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奴隷屋の日常  作者: 坂牧 祀
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キトリーの日記 1


 ▼日記 八十四日目 本日は曇りとする。


 マルセルが、泣いていた。彼は今いる私たちの中で、一番新しく入ってきた奴隷だ。けどここへ来てもうそこそこ日が経つはずなのに、未だに恐怖と動揺に(さいな)まれて、気が気ではいられないらしい。

 年長者のヨーンおじさんが、マルセルの背中を撫でてなんとか落ち着かせていた。慰めの言葉もかけていたけど、なんでそんなのんきなことが言えるんだ、と逆に心を叩いてしまったみたい。


 彼はやけくそ気味に、はめられた首輪をはずそうと顔を真っ赤にしていたけど、それは無理なおこないだ。

 最初に説明を受けたはず。この黒い首輪は中に薄い刃が仕込まれていて、下手に触ろうものならその刃が喉を突き刺してしまう。それで死んでしまった人がいるのを、私は知っている。

 しかも脱走とか反乱とか、そんなことを起こそうものなら当然殺されるし、たとえ計画に加担していなくても、適当に誰か選ばれて道連れにあってしまう。つまり、連帯責任のようなものも負うはめになるのだ。

 なのでいくら自分がおとなしく過ごしても、誰か一人が余計な策を講じると、他のみんなにも迷惑が及ぶ。今の現状に甘んじてるわけじゃないけど、それだけはどうしても避けたい。だからヨーンおじさんもしつこく慰めているんだと思う。


 マルセルは、一日中落胆し続けていた。気持ちはわかるけど、いつかどうにかなると思うから、我慢してほしい。




 ▼日記 八十五日目 本日は曇りとする。


 みんなが使うキッチンの包丁を研いでいるとき、ふと思った。もしここで、私がよくわからない感情があふれたふりをして、この包丁を〝ご飯を作る物〟じゃなくて〝人を傷つける物〟にすり変えてしまったら、と。

 そうしたら確実に、私は処分されるだろう。でもここまで来ると、死に対する意識がぼやぼやとしたものになってくる。

 この閉鎖された地下部屋に埋れているのは、不安と堕落、順応、そして無心。そう、ここに死なんてものはなかった。もちろん私たちにだって命は入っているから、放っておいても消滅のときを迎えるだろうけど、それ以外の理由で、ここに死はなかった。


 ならば、どうだろう? 私が〝死〟を作ってみるのは。


 もちろん、本当にそんなことはしない。ましてや常に、そんなことを考えて過ごしているわけでもない。でも昨日のマルセルのこともあり、ちょっと考えてしまう。

 人には誰だって感情の起伏(きふく)がある。理由もなく世界は幸せだと思うときがあれば、誰かに悪口を言われたわけでもないのに、途方もない黒い霧が心を覆うときもある。

 今日の私は、なんとなく後者だった。けどまあ、そういう日もあるだろうって、特に気に留めなかった。明日になれば、きっと元通り。


 頭の中の犯罪は、いくらやっても所詮は無罪。このあと私は、みんなを殺しながら眠ってみようと思う。




 ▼日記 八十六日目 本日は雪とする。


 なんとなしに食堂へ行くと、ヨーンおじさんが絵を描いていた。真剣に、でも柔らかな横顔をしていたものだから、私は思わず息を止めて、そーっと通り過ぎようとした。でも、結局気づかれた。

 観念して、何を描いているんですか? と私が聞くと、おじさんは見せてくれた。太陽と月、青空と夜空がごちゃまぜになった絵だった。

 それは私の知っている空ではないけれど、記憶の中にある〝空〟というものが、もはや不確かな存在になってくる。だから私はただ、綺麗ですねと言ってみた。


 そしたら、おじさんは言った。今でも空は青いのかな? と。


 その答えを、私は持っていない。私たちみんな、それぞれ答えを持っていたはずなのに、今では手の中からするんと抜け落ちてしまっている。

 もしかしたら知らないうちに何かしらの天変地異が起きて、今の空は黄色くなっているかもしれない。緑かもしれない。ひょっとしたら茶色もありうる。

 まさに〝色々な〟可能性が広がっているから、それを考えているうちに私は自然と、どうでしょうね、と笑っていた。何故だか心がわくわくした。

 ヨーンおじさんはそんな私を見て、一緒に笑ってくれた。そして言った。愚問だった、と。


 実際、どうなのだろう。今でも空は青いのかな? その答えを知る日が、いつかは来るのだろうか。




 ▼日記 八十七日目 本日は雪のち晴れとする。


 今日は、ご主人さまが下りてきた。また一週間ぶんの食料を持ってきてくださったのだ。

 ご主人さまの名前はシリウス。私はこのシリウスという名前が、密かにお気に入りだった。声に出してなぞってみると、まるで長く伸びた夏草の上をすらりと走る風のような、嗅いだことのない海のような匂いを勝手に感じていた。

 それはきっと、あの人が本当に綺麗な青い目を持っているからだと思う。海とは青く輝くものだと、死んだ祖父から聞いた。

 あと、あの人の髪は真っ黒だ。私が生まれ育った都市では、黒髪はカラスや黒猫と同じ、不吉の象徴だとされていた。近所だった黒髪の女の子は、それが理由でよくいじめられていたものだ。私は自分もいじめのターゲットに含まれるのが怖くて、ずっと見て見ぬふりをしていたけど。


 でももしかして、その考えを持っていたのはあの都市だけだったのかな? だってご主人さまは黒髪を隠すことなく、いつだって平然とした顔をしている。相手が私たちだから、奴隷だから別に怖くないとか?

 ご主人さまを見ながらそんなことをぼんやり思っていると、不意に目が合ってしまった。私はびっくりして、何事もないように視線を逸らした。

 するとご主人さまは、何か要望でもあるのか? と尋ねてきた。

 ご主人さまは私たちを奴隷という商品として扱ってはいるが、ここで暮らしている間、小さなお願い事は大体聞いてくれる。一週間に一度食料を運んでくるから、そのときがチャンスだ。ヨーンおじさんが絵を描いていたのだって、先週画材が欲しいと言って与えられた物だ。

 私は、とっさに考えた。特に何か欲しい物があったわけじゃないけど、ここで何か言わないともったいない気がしたから。


 そうして出た答えは、海、だった。


 海が欲しい、海が見たい、海の匂いを知りたい。そう、口走ってしまった。

 ご主人さまは、青い目を少し大きく開いて黙り込む。綺麗な青がより一層はっきりと見えて、私は今自分が言ったことをすぐに忘れて、惚れ惚れとした。

 やがてご主人さまは困ったような声を漏らして、それは無理だな、ときっぱり断った。まあ、そうですよね。


 しかしなんとそこから少しして、再びご主人さまがやってきた。商品として呼びに来たわけじゃないみたいだったから、みんな疑問に思った。

 ご主人さまは私を呼ぶと、一つの果物を渡してきた。マンゴー、というものらしく、聞いたことのない初めて見る果物だった。いわく、これは南のすごく暖かい土地で育つもので、海の果実として知られているらしい。


 海は渡せないけど、これが多少なりとも役目を果たしてくれるはず。


 なんだかとてもロマンチックな一言を残して、ご主人さまはまた戻っていった。奴隷でなければ、気軽に恋に落ちていたかもしれない。


 みんなで、たった一つのマンゴーをまじまじと見つめる。リンゴのように赤く熟したそれをおそるおそる切ってみると、中は強烈なオレンジ色に満たされていた。

 みんなに行き渡るように切り分けて、一口いただく。じんわり噛み潰す甘い果汁と、うっとりのぼせてしまいそうな舌触り。魂がひとつ、追加された気分に陥った。


 そして知った。ああ、なるほど。これが海の味なのか、と。頭の中が熱烈に焦がれる。

 私はまだ見たことのない海という世界に、ありったけの憧憬(どうけい)(いだ)かずにはいられなかった。




 ▼日記 八十八日目 本日は晴れとする。


 たまたま食堂に私しかいなかったので、お気に入りの紅茶を淹れて一人で飲んでいた。

 カップの中に揺れる、本当に小さな紅色(べにいろ)の世界。その中に映る、自分の顔を見つめる。改めて思った。私はこんな顔を貼って、ずっと生きていたんだなって。

 見せたい人がいるわけでもないのに、最低限の許された化粧を塗りたぐる。誰かが私の自由をお金で買い取ってくれるまで、いつまでも待っている時間。


 前に、私以外で唯一の女性であるロレッタと、現実逃避のような未来の話を交わしたことがある。どういう男性がタイプか、とか。子どもは何人で、どんな名前をつけるか、とか。

 もちろん、楽しかった。その間だけは、街に住む普通の女性になれた気がして。

 私もロレッタも、家族に捨てられた結果ここにいるから、同情して慰め合ううちに仲良くなった。そして、幸せな家庭というものに夢を見た。


 そう、これは、あくまで夢だ。光のような絶望だ。でも私たちには、どうしても必要だった。

 あまり多くのものがないこの場所で、明日という胸騒ぎを抑えるために、本当に本当に、必要な夢なのだ。



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― 新着の感想 ―
「光のような絶望」という単語がとても印象的でした。 ずっと地下にいることで空に思いを馳せて絵を描くヨーンおじさん、日記のお天気は「とする」と書かれていて実際の天気は分からないという部分……地下での生活…
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