柄の頭についた紫の羽飾りが二、三回揺れた。
街の中では、人々の暮らしの音が、耳をくすぐる程度に漂う。
気温が低下し、頬に張りつく空気が冷たくなる。どれだけ雪の街に長く過ごしていようとも、寒さに慣れることは全くない。けれど今は、オムライスを思い浮かべることで、胸の底がぐっと温かくなれる。シリウスは寄り道をせず、まっすぐに目的地へと向かった。
そこは平屋で、なんとも甘やかな雰囲気を持つ店だった。適度に花も植えられており、中でたくさんのお菓子を作っているのではないかと、勝手に勘違いしてしまいそうなほどだ。
まだ開店中の扉を開けると、からんからん、と軽やかな音が鳴った。
「こんにちは、トウコさん」
シリウスが挨拶をする。カウンターに座っていたその人物は、シリウスを見て嬉しそうに立ち上がった。
「あらぁシーちゃん! 久しぶり〜!」
緩いウェーブのかかった、長く美しい栗色の髪。大人の魅力を感じずにはいられない、深く黒い瞳。
服装は白のニットセーターと、一見するとロングスカートに思えるそれは、裾が広い黒のパンツだった。元の身長と厚底ブーツの高さを加えると、シリウスとライファットの中間あたりの背丈だ。
トウコと呼ばれた者は、かつかつと音を鳴らしてシリウスに近づくと、ごく自然な流れでぎゅっと愛おしげに抱きしめた。
「んもう、最近ぜーんぜん会いに来てくれないから、アタシ寂しかったわぁ。あいかわらず綺麗な青いおめめね。もうこのまま離したくないっ、シーちゃん大好きっ」
「この前、薬の買い置きはしたからな。トウコさんこれ、今月分の家賃」
「理由がなきゃ会いに来ちゃだめなんて、そんな古臭い考えは誰から教わったの? 男と女を動かすものは、いつだってただ一つのピュアな心よ」
「そのピュアな心が、家賃を忘れるなって知らせてくれたんだよ。早く受け取ってほしいな」
「もっと秘密の逢瀬を堪能させてよ、照れ屋さんね」
むすっと形のいい唇を尖らせながらも、渋々離れたトウコ。しかしタダでは終わらせないと、離れ際にシリウスのおでこにキスを落とし、油断した隙にさらりと家賃入りの封筒を抜き取った。
ぎっ……と眉間に皺を寄せたシリウスだが、既にトウコのこういった行為には慣れているようで、何も言わずにため息だけをつく。
「シーちゃん、ちゃんとご飯食べてる? そんな薄い身体だと、いざというときちゃんと動けないわよ?」
「一応鍛えてはいるんだけど……。また昔みたいに、イグリにみっちりしごかれたほうがいいかな?」
「別にイーちゃんじゃなくても、アタシが手取り足取り相手してあげるわよ? そうね……まずは腹筋から鍛えましょうか。トレーニング場所はアタシの部屋で、ね? しっかりメニューをこなせば、ご褒美に次の家賃を格安にしちゃおうかしら。ついでに麻薬のような快楽も与えて、あ・げ・る」
「酒の力を最大限に利用、かつ俺の中の大事なものを失う覚悟が決まったら、俺のほうから誘うよ。だからそれまで、辛抱強く待っててくれ」
「シーちゃん、根性なしっ!」
ぷんすかと女性らしい仕草で怒るトウコは、初めて出会ったときからずっと、何かと手を貸してくれていた。
奴隷屋を開くまでの間、シリウスとライファットはイグリの家に住んでいたが、男三人が暮らすための工面をサポートしてくれたのがトウコだ。
加えてシリウスが奴隷屋を開きたいと知ると、幅広い人脈を駆使して、【8番都市】での暮らしに飽きたという裕福な女性が残した屋敷を売ってもらった。そしてトウコは、店舗兼自宅として使えるよう改築をした。それにかかった諸々の費用は、押しつけがましく請求せず、毎月の家賃としてゆっくり払っていいと言ってくれた。
イグリとトウコ。そして拳銃屋の店主に支えられて、シリウスとライファットはこの【8番都市】を新たな居場所と選んだ。
ただの旅人だった自分たちを助け、加えてライファットが人狼だと理解した上で、優しく接してくれる存在。
出会ってから今日までの時間はそこまで長いわけではないが、知人や友人の枠では収まりきらないほど、彼らは深く繋がっている。
その、彼らだけの特別な枠を、『身内』といった。
「ねえ、ライちゃんは元気? あの子、アタシの匂いにずーっと酔いしれてたじゃない? 寂しい思いをしてないかしら」
「トウコさんっていうか、薬屋独特の匂いが好きだったんだよな。あいつは」
シリウスはコートのポケットに手を入れながら、ぐるりと店内を見回す。
壁を覆うほどの大きな棚が一つ置かれ、その中には風邪薬や傷薬といった、よく求められる定番の品が綺麗に並べてある。しかし取り扱う薬はもちろんこれだけではなく、他は店の奥で管理しているようだ。
更にトウコは、客が悩む症状に合わせた薬を、その場で調合したりもする。漢方という特殊な医術の類も、ここでは売りにしている。
トウコの店は、とにかく居心地の良さが重視されていた。足の悪い人や背の小さい人でも簡単に座れる低めのソファーと、それに合わせたテーブル。子どもを退屈させないための手作りぬいぐるみも飾られており、年齢層など関係ない、またいつでも気軽に立ち寄れるような店づくりを徹底している。奴隷屋に置いてある猫のツギハギぬいぐるみも、トウコからもらったものだ。
そのうち単なる世間話や、日頃の愚痴を聞いてもらうためだけに、わざわざやってくる客も現れるようになった。そしてトウコは、そんな人たちをいつも歓迎してくれる。元々おしゃべり好きなのに加えて、垣根を感じさせないあっけらかんとした人柄に、誰も彼もが知らぬ間に魅了されていくのだ。
「じゃあトウコさん、俺はもう行くよ。ライファットが飯作ってるだろうし」
「あーん、シーちゃん待って!」
用件を済ませて帰ろうとしたシリウスを、トウコが慌てて引き留めた。何? と言うと、トウコの表情が急に曇り始める。
「来てくれたついでに聞いてほしいんだけどね。最近、ストーカーにつきまとわれてるみたいなの」
「ストーカー?」
聞き捨てならない話題に、シリウスの眉が動く。
一週間ほど前、薬屋に差出人の書かれていない紅茶の箱が届いた。綺麗にラッピングされていたが、安易に手を出してはいけないと勘が告げ、放置していたトウコのもとに、またしても名前のない手紙が届く。〝紅茶はおいしかったですか?〟と書かれていた。
そこから、外を歩くたびに奇妙な視線を感じた。明らかに誰かにつけられているとトウコは気づく。姿を確認するために振り返ると、ストーカーと思われる者はいつも逃げていった。
「へえ……。まあトウコさん美人だし人気者だから、逆に今までストーカーがいなかったほうが不思議かもな」
「もう、次見つけたときに言ってやろうかしら? アタシにはシーちゃんっていう、心と身体も深く結ばれた男がいるって」
「そういう嘘で相手を諦めさせる方法もあるけど……。いや、でも……案外イケるかもな」
「え、何? 今夜アタシの部屋に来る?」
「違う違う違う。俺の名前を出すってやつ。〝文句があるなら奴隷屋のシリウスのところに行け〟みたいなことを言って、本当に来たら、俺が叩き潰して解決じゃね?」
「そんな度胸のある奴だったらいいけど……はあ……」
困ったように頬に手を当てるトウコに、シリウスは腕を組む。
「ちなみに、遵行隊には相談した?」
「いやだ、するわけないじゃない。アタシが遵行隊が嫌いって、知ってるくせに」
「でも、レガシーちゃんとは仲良いじゃん」
「あの子は別よ。それにレガシーちゃんみたいなかわいい子を、危険な目に遭わせられないでしょ?」
「まあ、うん。一応警備隊だけどな……」
「とーにーかーく! ここは男の子の出番よ! アタシを邪悪な魔の手から守ってね? シーちゃん?」
「……わかった。帰ったらライファットにも言っとくよ」
「よろしくね〜」
ひらひらと手を振って見送るトウコに、何かあったらすぐ伝えるよう注意しておいて、シリウスは薬屋を出ていった。
「ストーカーか……。どういう方法が効果的なんだろうな。ライファットに聞いてみて、良い案が浮かばなければイグリにも相談するか」
本来であれば、こういったことは萬屋であるイグリに任せるのがいいのかもしれない。しかしこれは報酬が発生する〝依頼〟ではなく、あくまでも『身内』同士の〝相談〟だ。ゆえに『身内』として協力しなければと、シリウスは思った。
「……なあ、ここの薬屋の人って知ってる? すっげー美人だよな?」
「ああ、知ってるよ」
帰路につこうとしたとき、ふと、近くにいた若い青年二人の会話が耳に届く。
「俺さ、ずっと歳下の女の子が好きだったけど、トウコさんを見て、歳上に目覚めちゃったかもしれない!」
「あ、ああ……。そうなんだ……」
「良い匂いするし、明るいし優しいし……。どうしよう俺、もう戻れなくなりそーっ!」
「……お前さ、逆に今まで知らなかったんだ?」
「へ? 何が?」
トウコに想いを馳せる友人を横目に、青年は冷静に告げる。
「トウコさんって、実は男なんだよ」
「……え?」
「女装してる、男」
「……ええええっ!?」
若者の、青い心が、砕け散る。
一つの夢が終わる瞬間を偶然目撃し、胸の中でそっと手を合わせたシリウスは、そのまま無言で帰宅した。




