ゴーグルの男 6
手を離したゴーグルの男は、一度だけ、仰向けに倒れたままのシリウスを見た。苦しさから解放されて咳き込む青い目の者に、何かを言いたそうに口を泳がせるも、結局そんな時間は設けられず、とにかくシリウスから遠ざかった。
憤怒と憎悪が込められたライファットの左腕は、時に突き、時に鞭として殴りかかる。伸縮自在に蠢く衝撃は男を退け、頬や手などに傷の数を増やしていく。苛烈極まるその気迫に、男は確かに押されていた。
「……」
刃が、男の右肩を更にえぐった。その瞬間、血しぶきを上げているにも関わらず、えぐられたほうの手を動かし、生々しく変形されたライファットの左腕を無理やり掴んで引っ張った。
「っ!」
強く引き寄せられたが、それを利用して刺してやろうと、クナイを隠し構える。
だが、そんな企みなど知らない男は、ライファットの怒りに燃える赤い両眼を覗き込むように顔を近づけて、静かにこう言った。
「おめえ……人間が好きなんだな」
「…………は……?」
ガツンッ! と、骨と骨がぶつかる激しい音が響いた。男による頭突きである。
さすがに堪ったものではないと、ライファットは額を押さえながらふらつき、そのまま倒れてしまった。
「……幸せなんだな、おめえは。人が好きってことは、それだけおめえにとって、イイ奴と出会えたってことだろ?」
ライファットは、答えない。答える余裕もない。
「おれも……」
額から血を流すライファットとは反対に、じんわりと赤く滲ませる程度の男は、同情や憐れみ、そして悲しみを漂わせる表情で、横たわる若い人狼を見おろす。
「俺も〝あの子〟にとって、そういう存在になりたかった」
長く、綺麗に伸びた男の刀が、ライファットの瞳の中で残酷に輝く。
やめろ、と遠くからケンフェルの叫び声が聞こえる。
ライファットの口が、ゆっくりと開いた。自然と頭に思い浮かぶのは、自分にとって最もかけがえのない人物の顔。
これからもずっと一緒にいたかった青年。
彼との記憶が、走馬灯として流れた。
そのとき。
「……っ!」
ライファットの瞳から刀の光が消え、別の何かが視界を覆うように現れ、影を作る。
白い服に、黒い髪。とてもよく見覚えのある背中。
大切な、主人。
「シ……リウ、ス……さ……」
シリウスが、ライファットを迫うために、両手を広げて立ちふさがっていた。
「やめてっ!」
刀の風圧が、シリウスと男の間に激しく巻き起こる。
シリウスの頭部を叩き割るかと思われた一撃は、ぎりぎりのところで留まった。
「お願い、もうやめて……! 誰も傷つけないで!」
男を止めたのは、レガシーの一言だった。その近くには、人員の欠けた警備隊の中で、急遽編成された狙撃隊が銃を構えている。
シリウスは、すぐ間近に迫る刃と男の黒い両眼を前にして、短くて苦しい呼吸を何度も繰り返す。己を狙う殺人鬼から、小さく身を隠して息を潜めるように。
汗が流れているはずなのに背筋は異様に寒く、今何か音を立てたら殺されてしまうと、そんな心情のまま黙って立ち尽くしている。
自分のうしろにいる、たった一人の従者だけは見捨ててたまるかと。それだけは強く、胸に抱いて。
「レガシー……お前……」
ケンフェルが、ようやく駆けつけた応援部隊を見る。ゴーグルの男も、狙撃隊と、その付近に立つ娘に目を向けた。
そして、
「……エレジーちゃん?」
男は、そう小さく言った。
「エレジーちゃん、何してんだよ? こんなところで」
「……えっ?」
自分のことを言われているのかと、レガシーは戸惑う。
男はシリウスから刀をゆっくり離すと、肩に担いで親しげな口調で続ける。
「わざわざ来ちゃったのか……。心配しなくても、おれは平気だよ。安心して待ってな」
「え、えっと……」
「〝あいつ〟も必ず、おれが見つけるから。ったく、どこまで迷子になってんだかなぁ」
「……」
やれやれといった様子で頭を掻く男に、どのような返事をしたらいいのかと、全く理解できないレガシーは言葉に詰まってしまう。
男は、周囲を見回した。自分にとっての敵の数が増えたことを認識し、仕方ないと鼻で息を吐く。
「あの子の前で人は斬れねえし、もうやめにするか」
「……え?」
ここでようやく、シリウスが声を発した。それに気づいた男がこちらを向いたので、びくっと肩が跳ねる。
「あ、そうだ。おめえよぉ……」
「……」
激しい鼓動を重ねるごとに、汗の量も増えていく感覚に襲われるシリウスは、男からの次の言葉をただ待っている。
しかしその瞬間、うしろにいたライファットがシリウスの身体を強く引いて後退し、次にケンフェルの号令が響いた。
「撃てえ!」
狙撃隊が、たった一人を目掛けて一斉に発砲する。
あちこちに怪我を負っているにも関わらず、底なしの体力と俊敏さで避けた男は、最後にレガシーを見て大声で告げた。
「わりい、エレジーちゃん! 家まで送ってあげられないけど、気をつけて帰れよ! おれはもう少しあいつを探して回るから、エレジーちゃんは〝おっちゃん〟と一緒に待っててくれ!」
じゃあな! と無邪気に手を振った男は、そのまま逃走した。
あとを追いかけようとしたケンフェルだが、狙撃隊の者に止められてしまう。
レガシーは、胸の前で両手を合わせながら呟く。
「私を、誰かと間違えてる……?」
男が呼んだエレジーという名に、心当たりはない。ただ一つ、なんとなく伝わったのは、あの男にとってエレジーとは、特別な人かもしれないということ。
少しの間その場に立ち尽くしていたレガシーだが、ようやくハッとして、急いでケンフェルのもとまで駆け寄る。
「ふ、副隊長っ! 大丈夫ですかっ!?」
「……ああ、問題ねえよ」
「……よかった……。本当に、よかったよぉ……」
「お、おい、泣くんじゃねえ。お前も遵行隊だろうが」
無事を確かめて素直に泣いてしまったレガシーを、ぶっきらぼうに慰めるケンフェル。
そんな光景を離れたところから眺めていたシリウスは、ようやく安心できる状況になったと、崩れ落ちそうな膝になんとか力を入れて、両手を太ももに置くが、
「……あっ! そうだ、お前……!」
ライファットが怪我をしていたことを思い出し、慌てて振り向く。しかしそれとほぼ同じタイミングで、勢いよく胸ぐらを掴まれた。
驚くシリウスをよそに、ライファットは呼吸を乱してうつむいている。
「シリウスさん、あんたっ……!」
怒気をはらんだ息遣いと目つきが、シリウスを容赦なく捉える。普段では考えられない、従者とは思えぬ粗暴な態度に、主人は言葉を失くした。
「あんた、何してるんですかっ!? 俺には自分のことは守らなくていいとか言ってたくせに、どうして俺を庇うような真似をしたんです!?」
「あ、いや、それは……」
無我夢中で身体が動いた結果に過ぎないと、シリウスの主張はそれに尽きる。だがそんな理由で納得するわけがないと、言われなくとも察した。
「あんたに何かあったら、死んでも死にきれないんですよこっちは!」
「そ、それは俺も同じ……」
「二度としないでくださいっ!」
「……」
「返事は!?」
「…………はい……」
困惑しながら出た声は、なんともか細いものだった。
すると、喧嘩だと勘違いしたレガシーが慌ててこちらまで走ってきて、そのうしろからケンフェルも歩いてくる。
「ど、どうしたの二人とも!? 大丈夫!?」
「いや、まあ……。大丈夫だよ、レガシーちゃん」
「てかライファットさん、おでこ! 血が出てるよ!」
「……ああ……」
そういえばそうだったと、シリウスから手を離したライファットは、煩わしげに血を拭う。レガシーがハンカチを差し出すが、汚れるからいいと断った。
「……白髪、お前……」
と、ここでケンフェルがライファットを見た。いや、ライファットというよりも、彼の左腕を気にしているようだった。
「なんだ」
「……」
「……あっ」
ふてくされた返事をするライファットと、無言のケンフェル。そして、何かに気づいたシリウス。
今はもう普通の腕の形に戻っているので、狙撃隊およびレガシーにはバレていないが、ケンフェルだけははっきりと目撃していた。ライファットが人狼の能力で、ゴーグルの男と戦っていたところを。
……人狼がまともに生きていくためには、正体を隠して人の生活に溶け込む必要がある。
〝害悪種族〟と蔑まれているだけではなく、人狼が体内に宿す煌核は、人間から〝命の輝石〟と呼ばれ、過去に争いが起こるほど求められていた。煌核は主に医療現場で重宝され、個人で欲する場合はとんでもない金額で売買されていたりもする。
この大陸において人狼とは、奴隷の次に、場合によって同じくらいに命の価値が軽い。人狼だと知られただけで大陸遵行隊に捕まり、二度と帰ってこなかった事例もある。
そしてケンフェルは、その大陸遵行隊の者だ。
「……副隊長」
呼ばれて見おろすケンフェルを、鋭い顔つきに変わったシリウスが見上げる。
「今回のことでチャラにしてくれ……っていうのは、きっと通用しないんだろうな。俺らが勝手にしたことだし。でも、あんたがその気なら、こっちも容赦しねえぞ」
「……」
「し、シリウスさん? どうしたの?」
何故か睨み合う二人を前に、レガシーが少し怯える。頭が上手く回らないライファットは、関係ない方向をむいて疲れた顔をしていた。
「……」
「……」
「…………。ふぅ……」
しばし睨み合いが続き、やがてシリウスの視線から離れたケンフェルが、ため息と共に仰ぐ。
日没が過ぎ去った暗い空には、戦いを終えた人間をそっと労うような、控えめな星がぱらぱらとちらついている。しかしそれだけでは物足りない光を、満月が強く輝くことで補っていた。
「……お前のような人間も、ちゃんといるんだな」
「……? なんか言ったか?」
「いや、なんでもねえよ」
聞こえなくてもいい独り言だと、勝手に流すケンフェルに、シリウスが眉を寄せていると、
「あ、イグリ」
ライファットが、駆けつけたイグリに気づいた。
萬屋の依頼で【8番都市】を離れていたイグリは、つい先ほど戻ってきて、騒動を知った。
「お前……。その額はどうした?」
「別に、ちょっと転んだだけだ。……はあ。おいしい肉料理でも食べたら、こんなのすぐ治るんだけどな」
「……奢れと言っているのか?」
会った途端にわがままを漏らす歳下に対して、イグリは若干しかめ面を浮かべる。
「あっ、イグリさん!」
すると、ちょうどケンフェルに隠れてイグリからは見えていなかったレガシーが、挨拶も兼ねて傍まで寄る。
それに気づいたイグリは、
「げっ……!」
なんともらしくない驚き方をした。
「こんばんは! イグリさんは巻き込まれなかったんだね、よかったぁ」
「こ、こんばんは……。レガシーさんも、無事で何より……」
「うん……、いったんは終わったって感じかな。ただ犯人は捕まえられなかったから、またどこかで被害が出るかもしれないけど……」
「ああ……」
「またこの都市に来たら、次は私が!」
「そ、そうか……。まあ、その……あまり無理をせずにな……」
会話の中で、イグリは一度も彼女と目を合わせようとしなかった。それは男としての照れではなく、苦手な人を相手にしたときの気まずさに似ていた。
「おいレガシー! 支部に戻るぞ!」
ケンフェルに呼ばれて、レガシーが返事をする。
ライファットについて言及をするつもりがないのか、そのまま帰ろうとするケンフェルに、シリウスが念のため声をかけてみる。ケンフェルはちらりと振り返ると、ふんと鼻を鳴らして背中を向けた。
「シリウスさん、ライファットさん」
見逃してもらえるのだと悟り、ぽかんと口を開けるシリウスと、イグリに額の傷を心配されていたライファットに対して、レガシーは頭を下げる。
「私が頼ったせいで、危ない目に遭わせてごめんなさい……。無事でよかったって、私が言える立場じゃないかもしれないけど……。でも、二人とも、本当によかった」
「気にすんな。人に頼まれたとしても、最後にそうしようと決めたのは俺たちだから。レガシーちゃんは……、そう。選択肢の一つを提示しただけ」
「うん……」
それでも落ち込む心が消えない彼女に、シリウスはお詫びの手段を提案した。
「じゃあ、支部で言ってたこと、覚えてる?」
「えっ、支部で?」
「みんなで飯食おうってやつ」
「……あっ!」
「レガシーちゃんは近いうちに無理やり時間を作って、それに参加すること。どうだ?」
「……うんっ!」
ぱあっと明るい表情を取り戻したレガシーに、満足そうに頷くシリウス。
「それでいいよな? ライファット」
「はい。当然、イグリも強制参加だからな」
「待て、なんの話だ?」
「あっ! じゃあ副隊長も一緒にどうですか?」
「断る。お前たちだけで勝手に行け」
「なら奴隷屋と萬屋、そんで遵行隊の交際費ってことで、支払いは副隊長にツケとくか」
「ふざけんな奴隷屋!」
怒鳴るケンフェルを、からかうように笑うシリウス。ライファットも安堵の息を吐いて、最後にイグリの足を無意味に蹴った。
いつもとは違う、シリウスにとってなかなかに危ない一日。しかしそれもようやく終わり、また元の日常に戻る。
この日常こそが何よりも望むものであり、最も維持が難しいものでもある。
『身内』と、仲の良い者と、新しく知り合えた者。
いつかこれらが、思い出という名の花束になって、幸せに抱えて眠りにつくまで。
シリウスの日常は、まだもう少し続く。
+ + +
……馬車を通すために都合よく開いていた城門から【8番都市】を抜けた、ゴーグルの男。
しばらく歩いて離れたところで、足を止めて振り返る。
「いやー、楽しかったなぁ。骨のある奴と戦えて。あの金髪も、白髪の人狼も。エレジーちゃんがいたのにはびっくりしたが……」
印象に残った、記憶力の悪い自分が覚えている限りの人物を回想する。
そして最後の一人を浮かべたとき、顎を触ってふと夜空を見上げる。
「あの黒髪に青い目の奴……なぁんだろうな。どっかで会ったことがあるような、そうじゃないような……。〝おっちゃん〟になんか言われたんだっけ? でも、なんだったかなぁ……?」
〝……いいか、よく聞け〟
〝もし、お前がこのカレスティア大陸を巡っている中で、黒い髪に青い目を持つ、シリウスという名の男に出会えたなら〟
〝その者をどうか、お前の言う『十一人』に含めてほしい。そして……〟
〝必ず生かした状態で、私のもとまで連れてこい〟
「……ま、思い出せねえし、いっか」
すっぱり諦めた男は、ポケットに手を入れる。中から出てきたのは、袋などを介さず、直に突っ込んだ状態のコーヒー豆だった。男はそれを口に放り投げると、ぼりぼりと嚙み砕く。
「さて、次は南にでも行ってみるか。迷子のあいつも見つけなきゃいけねえし、おれってば忙しいぜ」
どこか自己陶酔するような笑みで、男は片方だけヒビが入ったゴーグルを装着し、鼻歌を歌う。強い風が吹いて起こる地吹雪など物ともせず、暗い夜の世界を歩いていく。今日も星が綺麗だなぁと、のんきに喜びながら。
そんな男の頭上で、流れ星が落ちた。すっと細い線を描く星は、男が歩くほうとは逆の道へと向かう。【8番都市】を越えた更に北を目指して、美しくも寂しそうに、伸びていった。




