怒りのすい臓がん
しかし、突然、修一に嵐が襲ってきた。
九月も終わりになると、どうも体調のすぐれない修一が
「ここ2~3日、腹の調子が良くないんだけど、どこかいい病院がある?」尋ねると
「えっ、大丈夫?」彩花は心配したが、自分も南美も子供の頃からお世話になっている山城医院を紹介した。
「年取っているけど、いい先生よ。おばあちゃんの時もすぐに癌を見つけてくれて……」
「わかった。行ってみるよ」
その日の午後4時、修一が山城医院に出向くと
「お前か、彩ちゃんと南美ちゃんを捨てた薄情な男は……」70歳くらいの年老いた先生に睨まれ
「えっ、いや、そんなつもりは……」彼は慌てた。
「まあいい、座りなさい。」
医師は、上半身裸になった修一に聴診器を当てた後、触診を始めたが右わき腹あたりで手を留めると、
「うん?」顔をしかめて、上から下へ、下から上へ、何度も指で押さえながら、そのたびに「うん?」と言いながら表情を曇らせ、首を傾げ、まさにここに何かがあると言わんばかりだった。
「ベッドに横になりなさい」
仰向けで触診された後
「右を上にして」
「は、はい…… 」
「うん?」先ほどと同じ個所を抑えながら
「まずいぞ…… おーい、血液検査だ」
医師が奥にいる看護師を呼びつけると、慌ててやって来た看護師が採血し、再び奥に入っていった。
その様子を呆然と見つめていた修一が
「先生、悪いんですか?」たまりかねて尋ねると
「うーん、おそらくすい臓をやられてるな」医師が表情を曇らせた。
「えっ、癌か何かですか?」
「うーん、血液を調べてみないと何とも言えんが、おそらくステージⅣ、でも、もしⅢなら治るかもしれん…… 」医師が目をそらして唇を噛み締めると
「そ、そんな…… これからなのに…… 」修一はうなだれたまま全身の力が抜けていくのを感じた。
「血液を調べるからちょっとだけ待ってくれ」
医師が奥に入っていくと残された修一の瞼に涙が浮かんだ。
やっとたどり着いた幸せの入り口、幸せはここから始まると思っていたのに、突然の癌宣告、彩花の笑顔が脳裏をかすめ、南美の笑顔がフェードアウトしていく、
「くそっー、やはり俺の人生はこんなものなのか…… 」
しばらくして、帰って来た医師が
「残念だが、すい臓がんステージⅣだと思う。彩花に連絡しようか?」と低い声で尋ねると
「いえ……」修一は唇を噛み締めて俯いてしまった。
「そうか、じゃあ、この紹介状をもって、明日、大学病院へ行ってくれ、わしの見立て違いと言うこともあるからのー、もう一度詳しく調べてもらってくれ」
医院を出た修一は、車に乗り運転席に腰を下ろしたが、ハンドルを握ったまましばらく動くことができなかった。
医院の壁を見つめたまま涙を浮かべた瞼に、初めて南美に話しかけられた時の光景がよみがえって来た。あの子が自分の娘なのかと思うとふと涙の下で笑みがこぼれたが、それも長くは続かなかった。
唇を噛み締めたまま俯いた彼の瞼から涙がこぼれ落ちる。
これまでの人生の中でこれほど辛い記憶はなかった。
かつて17年前、彩花が突然姿を消した時は、辛いというよりはただ茫然として、時を過ごしてしまった。その後の人生も流されるように生きた彼にとって、この上ないような幸せを感じることは無かったが、辛い思いをしたことも決してなかった。
しかし、彩花と再会し娘がいることを知った彼は、ここからの人生に大きな夢を膨らませていただけに、この癌宣告はあまりにも無慈悲で残酷以外の何物でもなかった。
何も考えられないまま、車をスタートさせた彼は、近くのカフェに入り懸命に何かを考えようとしていた。
大好きなコーヒーも全く味がわからず、彼が唇を噛み締めたまま一点を見つめていた時、離れた席で、受験の話をしていた二人のJKから『大学』と言う言葉が聞こえて来ると、
(そうだ、南美ちゃんの大学のお金…… いや、二人が楽に暮らしていけるようにしておかないと……)
はっとした修一脳裏をそんなことがよぎった。
(俺のもっているものをとにかく二人に行くようにしないと…… いくらくらいあるんだ? 場合によっては由紀子に頭を下げるか…… 彼女ならわかってくれるだろう)
そこまで考えてしまうと、彼はその情けなさに唖然としてしまった。
その時、彩花からの電話が入った。
修一は、呼吸を整えると平静を装って携帯を耳にあてた。
『もしもし、修一さん? どうしたの? 何かあったの?』彩花の慌てた様子が伝わって来る。
『いや、大丈夫、大したことは無いらしい……』
『良かった…… 先生に電話しても出ないし、何かあったのかって思って心配したのよ』
『ごめん、ごめん、なんかいろいろ検査されて疲れたから、いま、コーヒーを飲んでいるところなんだ。もうすぐ帰るよ』
修一が帰宅すると
「何か薬もらったの?」訪ねてくる彩花の笑顔が彼には切ない。
「大丈夫、胃薬もらってきた」
「そう、良かった。あの先生に診てもらったんだから大丈夫よ」彩花は微笑みながらも修一が普通でないことを感じていた。
( 何かあったの? まさか…… 何かあるんだったら、先生が私に電話をくれるはず )
そう思った彩花は、無理やり不安を打ち消してしまった。




