青と赤 1
巨木が倒れていた。ねじ切られたような跡があった。その上にはびっしりと苔が生えており、なんだか毒でも混ざっていそうな、怪しい色を帯びていた。
太陽が森全体を美しく照らしているため、今は〝神秘的〟という言葉で片付けられるが、これが夜になれば、すぐさま〝不気味〟の三文字に変わるだろう。
ただでさえ方向音痴だというのに、森という天然の迷路を脱出することができるだろうか。一応踏みならしてできたような道は確認できるが、これを素直に信じていいのか、疑いたくなってしまう。
「でも、今は一人じゃないしな」
そう呟くのは、まだどことなく幼さを残した青年。
黒い髪に青い目を持つ。白のジャケットがよく似合い、左の腰には刀を差している。柄の頭には紫色の羽飾りが揺れており、青年はこの刀のことを『シオン』と呼んでいる。
彼の名はシリウスといい、大事な居場所と家族を戦争によって失い、たった一人でこのカレスティア大陸まで流れ着いた。
その後、様々な出来事を経て、今は安定した移住先を求めて、各都市を巡る旅をしている。
シリウスは腰に手を当てながら、数步離れた先に立つ人物を見た。少し前にとある奴隷屋で購入した、シリウスにとっては旅のお供にあたる存在。
自分より少し背が高い、同年代と思われる青年。顎くらいまで伸びた白い髪と、宝石のような赤い両目。南部用の涼しげな、あずき色の長い上着を身につけ、左右の腰には一本ずつ短剣を差していた。
この青年、まだ名前はない。元々は〝シロ〟と名乗っていたらしいが、それでは恥ずかしいとシリウスが却下し、代わりとなる名前をこちらで決めると言った。
だが名前とは案外難しいもので、しかも人間に与えるのだから、安易にこれだと決められずにいた。
早く立派な名をつけてやりたいが、そう考えるたびに〝立派な名〟とはなんなのか自問自答を繰り返し、納得できるものが浮かぶまで待つことにしたのだった。
白髪の青年は周囲をよく確認すると、主人であるシリウスの元まで戻ってくる。
「大丈夫です、先へ進みましょう。この森はさほど広くはないので、陽が昇っているうちに抜けられるはずです」
「そうか。じゃあ行くか」
「はい」
互いに頷いて、森の中を行く。
道の上に散らばる小枝を踏んで、辺りに気を配りながら、静かに歩いていった。
木々が揺らめく。まるでこの森そのものが自分たちにぽそぽそと語りかけているみたいで、つい耳を傾けたくなってしまう。
しかしのんびり森とおしゃべりをしては、彼の言っていた〝陽の昇っているうち〟を過ぎてしまうので、対話はまた別の機会に持ち越すことにした。
シリウスたちは今、【26番都市】を目指している。白髪の青年いわく、そこは数百年前に生きた人々の暮らしや当時の建物などが、どこの都市よりも鮮明に残されているらしい。
ゆえにこの大陸に生まれた者であれば、必ず一度は訪れるべき場所とも言われている。歴史が今でもそっと息づくその都市は、カレスティア大陸を代表する名所の一つとして人気があった。
「楽しみだなぁ。古い建築物とかそういうの、見るとわくわくするんだよ」
ずっと観光気分が止まらないシリウスは、おそらく今日中に辿り着くであろう歴史の街に思いを馳せ、無邪気な顔を綻ばせながら進む。そうですね、と簡潔に返事をした白髪の青年は、道を間違わないようにしっかりと、過去の記憶を振り返りながら先導していた。
無限の葉が織りなす爽やかな音が、森特有の涼しさをふんだんに表現する。けれど実際は気温も湿度もそれなりに高く、暑いとぼやいても仕方ないくらいの環境が二人を迎えていた。
しばらく歩き、汗が流れる。ちょっと休憩にするか、とシリウスが提案し、青年は二つ返事で従った。
他よりもひと回りほど太い木を見つけ、そこを休憩場所と定めて腰をおろす。程々にぬるくなった水筒で喉を潤したあと、二人は携帯食を取り出した。
包み紙を剥がすと、まるで泥水を固めたような、あまりおいしそうではない色をした平たい長方形の固形物が顔を見せる。ほとんど無臭のそれを歯でちぎって食べると、もっちゃもっちゃと口の中で音が鳴り、なんとも言えない甘さが広がった。
「いつ食べても、おいしいのかおいしくないのかわかんねえな。これ」
噛みごたえがあって適度に腹は満たされるが、好きこのんで食べたいわけではない。
小言をこぼすシリウスとは対照的に、青年は無言で、食事を終えるための咀嚼をただ繰り返す。
会話らしい会話をあまりしないまま、短い休憩を済ませる。行くか、とシリウスが立ち上がり、青年もそれに続いた。
木漏れ日が、彼らの頭を撫でる。太陽がこつこつと高くなっていくのがなんとなく伝わり、街に着くのはいつ頃になるかな、とシリウスは心の中で呟いた。
夏の代名詞である蝉が鳴いている。ひたすらに歩く二人を退屈させないために、あちらこちらで熱唱する。それが余計に、暑さを増幅させているとも知らずに。
「お待ちください」
急にそう言った白髪の青年が、左手を横に伸ばしてシリウスを止める。どうした? と聞くと、青年が答える前に〝答え〟のほうからやって来た。
茂みの向こう側から、三人の男が姿を現す。
帽子をかぶった男、腕に刺青の入った男、眼鏡をかけた男。
三人とも肌を露出させた服を着ており、話さなくとも不良じみた性格だというのが理解できる見た目をしていた。
「……おっ? お小遣いはっけ〜ん」
帽子をかぶった男が、シリウスたちに聞こえないように怪しげに呟く。それに応じて他の二人も、同じくニタニタと口元を歪ませ始めた。
「なあ兄ちゃんら、これからどこへ行くんだい?」
刺青の男が尋ねる。シリウスが答えた。
「【26番都市】まで。そっちは?」
「ああ、俺たちは昨日まで滞在してたんだよ。あそこは良いところだぜぇ、おすすめだ」
「そうなんだ。教えてくれてありがとう、ますます楽しみになったよ」
話を早々に切り上げて、じゃあ俺たちはこれで、と先を急ぐ素振りを見せた。
おいちょっと待てよ、と眼鏡の男が大声で制止する。
「ここで出会ったのも何かの縁だ。……金目の物をよこしな」
前に立ち塞がる三人の男を、シリウスはじっと見る。それから、この流れを予期していたというような目つきに変わり、『シオン』を握った。
「何かの縁、ねえ。要はただのカツアゲだろ? ……わかった、乗ってやるよ」
「はあ? 随分と潔いな」
「ただしこっちが勝ったら、お前らが逆のことをしろよ」
「……ああん?」
刺青の男が、ぎろりと睨みつける。しかし、そんなものに全く怯む様子などないシリウスは、淡々とした口調で続ける。
「俺たちが勝ったら、お前らが金になりそうな物を置いていけ。俺たちが負けたら、素直にそっちの言うことを聞くよ。……それでいいな?」
「はっ! 本気で言ってんのかてめえ。命が惜しくねえようだな」
帽子の男が、挑発的な態度で言う。シリウスは頷いた。
「肯定ということで、受け取っていいな? よし、じゃあやろうか」
しっかりと確認した上で、刀身を抜いた。青年も、両短剣を抜いて構える。
三対二。数だけを見れば、間違いなく相手に分があるだろう。しかしシリウスは逃げようとはせず、青年もそんなシリウスを止めない。
男たちは余裕の表情で、下卑た笑みを浮かべる。
だが、余裕なのは、二人も同じだった。
「お前が戦える奴でよかった」
シリウスはそう言って、あの奴隷屋でこの青年と出会えた偶然に、改めて感謝した。
+ + +
「あんま、荷物にならない程度にもらっとけよ」
「はい」
小鳥のさえずりが、かすかに響く。
大仰な格好で気絶をしている男三人から、約束通り戦利品をあさるシリウスと青年。武器は持ち歩きに不便だから見逃すとして、あとは財布の中身と、売れそうと判断した品をそれぞれ懐に収めた。
「よっし、こんなもんでいいか。そっちは?」
「はい、こちらも十分かと」
「お疲れさま」
従者の働きを労い、ぐっと身体を伸ばしたシリウス。もう用が済んだ男たちには目もくれず、引き続き都市を目指すために足を動かす。
「しっかし、暑いな」
「そうですね」
「街に着いたら、なんか冷たいものでも食べたいな」
「はい」
「どういうのがあるんだろうな。何か知ってるか?」
「……」
白髪の青年は記憶の中から検索し、浮上したものを教えた。
「半分凍ったゼリーの中に、細かく切った果物が入ったデザートがあった気がします」
「マジで? おいしそうだな。着いたら食べるか」
「はい」
「その前に、まず宿屋が空いてるといいんだが」
「はい」
「お前、ほんと物知りだよな」
「ありがとうございます」
「あの奴隷屋に入る前は、どんな暮らしをしていたんだ?」
青年は、すぐには反応しない。だが戸惑っているわけでも、困っているわけでもない。
道を踏む音と蝉の声が、答えるまでの間を埋めてくれる。青年は眉一つ動かさず、忍びやかに息を吸う。
「失礼ですが……」
白い髪を揺らして、ゆっくりとまばたきをする。
「聞かなくとも、もう察しているのではないでしょうか?」
青年からの問いのような〝回答〟に、シリウスは何も返さない。
ただ楽しそうに、笑うのみであった。




