癌宣告に秘められた思い
そして翌日、彩花が10時に店にやって来ると、表に臨時休業の札が出ていて彼女は慌てた。
「どうしたの? 調子が悪いの?」彩花が尋ねると
「彩花、すい臓がんらしい、ステージⅣ、もうどうにもならない」
「ええっ! ど、どうして……」
「ごめん、これからって思っていたのに、ごめん」
「修一さん、間違いないの?」
「うん、先生が…… 」
「あそこで詳しい検査なんてできないでしょ」
「だから、今日、大学病院に行けって、紹介状をもらったんだ」
「じゃあ、行きましょうよ」
「済まない、昨日は一人で行こうかって思ってたんだ。でもだめだ、一緒に行ってくれるか?」
「もちろんよ」
1時間後、大学病院に出向いて指示された外来で待っていると、たくさんの患者が待っているにもかかわらず、すぐに診察室に呼ばれた二人は驚いた。
「どうぞ、奥さんおかけください」医師が難しい顔をして彩花に目を向けると
「いや、私なんですけど……」修一が不思議そうに言葉にしたが
「いや、奥さんに聞きたいんですよ」医師が軽蔑したような眼差しで言葉を投げ捨てた。
「え」
「奥さん、御主人が浮気でもしたんですか? 」医師が尋ねると
「えっ、いえ」彩花は頬を少し染めて頭を小さく振った。
「DVじゃないですよね」医師は彩花の顔を見回し、腕をとって目を凝らした。
「ギャンブルですか」
「ちょ、ちょっと先生、何を言ってるんですか」修一が語気を強めると
「これを見てくださいよ。あなたが持参した紹介状ですよ」
驚いた二人がそれを手に取ってみると
『 ははははっはは、なんでもない、ただの胃もたれだ』と書かれていた。
「ど、どう言うことですか、血液検査までしたのに……」
「医院には昨日行ったんでしょ」
「はい」
「それで、採血して、その場で結果が出たんですか?」医師の侮蔑が伝わって来る。
「はい、15分くらいだったかな……」
「あのね、個人医院で検査なんてできないですよ。どこかに依頼するから、結果が出るまでには3日くらいかかるんですよ。」
「えっ」
「そんなことも知らないんですか?」医師が顔をしかめた。
「はい、ほとんど病院とは縁がなかったもので……」
「もう、お義父さんにも困ってるんですよ」
「えっ、息子さんなんですか?」
「えっ、はい、あそこの一人娘を嫁にもらったもので……」
「ええっ、でもどうしてこんなことを……」
「あの人はね、腹が立つと、こうやって患者に心配させるんですよ」
「し、心配?」
「あなた、何か怒らせたんじゃないですか、浮気とか…… 」医師はもういい加減にして欲しいというような感じだった。
「ああ、なるほど、それでさっきはあんなことを聞かれたのですか?」
「ええ、何か原因があるはずですからね」
「先生、この人は何も……」彩花が口を挟もうとすると
「彩花……!」修一が遮ったが
「えっ、あなた、もしかして安藤ファームの彩花さんですか?」目を見開いた医師が身を乗り出した。
「はい」
「なーるほど、と言うことは、あなたは昔、身重の彩花さんを裏切った人ですか?」
「そ、そんな……」
「もう、お義父さんから何度も彩花さんのことは聞かされましたからね、飲むといつもあなたの話ですよ。『神も仏もない、なんであの子が……』って、実の娘のことより、あなたのことばかり心配してましたからね」
「は、はー……」
「まあ、その真偽はいいですよ。私も忙しいので、後はあの人と話してください」
「ええっ、でも大丈夫なんですか、どこも悪くないんですか?」彩花が心配していると
「大丈夫ですよ。あの人が触診したんでしょ」
「はい」
「医師としてはすごい人なんですよ、あの人が触診して、胃もたれだっていうんですから、間違いないです」
二人は呆気に取られて病院を後にしたが、修一は徐々にこみ上げてくる喜びを感じていた。
彩花は嫌がる修一を説得して、そのまま山城医院に向かった。
「先生、どういうことですか! 私は心臓が止まりそうでしたよ」
「彩花……」修一が彩花を制したが
「何だお前、彩花には知らせないって言ったくせに一緒に行ったのか?」山城は機嫌を損ねたようだった。
「は、はい、すいません」
「そうか…… まあ座れ」
「修一君だったかな」
「はい」
「私はね、この子が赤ちゃん時からずっと見て来たんだ。頭が良くてかわいい子でね、私の病院を継ぐんだと言って、大学まで決まっていたのに両親が事業に失敗してな、この子は大学を諦めたんだよ」山城が遠く一点を見つめながら語り始めた。
「はい、その辺りまでは聞いています。」
「この子が東京で仕事すると言って、出て行ってな、私は心配だった。それでもいい子だから神様はきっと見ている、この子は幸せになるって信じていたんだ」当時を思い出した山城は唇を噛み締めた。
「……」
「それなのに突然帰って来て、そのうちにはお腹まで大きくなってしまって…… 私は男に捨てられたんだって思ったよ。その男をぶん殴ってやりたかったよ」山城の無念が嫌と言うほど伝わって来る。
「言葉がないです」
「先生、この人は……」彩花が説明しようとしたが
「彩花、聴こう、先生の話を聴こうよ」修一が再び制した。
「それでも南美ちゃんが生まれて、昼も夜も借金返済のために働いていた両親が、借金払いが済んで帰って来て、これで少しは安定するかと思っていたら、1年もしないうちに両親は相次いで旅立ってしまって…… 」山城が目を伏せた。
「先生……」彩花も当時を思い出し瞼に涙が浮かんだ。
「それでもこの子は、祖母さんのキャベツ畑を手伝いながら、スーパーのレジ打ちをして南美ちゃんを大きくしてきたんだ。私はそれをずっと見て来たんだ」山城の医師の瞼に涙が溢れた。
「先生……」
「私はな、この子を捨てた男をぶん殴ってやりたいと思っていたよ」
「先生、違うんです」彩花が割って入ろうとしたが
「彩花」修一が三度彼女を制した。
彼は彩花を見守り続けてくれたこの医師の思いを聴いてみたかった。
「この子から電話をもらって、あんたを診て欲しいって…… 聞いたら南美ちゃんの父親だっていうじゃないか、私はね、どうせ、またいつか出ていくさ、そんなくそみたいな奴は何度でも同じことをするんだ、そう思ってね、空気でも注射してやろうかって思ったんだ」
「先生……」彩花は唖然とした。
「でもな、南美ちゃんの父親だし、彩花も今までに見たことが無いほど幸せそうだ……」
「……」
「いいじゃないか、ちょっとくらい…… 私の十七年の腹立たしさだ、なんかしないことには私だって腹の虫が収まらんのだ」山城は手の甲で涙をぬぐいながら懸命に話した。
「先生、違うんです。私がこの人の前から消えたんです」
「えっ……」愕いた山城は唖然とした表情で彩花を見つめた。
事情を聴いた山城は、驚いたが
「でもな、彩花、この男には、お前を信じさせてくれるだけのものがなかったんだろ、だからお前は消えたんだろ」
「だけど、先生……」
「信じ切ることができなかったお前にも非があるかもしれない。でも男と女のことで言えば、女を不安にさせた男が悪い。何がどうあってもこの男が悪い」
「先生……」彩花は言葉が続かなかった。
「先生のおっしゃる通りです。私も再会して、初めて彩香の気持ちを聞いて驚きました。『どうしてそんなことで?』って思いました。でもそう思わせてしまったのは私の責任です。あの時、私がもっと彩花に寄り添っていれば、何でもないことだったのかもしれません。でも、もう手放すつもりはありません。死ぬまで彩花を大切にしようと思っています」
「そうか…… 本当にそう思ってくれるのか……? 信じていいのか……?」山城が突然哀願するような眼差しを修一に向けた。
「もちろんです。絶対に幸せにします」
「そうか…… ありがとう。頼むよ、この子と南美ちゃんを頼むよ、お願いだ、頼むよ」
山城は涙を流しながら、修一の手を取ると何度も何度も頭を下げた。
(こんな人がいるんだ、こんなすごい人に彩花は見守られていたんだ…… )
そう思うと修一の瞼にも涙が浮かんだ。
医院を出て車に乗り
「ごめんね、あの先生には……」彩花が俯くと
「いいよ、あの先生の言うとおりだよ、でも、彩花があんなすごい人に見守られていたんだって思ったら、それだけで救われるような思いだよ」修一が微笑んだ。
「私がね、大学を諦めるって言った時、あの先生は『お金はすべて出してあげるから大学に行きなさい』って言ってくれたの…… 」彩花が昔を思い出して瞼が熱くなったが
「へえー、そこまで思われていたんだ…… でもどうして断ったの?」修一は不思議だった。
「お祖母ちゃんがね、『人生には流れがある。強引に流れを変えてもいいことにはならないよ』って…… 」
「でも、先生が手を差し伸べてくれたのだって、人生の流れじゃなかったの?」修一は自分だったら受けていたかもしれないと思っていた。
「私もそう言ったの…… そしたらおばあちゃんは『先生の好意に縋るということは負の財産を背負うことになる。大学に行けなくてもこのまま生きていけば負の財産を背負うことは無い』って……」
「負の財産か…… 」
「うん、『負の財産を背負うと必ずその代償を支払わなければならなくなる』って…… 『この苦難から逃げると必ずどこかでそれ相当の苦難に見舞われる』って……」
「それは、先生にどんな無理を言われることになるかもしれないっていうこと?」
「ううーん、あの先生がそんな人じゃないことはわかっていたの、おばあちゃんが言っているのは、例えば事故に遭うとか、病気になるとか、誰かに騙されるとか…… 『思いもよらないところで、その清算を迫られることになる』って……」
「先生に縋るのは負の財産を背負うから、自然の流れじゃないっていうことなの?」
「そう、おばあちゃんが言っていたのはそういうこと…… あの頃、よくわからなかったけどね、今はなんとなくわかるような気がする。決して楽じゃなかったけど、それでもここまで何とかやって来ることができたし、修一さんにも再会できたし、この人生で良かったんだって今は思っているよ」
「ありがとう、彩花がそう言ってくれるとなんか救われるような思いがするよ」
「そんな…… 私が逃げ出してしまったんだから…… でもね、親子って面白いわよ、南美ちゃんが私と同じこと考えてるの、医学部に進んであの医院を継ぐんだって……」彩花が微笑むと
「ええっ、南美ちゃんって、医者になりたいの?」
「そうなのよ…… だけどね、私と違うのはね、あの子は先生の申し入れを足蹴にしてしまったのよ」
「ど、どういう事?」
「先生はあの子にも大学に行くためのお金を出してあげるって言ってくれたんだけどね、あの子は『はあっー、じじいの愛人になれっていうこと!』って…… 」
「はははっはは」
「私も先生から聞いてびっくりしたんだけど、南美ちゃんも先生のことは大好きなのよ、だけどその話を明るく断ったのね」
「そう言えば、南美ちゃんもなんか人生の流れみたいなこと言っていたな…… 『お金がたまらなければ付属の大学に行けっていうことよ』とかなんとか……」
「あの子は、おばあちゃんに面倒見てもらっていたから……」
「なんか、すごい人ばかりだね……」
修一はそんな話をしながら、自分の周辺の色合いが全く変わってきたことに驚いていた。