すれ違うのは、恋においては定番です
ヒュージェットさんが年寄りとは思えない身のこなしで部屋を出て行きました。
それからしばらく玄関の方でボソボソ何か話しているようでしたが、バタン、バタンと扉を開け閉めする音が聞こえたと思ったら、馬車は再び走り出したようでした。
ヒュージェットさんがにこやかな笑みを湛えてお部屋に入って来られます。
「お館さまが忘れ物を取りに戻られただけでした」
「私たち、ご挨拶もなしで良かったんでしょうか?」
「お忙しい方なので、気になさらずに。今日はお疲れになったでしょう。でもメイドもいないので、客間の支度ができないのですが」
私はメラニーさんと顔を見合わせてから口を揃えて言いました。
「馬小屋で十分ですわ! ヒュージェットさん!」
リネン室でシーツだけお借りしました。
「しかし、リーナ様……、いくら何でも」
「いいえ、ヒュージェットさん、リーナ様は台所の床で寝込んでおられることもよくあるんですよ。ワラのベッドなんて上等ですわ」
「やだわ、メラニーさん! 帳簿を見ていたら夜更かししてしまっただけなのよ。いつも台所の床で寝ているわけじゃないわ」
「あら、よく寝ておいでですよ?」
「も、もう! それよりもマシューくんはもう寝たかしら? 会えなくて寂しいわ」
ヒュージェットさんが足を止めます。
「マシュー?」
「ええ、金色の巻き毛に青い瞳のイケメンなの! 私、彼が大好きなんです!」
ガシャ、と屋敷の奥の方で音が聞こえたような気がします。
「今、何か音がしませんでしたか?」
「い、いえ、何にも。ね、メラニーさん」
「ええ、気付きませんでしたが。風の音では? リーナ様」
「ああ、そうかもしれません。建付けの悪くなっている窓がありまして」
ヒュージェットさんもそう言います。
そのまま、馬小屋へと来たのですが、扉についている紋章を見て、私は死ぬほど驚いたのです。
だって、獅子が二頭向き合い、その周りをつる草が絡みながら取り囲んでいるんですから!
ザッカリー家の紋章です!
「ヒュージェットさん……、このタウンハウスはもしかして、ザッカリー家の持ち物なんじゃあ……」
「いいえ、違いますよ、リーナ様。お館様のお名前はお教えできませんが、ここはザッカリー家のタウンハウスではありません。この紋章をよくご覧になってください。ザッカリー家のものはつる草ですが、当家のものは、ほら、竜でございます。パッと見がよく似ているので間違える方が多いんですよ」
確かにそうです。
「でも、リーナ様。ザッカリー家のタウンハウスでもいいじゃありませんか。一年という期限付きとはいえ、リーナ様の嫁ぎ先ではありませんか」
「……ダメです……、トーリ様は私を嫌っていらっしゃるもの……」
「何かあったのですか? リーナ様」
ヒュージェットさんは優しく聞いてくれます。
結婚式でのキスが思い出されます。
唇に噛みつかれた花嫁なんていないと思います。どれだけ憎まれているのかなんて、答えたくはありませんでした。
「私が、悪いんです、ヒュージェットさん……。おやすみなさい……」
「リーナ様、私、前から気になっていたことがあって」
メラニーさんがワラをシーツで包みながら言います。
「何かしら?」
私もワラをシーツでくるみながら答えます。
メラニーさんは出来上がったワラ布団をポンポンと叩きながら言いました。
「リーナ様はトーリ様をお好きなんではないですか?」
「え、やだ、メラニーさん、トーリ様は私を嫌って」
「いいえ! リーナ様のお気持ちをお聞きしているんです」
私の気持ち。
何だか真実の口に手を入れろ、と言われたような気がします。
少し怖いです。
私の気持ち。
でも、いったいどちらの『私』なんでしょう。
リーナ様はトーリ様を思っていらっしゃいます。それはよくわかりました。
では、私の気持ちは?
ニセモノのリーナの気持ちは?
「よくわからないわ、メラニーさん……」
「……」
「でもね、トーリ様に幸せになって欲しいとは思うの。早くこんな結婚から解放してあげなきゃって。ダラハーはトーリ様が結婚の見返りに陛下から頂いた領地なの。ダラハーが豊かになって、みんながいつも笑顔で暮らせるような、生活の心配をしないで暮らせるようなそんな所にしてトーリ様に渡してあげたいの。ダラハーを嫌な思い出の土地にだけはしたくないの。だから、私、そのためなら何でもするわ。そう思ったら頑張れるもの」
メラニーさんは不思議な笑みを浮かべました。
「リーナ様、それが好きってことじゃないですか?」
今度は私がびっくりしました。
「トーリ様には、あまり歓迎されていないのよ、私。怒られてばっかりだもの」
「それでも関心があるってことですよ、リーナ様。好きの反対は嫌いではなくて、無関心ですからね」
「でも、あれは酷いと思うわ……」
ついに結婚式のことを話してしまいました。
メラニーさんは一緒になって怒ってくれるのかと思うと、大笑いを始めたのです。
「笑うなんて……、は、初めてのキスだったのよ? メラニーさんは唇に噛みつかれたことがないから笑うんだわ!」
「それは、ただ単に慣れていなかっただけじゃないですか? リーナ様は女タラシの方が良かったんですか?」
そういえば、あの時。
あのアイスブルーの瞳が一瞬、驚いたように私を見たわ。すぐに目を逸らしてしまったけれど。
ボッ、と顔が熱くなりました。
「もう寝ましょうか、メラニーさん」
「リーナ様はトーリ様が好きなんですよ」
「もう! わかったってば!」
真実の口はやはり恐ろしいものでした。




