愛と青春の旅立ち、なのですわ
ん……
ここはどこでしょう?
だだっ広い、簡素な部屋です。
石の壁にはハトゥーシャの国旗と大きな地図が掛かっています。
起き上がると額から湿った布が落ちました。
冷やしてくれていたのでしょう。
そう言えば、体が怠いです。
少し熱っぽいかもしれません。
小さく扉の開閉音がして、誰かが入ってきました。
「ああ、気付かれましたか。全く、どこまでもびっくりさせる人ですね、あなたは」
この声は、確か。
陛下です。
ギシ、と軋んで陛下がベッドに座り、愛おしそうに私の額に手を当てました。
「ああ、熱は下がったようですね」
それから碧の瞳を細めると私の頭をポンポンと……
そうする間も私から目を離しません。
うわあ……
愛されている感が半端ないです。
リーナ様はよく平気でいられましたね。
こんな色気、全開放の人と。
そう、リーナ様です!
思わず、自分の姿を見ます。
髪は黒です。
瞳の色はわかりませんが、多分黒です。
加えて、平坦な胸、やせっぽちの体……
私の体です。
やっぱりあの感覚は正しかったのです。
リーナ様はリーナ様の体へ戻り、私は私の体へと戻ったのでした。
リーナ様は、どうなったのでしょう。
早くトーリ様に知らせないと、ガスパールへ戻ってしまいます。
今から追いかけても間に合うかしら。
それとも、リーナ様はもう、ハトゥーシャへ引き返して来ているかしら。
「あの、陛下!」
「はい?」
陛下が顔を寄せてきます。
綺麗な碧の瞳です。
サラサラの灰色の髪が俯くと、顔にかかります。
陛下は長い指で、あ、剣ダコ、長い指で髪をかき上げると、正面から私を見据えてきます。
お互いの瞳を覗き込むような体勢になりました。
陛下がじいっと私を、私が陛下をじいっと、見つめ合います。
陛下が不意に目を逸らしました。
口元に長い指を当てて考え込んでいるようです。
気付いてくれた?
陛下がにっこりと、営業スマイルを浮かべます。
そうなんです!
私、本当の私なんです!
変な日本語になってしまいましたけど。
「まさかとは思いますが……あなたは利衣奈様ではありませんよね? 誰ですか……」
「私、利衣奈です!」
「え! 私は間違えてしまったのか?」
「間違えてなんかいません、陛下! これで中身と外身が元に戻っただけですわ!」
聞けば、丸々五日、私は熱を出して寝込んでいたというのです。
ハトゥーシャからガスパールへは半月ほどかかります。
まだガスパールには着いていません。
リーナ様も気づいて、きっとハトゥーシャへ引き返して来ているはずです。
陛下から離れるなんてできないはずですから。
「ユーグ! ユーグ! ガスパールへ向かうぞ! 馬の用意をっ!」
陛下が大声で叫びながら部屋から出ていきます。
リーナ様、良かったですね。
陛下はリーナ様をとても大切に思っていらっしゃいます。
ベッドから降ります。
また足音が聞こえてきました。
「利衣奈様! あなたはガスパールに帰らなければ! さあ、私と一緒にトーリ殿のところへ行きましょう!」
私は首を横に振ります。
元に戻ってしまった私は、もうガスパールの王女でも何でもないのです。
また、ハトゥーシャを救うために召喚された聖女様でもありません。
「ありがとうございます! でも陛下、私はここにいますわ。さあ、急いでリーナ様を迎えに行ってあげてください! お気をつけて、陛下!」
陛下は頷くと早足で出て行かれました。
しばらくの間、遠くの方で怒鳴り声や馬のいななきがしていましたが、水を打ったように静になりました。
出発されたのですね。
私はこれからどこへ行けばいいのでしょう。
この姿では。
ダラハーへ帰る?
ハトゥーシャにとどまる?
それとも。
トーリ様のところへ行く?
静まり返った宮殿の廊下をトボトボと歩きます。
陛下は私を見てすぐに『違う』と気付かれました。
リーナ様への愛を差し引いても、リーナ様が中に入っていた時とは違うとわかったのです。
トーリ様にしても、リーナ様という外側があったから私と関わってくれたと思うのです。
私がこの姿で、この中身であの曲がり角に現れたとしたら、今はなかったと思われます。
不審者として取っ捕まるか、もしかしたらあの場で成敗されていたことでしょう。
本当の私はいつも人の顔色を窺っているような気の小さい人間です。
ダラハーでのことだって、リーナ様という『嫌われ王女の外側』があったからなのです。
今の私であったなら、到底できたことではありません。
そんなことを思っているとずんずん落ち込んできます。
スマホもないし、落ち込んだ時に励ましてくれる杉坂トーリ様のブログもチェックできません。
コミック、読みたいな……
ハイランダー、新刊出たでしょうね……
寂しいな……
家に帰りたいな……
曲がり角を曲がったら、元の世界に帰れないかしら?
来るときはそうやって来たじゃない。
ずーっと続く廊下の端を見つめます。
あそこを曲がれば……元の世界へ帰れるかもしれません。
ちょっと元気が出てきました。
行くわよ!
走りやすいように、着ているハトゥーシャの衣装をつかみます。
走って! 利衣奈!
はあはあはあはあ……
曲がります!
元の世界に!
戻って!
「いったああああいっ!」
私は盛大に誰かとぶつかってしまったのでした。
「うう……」
全身黒ずくめの大男です。
私は大男を押し倒して、ちょこんと胸の上に乗っかっているのでした。
慌てて降ります。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫? ごめんなさい! ごめんなさい!」
「……う、ごほごほ……」
「大丈夫? ごめんなさい……」
けれど、大男はいきなり私を羽交い絞めにすると、喉元に短剣を突きつけてきたのです。
「こ、殺さないで。痛かったのでしょ? でも、私、結構軽いと思うのよ? 骨は折れていないと」
「ふ、これはこれは、ニセモノの聖女様ではないか」
「あ、いえ、本物なんだけど」
「嘘をつくな!」
「きゃ、痛い!」
アゴにぴりっと痛みが走り、少し、血の匂いがします。
まさか……
「ひどいわ……女の子の顔を切るなんて、どうせブサイクだから構わないと思っているんでしょ……」
「は? 何を言う」
「陛下はガスパールの王女様を迎えに出て行ったわ! 私は、本物の聖女様なのよ……」
「詳しく話せ」
「へえ、あなたは『影』さんて言うのね?」
「そうだ」
「本当のお名前は何て言うの?」
「影の一族は名前を持たない。王族に仕えるのみ。王族の命は絶対で、何でもこなす。ケレム様に仕えていたが、亡くなられたので『影』も不要になった。今の陛下は我らなど使い方も知らないだろう。お払い箱というわけだ」
「不要……では、私と同じと言う訳ね? 影さんはこれからどうするの?」
「ケレム様の墓所に参ってから、どこかへ」
「どこかって、どこ?」
「何だ、お前。俺について来るつもりなのか?」
うんうんと頷いてしまいます。
「どこか住みやすそうな町を教えてくれたらついて行くのは止めるけど」
「そうさなあ……」
くまモンみたいに大きな影さんは結構、面倒見が良いようです。
旅程や宿屋の名前、美味しい定食屋の名前までレクチャーしてくれました。
「ありがとう、影さん。それで、そのう、先立つものが欲しいのだけれど」
「お前な……敵に金を強請るって……」
呆れながらもお金を渡してくれました。
「ありがとう! その町で働く所なんかあるかしら?」
「……、案外、苦労人なのだな……」
「てへっ! 頑張るわ! 影さんも元気でね! あまり乱暴しちゃダメよ? そうだ! ダラハーへ行ったらどうかしら? 人手が足りなくて困っているのよ! アレクサンド様は公平な方だから、影さんの正体を知っても無体なことはしないと思うのよ。ウイラード隊長も筋を通せば親身になってくれる人だから。ね! 影さん! ダラハーよ!」
「ふ、変な娘っ子だな、お前。敵の就職の心配までしてくれるのか? ……顔、傷つけて悪かったな。でもな、お前、ブサイクじゃないからな」
「……優しいのね、影さん……」
涙が出そうになって下を向いてしまいました。
再び、顔を上げた時にはもう影さんの姿はなくて、その代わりに小さな皮袋が一つ残されていました。
中には、お金や血止め、膏薬、様々な丸薬が入っています。
レネさんの手伝いをしていたから少しお薬もわかります。
「これは胃痛を和らげる薬、これは消化を助ける薬……影さん、あなたに必要なものばかりじゃないの……」
「リナ、これを三番テーブルに運んでおくれ! それからカウンター片付けて! らっしゃーい! リナ! お客だよ!」
「いらっしゃいませ! お一人ですか?」
「ああ」
「カウンターへどうぞ!」
マントをまとった長身の騎士様です。
外は雪混じりの雨になったようでした。
フードの先から滴がしたたり落ちています。
「リナちゃん、水くれ!」
「はーい、今すぐ!」
「リナちゃん! お勘定!」
「行きまーす!」
バタバタ走り回って、やっと騎士様の注文を取りにカウンターへ寄ることができました。
「お待たせいたしました。ご注文は?」
「おススメは何かある?」
「そうですね。今なら鴨肉の煮込みとか、鹿とオレンジ……の……グリル……」
騎士様がフードを取ります。
赤茶の髪がさらりと額にかかりました。
「じゃあ、煮込みをもらおうかな。それとエールをジョッキで、リナちゃん」
そう言って、アイスブルーの瞳が楽し気に細められたのでした。
FIN
完結いたしました。
お読みくださり、ありがとうございました!




