キトリーの日記 2
「シリウスさん、何さぼってるんですか」
ひょこっと扉の向こうから顔を出したのはライファット。その手には、モップが握られている。
ああ悪い悪い、と足を組みながら椅子に座るシリウスは、本を閉じて机の上に置いた。
「なんの本ですか? それ」
「日記だよ。キトリーの日記」
「キトリーって……、前に売れた奴ですよね」
「そう。そいつの日記が残ってたんだ」
出ていくときに忘れたのか、それともわざと置いていったのか。どちらでも構わないが、今のシリウスにとって息抜きになったのは確かだ。
「早くやっちゃいますよ。じゃないと、跡がこびりついて取れなくなる」
「はいはい、わかってるよ」
ライファットに叱られて、シリウスも近くに置いたもう一本のモップを取って立ち上がる。シリウスがいたのは、キトリーが自室として使っていた部屋だった。
「『処理班』、早く来るといいですね」
「だな。ここじゃ換気できないから、さっさとしないと臭いがこもっちまう」
二人は、奴隷たちの食堂兼リビングへ歩く。
改めて現場を見た。
命とは、人間とは鉄くずによって生成されていたのかと、常識が塗り替えられそうなほどの臭いがどろりと充満している。
壁や床、家具にべったり飛んで広がった赤い空間は、まだ完全に乾ききってはおらず、推測するに昨日のうちに作られた。
どうやら一人の奴隷が躍起になって、ここにいる全員を皆殺しにしてしまったらしい。
【三号】と書かれた首輪をはめた奴隷が壁にもたれかかり、腹部には包丁が深く刺さっている。他の死体にも刺し傷や切り傷があり、逆にそれ以外の損傷がなかったため、この包丁ひとつでおこなわれたのだろう。
おそらく、【三号】が実行犯。そしてその後、自ら命を絶った。
「こいつ……、マルセルか」
よくも大事な商品たちをかっさらってくれたな、とシリウスは【三号】の前にしゃがんで文句をたれる。とっくに生気を失くした真っ白なその顔は、かすかな笑みに歪んでいた。
シリウスはそんな彼を忌々しく思うこともなく、哀れに思うこともなく、ただじっと見つめるだけに終わった。
【二号】と書かれた首輪の、ヨーン。
【六号】と書かれた首輪の、ロレッタ。
その他、解放を待ち続けた奴隷たち。だが彼らは、別の形で〝自由〟を手に入れるはめになった。望んでも望まなくても、彼らはもう、この地下と首輪に囚われることは、永遠にない。
白目を剥き、血の泡を吐き、真っ赤に染まる五つの死体。
例の『死体処理班』たちがこれらを欲しがるかはわからないが、さっさと片付けないと、また新しい奴隷を仕入れることもできない。
「まあ死体愛好家のあいつなら、喜んで飛びつきそうですけどね」
「でもあいつ、〝なんで現場保存しておいてくれなかったんですか!?〟とか言ってきそうだなぁ。こういう血生臭いところ好きだし」
「確かに言いそうですね。面倒だ」
奴隷たちに包丁を持たせる危険は重々承知だが、もし今のやり方を変えると、毎日の食事をシリウスたちのほうで用意しなければならない。その手間を考えると、やはり今のままでいい。
次また連れてきた奴隷には、今回のことを教訓としてよく伝えておけば、きっと迂闊な行動はとらないだろう。
〝自分は人間だ〟という認識がある以上、大抵は死を怖がり、拒むはずだ。
さて。自分たちも早くここから出ないと、嗅覚がおかしくなってまともな食事が摂れなくなる。それだけはしっかりと感じたシリウスは、形ばかりの軽い黙祷を済ませ、ただ無駄に重いだけとなった肉のかたまりを雑に掴んだ。とりあえずこれらは邪魔なので、まずは一ヶ所の部屋に押し込むことにする。
「なあライファット」
「なんですか?」
「これが終わったら、良いもん食おうぜ」
「それは楽しみです。何にしますか?」
死体をずるずると引きずりながら、食べ物の話をする二人。良いものと言われると、ステーキやピザといった料理が思い浮かぶが、シリウスが提案したのは……。
「マンゴー」
「……マンゴー、ですか?」
まさかの果物に、ライファットは思わず首を傾げる。しかし聞き間違いでも言い間違いでもなかったようで、うんとシリウスは頷いた。
「俺も、ちゃんとした海の味を知りたくなった」
「海の味……ですか」
「ああ」
「……シリウスさんが海について触れるなんて、珍しいですね。まあ、あんたがそう言うなら」
「ああ」
「でも、ちゃんとご飯も食べたいです」
「ああ、わかってるって」
にっと屈託のない笑顔を浮かべたシリウスは、キトリーが見惚れ、憧れを遠くに映した青い目を、静かにゆっくりと開閉した。
「キトリー。お前だけはまだ、まともな夢が見れるだろうよ」




