一章 代償
…… 次の日 ……
『白百合総合病院』
時計の秒針が動く音が、ずっと部屋に響いていた。
私はそれが気になってしょうがなくて、早くこの窮屈な部屋から出たいと思った。
この背もたれのない、小さくて丸い黒い椅子に座らされて、どれくらい経ったのか。
多分、実際には五分、いや三分も経っていないだろう。
だがこの粘つく様な重力を伴った空気は、私の意識を確かにこの場所に金縛りにして、脳裏に刻み込む様に、一秒、一秒という名の釘を金槌で強く殴り付ける。
それが脳を激しく揺さぶり、酷く吐き気を催す衝撃で、頭がくらくらして、視界が歪むのだ。
だから私は時計の針の音が心底鬱陶しいと思ったし、早くここから出たかった。
縋る想いで、目の前に座った先生を見る。
先生は、沈痛な面持ちでカルテを見ている。
何かを探す様に視線が泳いでいる。
あるいは、最後の確認か。
やがて意を決した様にくるりとこちらを向いて、
「では、詳しい説明をしていきます」
そう前置くと少しずつ口を開いていく。
葉月の両目は、強い酸の様な物で焼かれてしまっていて、視神経が完全に死んでいた。
病院に着いた時には、半分以上が溶けている酷い状態だった。
このままでは感染症などのリスクも考えられたため、緊急摘出手術を施した。
要するに、失明。もう光を感じる事さえないそうだ。
隣で一緒に話を聞いていた、葉月のお母さん、祥子おばさんが泣き崩れた。
「何で……何で、あの子ばっかりこんな目に……! 何で……」
私はおばさんの背中にそっと手を置く。
先生が続ける。
全身が酸に焼かれていたが、最も酷かったのは右腕。
肘の先端から指先にかけて、その他の部位よりも濃度の濃い酸に晒されたと思われる。
壊死が深部まで浸透しており、これも感染症リスクの観点から、切除処置。
その他の部位は、自然治療で回復できる範囲。
緊急対応が良かった、と先生が私を褒めた。
すぐに水で洗い流したのが大きいと。
嬉しくも何ともなかった。
私が間に合っていれば、そもそも葉月が傷つく事なんてなかったのに。
ここで、一度先生は言葉を切った。
ハンカチで額の汗を拭いて、乾いた唇を舌で潤す。
不幸中の幸いというか、顔は、見た目ほど酷くはない、という様な事をおっしゃった。
「今は、化粧などで多少、目立たなくする工夫も出来ます」
言葉を慎重に選んでいる、という印象を受ける。
顔は、一見、ただれてはいるが、皮膚移植が必要なほどではない。
時が経てば、自然に治療出来ると思われる。
ただし、痕は残る可能性が高い。
思う、という言葉を使っているのは、先生にとっても未知の領域だかららしい。
作用としては酸に近いが、詳しい事は成分分析をしなければ分からない。
研究所の方に送って、解析を待つと言う。
漠然と、無理だろうな、と思った。
私は知っている。あの酸が、異世界のものだと言う事を。
恐らく、私達の世界の科学では解明出来ないだろう。
私とおばさんは先生にお礼を言って、部屋を出る。
おばさんはずっと泣いていた。
病室に続く連絡通路まで来て、ようやくおばさんは顔を上げた。
「ごめんね、時雨ちゃん。一緒に、来てもらっちゃって」
一目で分かる程に、疲れた顔をしている。
「いえ……いいんです」
「本当にごめん。時雨ちゃんも辛かったろうに……一人で聞く勇気がでなくてさ」
「元々、頼んででも行こうと思ってましたから」
「……私、色々と感情的になっちゃって、酷かったよね」
「気にしてません。私も、同じでしたから」
「ありがとうね。……時雨ちゃんが葉月の友達で本当に、よかった」
「そんな……それは、私が言う言葉です。葉月が友達でよかったって、今までも、そしてこれからも」
「……時雨ちゃんは本当にいい子だね」
おばさんは薄く微笑んだ。
「私……一度、帰るね。色々、取ってこなきゃいけない物あるから。良かったら、葉月に会ってやって……」
「はい。分かりました」
おばさんに別れを告げて、葉月の病室へと向かう。
連絡通路を渡り、階段を上がって三階へ。
受付で借りたIDを使用して病棟の中に入る。
そのまま道なりに進み、突き当りの丁字路を右へ。
(303号室……)
病室の前に立つと、少しだけ怖くなる。
しいん……とした、病院特有の空気が、行動するのを躊躇わせる。
胸から一つ、大きく息を吐く。
そして、コンコン、と二度、ドアをノックする。
「は、ひゃい! どうぞ……」
いつもと同じ返事。少し、安心する。
がらり、とドアをスライドさせて、中に入った。




