彼女
その想いに気づいたとき、私はすぐに、これは失敗するだろうと直感した。
【8番都市】に生まれて二十年以上経った私は、八百屋の一人娘として暮らしている。お父さんとお母さんと、おばあちゃん。そして私。この四人で、ずっとずーっと、楽しく働いて生きてきた。
私は仕事をするときはいつも、頭に赤いバンダナを巻いている。いわゆるトレードマークというやつだ。
赤いバンダナは、私のお気に入り。学校を卒業して、本格的にお店の手伝い……というより、就職かな。その記念に、おばあちゃんからもらった物だ。赤色はすごく生命力に満ちていて、元気で、人を惹きつける色だから。……おばあちゃんはそう言って、私のためにこれを選んでくれた。
今では、私もそう思う。赤は、世界一素敵な色だ。
広くないお店の中には、これでもかというほど野菜や果物がみっちりと並べられている。そのせいで通路が狭くなっているのは申し訳ないが、そこを誰かに指摘されたことは、少なくとも私の記憶にはない。
いつもお世話になっている農業の方から届く野菜たちを、朝一番に迎える。箱いっぱいに詰まったそれは重たく、持ち上げるたびにおいしょー! と声を出す癖は、きっと永遠に直ることはないだろう。けれど私は、両腕を通してその重さを感じるたびに、痺れるくらいの幸福を味わっていた。
野菜は、本当に美しい。もちろん果物だって。
数えきれない鮮やかな実りたちを、学校へ行く前に、一通り眺めるのが好きだった。今日も一日がんばろうねって、明るい心をもらえてる気がしたから。何か嫌なことがあって帰ってきても、野菜たちに囲まれたお店に足を踏み入れた瞬間、言葉にできない希望がいつも胸に沁みた。
自分の手に持って、まじまじと見つめる時間も好きだ。まるでこの世で最も照り輝く宝石を手に入れた心地になって、私はそんな夢を、野菜ごと愛せた。
人に、確かな生命のカケラを分け与えてくれる野菜や果物という光を、私は笑えるくらいに愛したのだ。
そんなある日。広告所に、明日のお昼に格安セールをおこなうという内容のチラシを貼りに行ったときのことだ。一人の男性が立っていた。
白い髪に、黒いマフラー、あずき色のコートを着たうしろ姿。右と左の腰に、それぞれ短剣を下げている。
彼は今貼られているチラシを、隅から隅までチェックしているようだった。
「すみません、失礼します」
私が断りを入れると、気づいたその人はすぐにどいてくれた。私はそのまま、持ってきたチラシを貼り始める。
「……」
「……」
背後から、視線を感じる。
よく、戦いに慣れている人は視線とか殺気を敏感に察することができる、なんて言うけど、そんなのわかるわけないわ、とずっと思っていた。でも、私が感じているのはおそらく、気のせいではない。白い髪の人が私を、いや、多分チラシを早く見たいのだろう。離れずに待っている。
なんだか気まずくなってしまった私は、貼り終えてすぐに帰ろうとして、ついその人を見てしまった。さっさと立ち去ればよかったのに、私はその人の正面を、顔を、うっかり見てしまったのだ。
「……あ」
吐息が漏れた。びっくりしたのだ。
何故ならその人は、世界一素敵な色を瞳に宿していたから。赤い目なんて特別珍しいものではないかもしれないけど、少なくとも私は初めて見た。白い髪が余計に、赤を引き立てていた。
濁りのないきらっとした赤い光が、まるで真水を浴びたトマトのようで。すごくすごく、私好みと言えた。
こんな瞳の人がいるんだ、と私は不躾とも捉えられる感情を、鮮明に心に綴った。
「……どうした?」
目の前の人が、口を開く。私はハッとする。
そうだ。今の私は、知らない人の顔をじろじろと見つめている、ただの失礼な人だ。
ほんの数秒固まったあとに、申し訳ないですと謝った。その人は軽く首を傾げてから、貼ったばかりの、うちの店のチラシを見る。
「……格安セール、か」
「えっ? あっ、そうなんです。明日のお昼にやるので、よければ来てくださいね」
「わかった。忘れないようにする」
彼はそう言って、去っていく。【8番都市】の風景に溶け込んで。
「…………はぁぁーー……」
これは、安心とか落ち着いたときのため息ではない。何かに圧倒され、感心したときに出てくるやつと同じだ。
そして私の口元は、知らないうちに緩んでいた。胸がふつふつと、しっとり熱くなっていく。
私はうんうんと頷きながら一人で納得して、軽い足取りで帰っていった。
いやはやなんとも、良いものを見た。ひどい土砂降りがやんだあとの、空に伸びる虹と同じで、得した気分になった。
頭に巻いたままの、赤いバンダナに触る。
今日はちょっぴり、私は良い日でした。
翌日のお昼。宣伝通り、うちの店で格安セールが始まった。
主婦と思われるおばちゃんたちが大半を占める店内。すれ違うのもままならない通路では、お客さんが次々と野菜や果物を買っていく。ぴかぴかに輝く、私にとって自慢の宝物たちがどんどん他の人の手に行き渡っていくさまは、いつもたまらない快感だ。
「……あっ」
お会計を終わらせたちょっとの隙に、昨日の彼を見つけた。彼はお店の一歩外で中の様子を窺っていて、入ろうとしない。まあごちゃごちゃしてるし、入りづらいよねと思いながら、私は次のお会計に移る。
それからまた、少し経ったとき。
「頼む」
「はいっ。……あっ、えっ?」
ついさっき外にいたはずの彼が、私の目の前にいた。
「あ、あれ? あなた、さっき……」
「ん?」
「いえ、なんでもないです……!」
忙しいから、今は時間の感覚が狂っているのかもしれない。この彼を外で見つけてから、もしかしたらそれなりに過ぎていたのかも。そう考えれば、納得した。
彼は格安だからといって、無理に買い込みすぎない程度の野菜たちを購入した。私がせっせと詰めた袋を受け取ると、そこから緩く流れる川のごとく、ごった返す人や物をかわして外へ出た。あまりにも自然で、それでいて華麗だったもんだから、私は思わず感嘆の声を呼吸と共に吐いた。
(あの人に盗みをやらせたら、誰も気づかなさそう)
失礼な、けどそれ以上にぴったりな称賛の言葉が浮かばない。気を取り直して、業務に戻った。
忙しい時間を越えると、あとはもう勝手に陽が沈んでいる。お店を閉めて、お母さんと私で作った夕食をみんなで食べる。お風呂に入って、ベッドに潜る。目を瞑った。
まだ、彼の顔がぽやっと記憶に残ってる。よくよく思えば、どことなくかっこよかったかも。
そしてまた次の日。私はこれまでの人生の中で、最も崖っぷちな目に遭遇する。
お店が暇だったので、お母さんに買い物を頼まれた。私は作業服の上にコートを着て、言われた物を買いに行く。今日はいつもより暖かく、空もお天道さんも綺麗だ。心が洗われる。
だが、途端に絶望する。お母さんがカウンターに置いてたお金を忘れたことを知る。今、お会計をしようとした、この瞬間に。
「やってしまった……」
「どうされましたか?」
「あ、いえ、その……」
従業員のお兄さんが優しく尋ねるも、しどろもどろな返事しかできない。身体が一気に、嫌な意味で熱くなった。私のうしろには、次のお会計を待つ人たちが並んでいる。
「おい姉ちゃん、早くしろよ!」
痺れを切らしたおじさんが文句を飛ばす。他のお客さんたちは何も言わないが、同意するような顔をしていて、私はもうパニックだ。
「ご、ごめんなさい……、あの……」
「はい?」
「俺が出す」
「はい、そうなんです、私……。……って」
私の左側、あずき色のコートが映った。そこからなぞるように、ゆっくりと顔を上げる。
「あ、あなた……!」
彼だ。また出会った。三日連続で、なんということだろう。
彼は私をじっと見下ろしてから、既に購入済みの自分の荷物を持ち直す。
「いくらだ?」
「え? あ、はい」
彼は従業員さんから金額を聞くと、そのままポケットから財布を取り出した。
「えっ!? あの……なんで……!?」
「今ここで、問答をしている場合じゃない」
彼は、自分の財布から必要なお金をさっさと払って、私が買おうとした品を従業員さんから受け取る。こうして真横に並ぶと、すごく身長差があるな、なんてどうでもいいことを思っていた私は馬鹿だ。
そうして彼はお店から出て行き、私も慌ててうしろを追った。
お店から少し離れたところまで歩いて、彼は足を止める。こちらを振り向いた。
だから私は、ここでようやく頭を下げてお礼を言えた。
「ありがとうございましたっ……! あの、お金はちゃんと払いますから……!」
「まあ、当然だな」
さらりと言いのけて、彼はまた歩き出す。
「ど、どこへ行くんですか?」
「お前の店に決まってるだろう。八百屋の娘」
小走りで追いついて、また横に並ぶ。私は、自分が買うはずだった荷物を持つと言ったけど、いいと断られた。八百屋に着くまで、持ってくれるらしい。
「えっと……。私のこと、よく覚えてましたね」
昨日もおとといも会ったには会ったが、顔を覚えるほどの時間は過ごしていない。私は一方的に彼のことが気になっていたから覚えてたけど、彼も私のことを、ちゃんとわかっていたのだろうか。
彼の横顔を盗み見る。さらさらと揺れる白い髪も、また魅力的だ。
「赤いバンダナは、よく目立つ」
私の疑問に、彼は答えてくれた。なるほど、なるほどです。
でも、どんな理由でも、私はもちろん嬉しかった。助けてくれたこと。私という存在を、彼の記憶に置いてくれたこと。
単純で結構。ちょろくて上等。もう一瞬で、彼の周りに星のような光がまとわりついて、離れなくなった。
私の目には、そう煌めいて仕方がなくなってしまったのだ。
(やっぱり、良いかもな)
シンプルに、素直な想いを抱いた。
でも、どうしてだろう。
この想いはたぶん実らないと、私の胸がちくちくと騒いで、治まりそうになかった。
お店に帰ってきてすぐ、彼にお金を返した。
けど、そのまま帰ろうとした彼を私は引き止めて、お茶でもどうですかと勧めた。思えば、自分が迷惑をかけたとはいえ、異性をこんなふうに誘うなんて初めてだ。
事情を知ったお母さんは、お店の隣に建つ我が家に彼を招き入れる。なんだかすごくうきうきした様子で。
かっこいい子見つけたじゃないの、と彼に聞こえないように言って私を小突く。いや……今回に関しては、私が見つけられた側なんだけどね。
彼にはリビングに座ってもらい、私はすぐにお茶の用意をする。
「お母さん。あの果物のジュース、まだ残ってる?」
「あるけど……。まさかあんた、あれを出すのかい? おいしい紅茶があるのに」
「うん」
ここは雪の街だから、外から帰ってきた人、ましてやお客さんには、温かいものをお出しするのが普通だ。けど私はどうしても、このジュースを彼に飲んでほしかった。何故ならこれは、私が作ったものだから。
一度自分でこっそり味見をしてから、数あるコップの中でもおしゃれなやつを選ぶ。そして、今日はお休みのおばあちゃんの正面で、静かに座る彼のもとまで歩く。彼は背筋をぴんと伸ばして、男の人にしては綺麗な座り方をしていた。
どうしよう。かっこいいぞ、この人。
「どうぞ」
ドキドキしながら、私はそっと置く。彼はコップを持って、匂いを嗅いで、回したりしながらじっくり見て、ようやく一口を飲んだ。
「おいしい」
「あ、ありがとう」
そう言ってもらえて、安心と喜びが心臓を撫でる。
正直、ジュースの香りや色味を楽しむというよりは、中に妙なものが入っていないかを確認しているように私には見えた。けど、私も彼も、当然言わない。
「ねえあなた、お名前はなんていうの?」
お母さんが、抱く興味を隠そうともせずに尋ねる。お店はいいの? と私は聞くけど、暇だからお父さん一人で十分よ、と笑って流された。
……ていうか私たち、まだお互いに名乗ってなかったな。
「ライファットだ」
「ライファットさん? 素敵な名前じゃない」
ねえ? と私に振ってくる。頷いた。
お母さんの質問はまだ続く。
「ご職業は? 何をしていらっしゃるの?」
「奴隷屋の従業員をしている」
「この街で奴隷屋って……。あの、奴隷を清潔に扱ってるってところ?」
「そうだ」
「まあ、そうだったの。うちに奴隷は必要ないから、話だけは聞いていたけど、まさかこんなかっこいい人が働いていたなんてね。今度覗きに行っちゃおうかしら」
「いつでも待っている」
「あら、嬉しい」
奴隷屋……だったのか。短剣を身につけているから、てっきり狩人か傭兵の類かと思ってた。
その後もお母さんは、リズミカルに彼と会話を重ねる。お母さんばっかりずるい、私も混ざりたいと、がんばって相槌を打ったりしたけど、変に緊張して、うまく私から話を広げることができなかった。だから結局、お母さんに助けられる形となった。
それなりにおしゃべりをして、ジュースも半分以下になり、そろそろ終わりの雰囲気をみんなが感じていた。
そのとき、
「……ライファットさんのお名前は、どんな意味が込められているんですか?」
正面のおばあちゃんが、そう口を開いた。
ずーっと黙ってお茶を飲んで傍観してたし、急に、しかもよくわからないタイミングで尋ねられたものだから、さすがの彼もちょっと驚く。
お年寄りだからっていう理由が当てはまるかはわからないけど、おばあちゃんは昔から、会話のテンポがどこか遅い。だから、今それ聞くんだ? って空気になった。
「意味、か……」
彼は呟いて、少しうつむいた。
あれ、もしかして聞いちゃいけないことだったかな、と私は内心慌て出す。お母さんもなんとなく感じ取ったのか、気にしなくていいわよ、と流そうとする。
けれど彼は、首を横に振った。
「せっかく聞いてくれたが、意味については俺もわかっていない。……この名前は、我が主から賜ったものなんだ」
「え……?」
「我が主であり、奴隷屋の店主である人から」
そこから彼は、話してくれた。
今一緒に暮らしている人とは店主と従業員の関係であり、主人と従者でもあるということを。【8番都市】とは別の場所で出会って、二人で旅をして、やがてここで暮らすことを決めたことを。
「〝ライファット〟という名前の意味を、あの人は話そうとしない。ちゃんと意味を込めたからこそ、簡単に口にするわけにはいかないと言っていた」
「そう……。でも確かに、意味とか願い事って、人に教えちゃうと効果が薄れるって言うわよね。ただの迷信だけど、その人もきっと、それを気にしてるのかも?」
「そうかもしれない。過去に一度だけ、それでも教えてほしいって、駄々をこねてみたことがあるが……」
困ったような呆れたようなため息を、彼は吐く。
「〝じゃあ俺が死ぬときに教えてやるよ〟って返された」
「まあ。だったら、ずっと知らなくていいわね」
「ああ……。でも、もういいんだ。俺はあの人からもらった〝ライファット〟という名を、一生大事にするだけだから。そして……」
ゆっくりと瞬きをする。柔らかくて、とても綺麗なものが、彼の瞳の中からあふれた。
「これからもずっと、あの人のそばに居続けるだろう」
ジュースを全て飲み干す。空になったコップを置いて、彼は立ち上がる。
「おいしかった。……ごちそうさまです」
丁寧にお辞儀をする。お母さんとおばあちゃんが、満足そうに頷く。
そんな彼を見て、私は先程の答えを理解した。
想いが実らないと勘づいたのは、この人自身が既に、他の誰かに尽くしているからだ。尽くす心が敬愛であれなんであれ、それを私が奪うなんて、できるはずがない。
ああ、納得した。吹っ切れた。胸のちくちくが、ようやく消えた。
でも……。
荷物を持って出ていこうとする彼のうしろ姿を、玄関からぼうっと眺める。もう行ってしまう。
そんな私の背中を、お母さんが優しく叩く。
「ミゼ」
お母さんが呼ぶ。私の名前を呼ぶ。
「お母さんは、応援してるからね」
ファイティングポーズを決めて、お母さんは、リビングへ戻っていった。
彼を、家の外まで見送る。雪が降る土地は、夕方がとにかく早い。さっきまでお昼だったはずなのに、もう空が濃い夕焼けに色づいている。これはこれで、また美しい。
今日は本当にありがとうございました、と私は最後にもう一度、お礼を言った。ああ、と彼は短く応じる。
風に乗って、おいしそうな匂いが私たちの間に届いた。彼はそれに誘われるように、自分の家へ帰っていく。主人の待つ家に。
「ライファット、さん」
得たばかりの、彼にとって大切な名前を、私の音で鳴らす。彼は反応して、振り向いてくれた。
もう、何も言うことはないはず。けれど、ここでこのままさよならは、できればしたくない。
だから私は、探す。
「また来てね。うちのお店に」
【8番都市】で八百屋はうちしかないから、わざわざ言わなくても、きっとまた来るだろう。でも、私は言いたかった。
なんでもいいから、身勝手に欲したんだ。私と彼、二人だけに繋がる見えないものを。
きっと鼻歌でもこぼれてしまいそうなほどの笑顔だったと、我ながら思う。私は、そんな顔で伝えたんだ。
そして、彼は、
「ああ、また来よう」
頷いた。頷いたのだ。それが私にとって、とびっきりの光となった。
あのとき。初めて会ったとき。
あなたをじっと見つめた私の心は正しかったと、そう、胸を張って言える。
自分の感情に慄いたのは初めてだ。なんだか彼に出会ってから、ずっと〝初めて〟を感じている。いろんな〝初めて〟を見つけた。
そしてそれらは全て、あなたに繋がる。素敵な赤に照らされた導き。
「待ってるね」
あなたが好きです。




