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奴隷屋の日常  作者: 坂牧 祀
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キトリーの日常


 私が日記を書いていたのは、私という存在が確かにこの世界にいた証を、砂埃(すなぼこり)程度にでも残しておきたかったからである。キトリーという名前を持つ女。人間だろうと、奴隷だろうと、間違いなく生きていた。それだけが確か。私だけの事実。

 私は、日記を書かなくなった。それは私が人間に戻れて、日記という夢に感情を誤魔化さずに済んだ、喜ぶべき証である。


 新たなご主人であるおばあさまと、孫のお嬢さまと、私。三人で暮らしている。特別変わった外観や機能もない、至って普通のおうち。けれど、ここで生きることを許されたのだから、私にとっては何よりも特別な家だ。

 私は、今ではすっかり、この【8番都市】という場所を愛することに成功していた。それはとても素晴らしい、光の(すじ)となりえた。

 奴隷屋での生活が的確に役立っているのもわかる。といっても、やってたことなんてほとんど料理と掃除だけだが、そもそも私が選ばれた理由も〝家事ができる女の奴隷が欲しい〟だったので、面倒がらずに黙々と続けてきてよかった。

 私によく料理当番を押しつけてきたピグロという男に感謝してやる。私がいま幸せだからこそ、持てる寛容(かんよう)さだ。

〝キトリーには申し訳ないけど、あなたの作る料理はおいしいから、私は嬉しいな〟なんて、ロレッタは言ってくれてたっけ。その言葉に、ヨーンおじさんも笑って頷いた。思い出として残していい、記憶の一つ。


 みんなは、元気なのかな。



「ああキトリー、ちょっといいかしら」

「はい、おばあさま」


 キッチンの油汚れと格闘中だった私に、おばあさまがゆったりと歩み寄る。

 おつかいを頼まれた。今日の夕飯の最後に、お嬢さまが食べたがっていたアップルパイを出したいから、その材料を買ってきてほしいとのこと。


「アップルパイなんて初めてだから、ちゃんと作れるか心配だけどねぇ。まだ手足が動くうちに、やれることはやってあげたいの」

「……わかりました。私もお手伝いしますので、一緒にがんばりましょう」

「あらそう? ふふふ、ありがとうキトリー」


 おばあさまの笑顔が、本当に好きだ。初めて出会ったあの日、私という奴隷の手を握ってくれたときから、もうすっかり、この人の中に煌めく光の(とりこ)になった。心地よくて、優しくて、そして(もろ)いこの手を、絶対に離したくないと思った。


 おばあさまには家でのんびりとしてもらい、私は早速買い物に出る。決していい天気とは言えないが、心が明るいので晴天と同じくらいの気分で歩く。

 どんよりと色づいた景色の中で生きる知らない人々を見るたびに、〝今日も素敵な日ですね〟と笑いかけたくなる。本当にそんなことはしないけど、やってしまいそうなくらい今の私はとびきりな存在だった。浮かれていると馬鹿にされてもおかしくないが、とにかく私は、鮮やかな気持ちでいられた。


 パイの生地やらリンゴやら、必要な材料を得るためにお店を回って、全て購入する。あの八百屋さんの、赤いバンダナを巻いた女の子、元気でかわいかったなぁ。


 陽が落ちる前に帰る。雨も雪も降らなくてよかった。【8番都市】の空もそこそこきまぐれだから、みんな振り回されることがある。でも、私は嫌いじゃない。空もちゃんと生きているんだなと、感じることができるから。


「ねえ、そこのお姉さん」


 なんて思っていると、うしろから声をかけられた。振り返ってみると、そこにいたのは三人の男性。というよりは青年かな。みんなまだ若くて、明らかに私よりも歳下だ。


「やっぱり。振り返ったときのお姉さん、最高に綺麗でしたよ」

「はあ、ありがとうございます」

「ありがとうついでに、ちょっと俺らとお茶でもどうすか? 今日も寒いっすねー」

「……」


 ……なるほど。これがおそらく〝ナンパ〟というやつだろう。

 ロレッタ、見てる? 私、三十歳を過ぎてついにナンパされたよ。奴隷になる前は売春宿で働いてたけど、私ってば全然お金にならなかったからなぁ。たぶん、せっかく私を選んでくれた人がろくでもない男で、つい思いっきりビンタしたのがいけなかったんだろうけど。それがきっかけで、ついに雇い主からも見放されたっけ。


「お姉さん?」

「ああ……、ごめんなさい」


 のっそりと過去を思い返してから、私はお誘いを断った。早く帰らなきゃならないからと正直に告げたが、それだけでハイソウデスカと引き下がるのは、まあ、男の子らしくないよね。


「ちょっとだけ! ねえ、そんなに時間取らせないから」

「あっ! もしかしてお姉さん、もう結婚しちゃってる? 旦那さんが家で待ってるとか?」

「旦那さんはいないけど、待っている人ならいます。だからごめんなさい」

「ええっ、結婚してないのぉ? こんなに美人なのに。俺だったら絶対放っておかないな〜」


 こんなふうに、と言ってその坊やは、私の肩に手を回してきた。

 周りにまだ人の姿はあるけど、みんな遠くから見守っている、もしくは逃げてる、見なかったふりをしている。……これが普通の反応だ。

 私も子どもの頃に、近所にいた黒髪の女の子がいじめられていたのを見て、やっぱり同じことをした。だから今、周りの人たちに対して、酷いとか、どうして助けてくれないの、とかは思わない。誰だって厄介ごとは避けて生きたいものだ。とてもよくわかる。

 しかし自分で言うのもなんだが、私はだいぶ根性がついたと思う。恐怖を全く感じないわけではないが(それだとただのイカれた奴だ)、少なくともこういう坊やたち相手にあまり怯えない。若いなぁ、と思うだけ。あとは単純に、面倒くさい。


 私が〝元売春婦の奴隷上がり〟という最低最悪な女だとは知らずに、なんともまあ。


「あの」


 私が口を開く。

 ん? と三人はにこやかに待つ。

 それから私は、ただ思ったことを告げた。


「こんなおばさんに声をかけてくれたのは嬉しいけどね。生憎おばさんは、君たちのようなお子さまは好みじゃないのよ。それに、揃いも揃って汚い目の色。生まれた瞬間から下卑(げび)た性格が決められたみたいで、すごくみっともないわ。わかったら早く帰って、甘いジュースでも飲んでなさい?」


 もっと、私に話しかけるならせめて、〝あの人〟みたいな綺麗な色を見せてちょうだい。

 海の美しさが透き通っているような目を。夢のような目を。


 案の定、男の子たちはすぐに憤怒した。こっちが下手(したて)に出てりゃあ、いい気になってんじゃねえぞババア! なんて、それはもうぷんぷんと。

 こっちだって、下手(したて)に出てくださいなんて、お願いした覚えはないわよ。ガキ。


 こうなったらもう無理やりにでも連れていこうと、力づくで私を引っ張る。口はともかく、さすがに力では敵わないわ。おばあさま、待っているのに。

 自分が今置かれている状況を他人事みたいに考えている私は、あれよあれよと連れていかれてしまう。一応抵抗はするが、まるっきり無意味である。

 こんな、人の往来(おうらい)がまだ途切れないところで、さぞ迷惑だろうな、私たち。


 ……そのときだった。



「おい」


 短い一言が飛ぶ。この坊やたちでも、もちろん私でもない。

 誰? どこから? 

 しかし探すよりもすぐに、その声の主が、三人のうちの一人の肩を掴んだ。


「どけやカス。場所考えろよ」

「……ああ!?」


 男の子は、掴まれた手を乱暴に払う。

 そして見えた、声の主の正体。


「……ご、ご主人、さま……?」


 私の小声は、三人には届いていない。

 そう、そこにいたのは、奴隷屋の店主であり私の元ご主人さまの、あの人だった。

 同じ街に住んでいるのだから、また会える可能性は十分にある。けど、また会えるなんてという驚きが、私の中で一気に膨れ上がった。

 しかし当のご主人さまは、やけにイライラとした様子で男の子たちを睨みつけている。おおらかな印象しかなかったから、初めて見る顔つきだった。


「あん!? てめえ誰だよ!」

「どうでもいいんだよ。邪魔くせえのがわかんねえのかクソ共が。ナンパだかなんだか知らねえけど、目障りだっつってんだよ」

「てめえこそ邪魔すんじゃねえ! ぶっ潰すぞ!」


 すると仲間の一人が、まあ待てよ、とポケットに手を入れながら前に出る。


「ちょうどいいや。この女連れてく前に、こいつぶん殴って金をいただいちまおうぜ」

「……へっ、そりゃあいい! 俺らをスカッとさせてくれよ!」

「……」


 ご主人さまは、少しだけうつむく。

 それから、激情を氷で覆いかぶせたような冷たい表情を一瞬だけ見せて、


「……どいつもこいつも、戯言(ざれごと)抜かしてんじゃねえぞ。ブチ殺されてえのかクズがあああっ!」


 その氷が割れたあとは、あっという間だった。

 ご主人さまは有無を言わさず、鞘に納めた状態の刀を振り回し、ついでに手と足も器用に使って、三人をボコボコにしてしまった。殴る蹴るの、まさしく暴力による解決である。

 雪の地面にお尻や背中をつける坊やたちを、鋭く見下ろす。勝敗は明らかだが、なおも負け惜しみのようなセリフを一人が吐く。するとご主人さまは大きく舌打ちをして、ついに右の太腿に巻かれたホルスターから、小さな火器を引き抜いた。


「これ以上舐めた口利いてると、うっかり俺の指先が動いちまうかもなぁ!?」

「ひっ、ひいいいぃっ!?」


 拳銃で脅されてしまえば、人は無力だ。それがよくわかる光景だった。

 ばたばたと逃げていく三人の男の子たちの姿が見えなくなった頃に、ご主人さまがため息をついて、こちらに戻ってくる。そして、


「お前、キトリーだったんだな」

「えっ……。……え?」


 立ち尽くす私に、そう言った。

 えっ……。まさか私だと知らないで、気づかないで助けたの?

 ……まあ、人助けをするのに、相手は関係ないってことなのかな。


「ちょっとイラつくことがあって、気分転換に散歩してて、そしたらあいつらが道塞いでてクソ邪魔だったから、よく見ないまま喧嘩ふっかけちまった。……大丈夫だったか?」

「は、はい……。ありがとうございます」


 どうやら、そういうわけではないらしい。本当にただ腹が立って、邪魔で、それだけが理由のようだ。〝ちょっと〟どころじゃない暴れ方だったけど。

 ちなみに怒っていたのは、奴隷屋のほうで厄介なお客の対応をしていたから、と教えてくれた。なんでも来店早々、奴隷の扱い方や経営のやり方にあれこれいちゃもんをつけてきて、結局長く言いたいことだけを言って、ついでにお茶も飲んで帰ったおじさんがいたらしい。


「ライファット……。もう一人の従業員が死ぬほど殺気飛ばしてんのにも気づかねえで、ずっと好き勝手べらべらほざきやがって、あのクソボケ野郎が……。こっちが店の経営以上に暴力のほうが得意だってことを、あの場で教えてやるべきだったかな」

「ど、どうでしょう……。まあ、時にはそういった対応も必要になる瞬間も、あるとは思いますよ。言葉が通じない相手には、特に」


 私が正直にそう話すと、ご主人さまはちょっとだけ驚いたような表情でこちらを見た。何かしら、と私が小首を傾げると、


「お前、意外とそういうこと言うんだな」

「えっ?」

「もっと普通に……。普通っていうか、〝そんなのはだめですよ〟って、たしなめる言葉を返すかと思った」

「……ああ……」


 女として、そう答えるべきだっただろうか。

 でも確かに、〝普通〟に考えて、暴力はよくない行為だもの。止めるべきよね。

 きっとこういうところがいけないんだろうな、私って。


「気が合いそうだな、お前とは」

「……はい?」

「俺はお前みたいな意見を言ってくれる人のほうが好きだ。男でも、女でも」

「……」


 前言撤回。私は今のままでいい。

 この人がそう言ってくれるんだもの。何も気にする必要はないわ。

 我ながら、なんて単純。でも、そんな自分すらなんだか好き。好きになれてしまう。


 またさっきのような子たちに絡まれないように、家まで送り届けてくれると、ご主人さまは言った。もう大丈夫ですよと遠慮したけど、もうちょっと歩きたい気分だから、とご主人さまは笑う。あの子たちをストレスと一緒に吹っ飛ばして、スッキリしたような顔だった。


「店番してくれてるあいつに、お菓子でも買って帰ろうかな」

「お菓子、ですか。甘い物がお好きな方なのですか?」

「基本的になんでも食う奴だよ。チーズケーキ以外は」

「チーズケーキ……。おいしいと思いますけどね」

「ピザとかグラタンのチーズは平気だけど、お菓子は苦手らしいんだ。そういうのあるよな」

「そうですね。それにケーキとピザでは、使うチーズが違いますし」

「あ、そっか」


 横に並んで、私の歩調に合わせて歩いてくれるご主人さまの目を、私は盗み見る。

 どうしてこの人の〝青〟は、こんなにも他と比べ物にならないのだろう。これ以上何もいらないくらいに満ちていて、ただ悠然と輝く。その事実が、私の心に熱を生む。


 そして私は、少しだけ愛してしまうのだ。

 そんな私と、あなたの〝青〟を。


「あの……」

「ん?」

「ロレッタやヨーンおじさんたちは……その、元気ですか?」


 奴隷屋にいたとき、ご主人さまは首輪に書かれた番号で呼ぶことのほうが多かったけど、私たちの元々の名前をちゃんと把握している。だってたまに、名前でも呼んでいたから。

 とくんとくんと揺れる心を抑えていると、ご主人さまは少しだけ間を置く。一度だけ風が強く吹いて、互いの髪を乱す。それがおさまったあとに、答えてくれた。


「ああ。お前が出ていったあとに、あいつらもいなくなったよ。お前が知ってる奴は、もう誰もいない」

「……! そうですか……!」 


 よかった、よかった……! みんな、ちゃんと出られたんだ。

 ヨーンおじさん、空の色を知ることができてよかったね。

 ロレッタ、あなたは今、どんな人のもとにいるのかな? 結婚は難しいかもしれないけど、優しくて良い人と、穏やかに暮らせているといいな。


 すごく嬉しくなって、気がつけば私は、ずっとにこにこしてたみたい。

 そんな私を横目に、ご主人さまも黙って微笑を浮かべていた。



「ご主人さま。今日は本当に、ありがとうございました」


 家のすぐそばまで着いたので、改めて感謝の言葉を伝える。ご主人さまは頷いたけど、まだそんな呼び方してんのかと続けた。


「俺はもう違うって言っただろ。名前で呼んでくれないと、周りに誤解を招く」

「あっ……。そ、そうでしたね」


 名前……。この人の名前。

 私が密かにお気に入りだった、澄んだ夏風に似たもの。

 息を吸う。そのまま出そうとしたが、一度止まる。でも、止まったままは苦しいから、思いきって言う。私の声で(つむ)がれる、この人の名前を。


「……し……、シリウス、さん」


 人さまの名前を呼ぶのって、こんなに体力が必要だったっけ。前に一日かけて、おばあさまの家を掃除したときの疲労と同じ感覚だ。

 そんな私の心情など一切気づかない彼は、ああ、と返事をする。

 そして、


「呼んでもらえて嬉しいよ。キトリー」


 ……私なんかに名前を呼ばれて嬉しいだなんて、おかしな人。

 でも同時に、私の今の気持ちだって、きっと彼にはわからない。それでいい。

 色々な経緯を経て、私は今、この場所にいる。だから私は、どんなに情けなくても、過去をなかったことになんてしたくない。それがきっと、一番いい。


 私はキトリー。私を迎えてくれたおばあさまと、その孫であるお嬢さまの、三人で暮らしている。

 目の前にいるのはシリウスさん。元はご主人さまだったけど、今はただの知人。




 ただの知人に、なれました。


 だからこのまま、もう少し、寄り添ってみてもいいでしょうか。



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ヨーンおじさん達が奴隷の暴走で亡くなったこと、伝えるのかどうするのかすごく興味深く読みました。 あえて伝える必要はないという判断、そして嘘ではなく「いなくなった」という言葉。 「本当のことを教えない優…
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