ガスパールの王女 リーナ
陛下が普通に生活できるようになるまで、それからさらに半月ほどを必要としました。
私は、コカの毒の恐ろしさと共に、ケレム様の暗く歪んだ心の根深さを知ったのでした。
宮殿に幽閉されてからおよそ一ヵ月、その間に、ハトゥーシャは大きな変貌を遂げてしまったようなのです。
先帝の皇子は謀反を起こそうとして失敗、幽閉の身に。
これは陛下のことですわね。
陛下は、先帝と同じような無慈悲な戦いを仕掛け、逆らう者を手にかける凶暴な皇帝へと。
これがケレム様。
なぜ逃げ出してケレム様の悪事を暴こうとしなかったのか。
私、一度、逃げ出したことがあるのです。
親衛隊長に会おうと思ったのです。
でも、恐ろしいくらいの速さでつかまってしまい、部屋へ戻されたのでした。
そして、見せしめとして、あの親切にしてくれた二人の側仕えが、私の目の前でケレム様に斬り殺されてしまったのです。
部屋の出入りは厳重に監視されているようでした。
そして、このことは、私たちから何かをしようとする勇気を奪うことに成功したのです。
世話をしてくれる新しい側仕え以外との接触を断たれ、私と陛下は何の情報も知ることはできなくなったのでした。
その日、私と陛下は床に座り込んで、『花合わせ』という遊びに興じておりました。
薄い木の札に花の絵が描いてあり、それを伏せて並べて置き、二枚めくって同じ花の絵が揃ったら自分の持ち札となり、札の多い方が勝ちという単純な遊びです。
陛下は集中力を発揮して、ほとんどの札を取ってしまうのですが、負けて悔しがる私に付き合って根気よく相手をしてくださいます。
私たちは小さな世界で息を殺して生きていたと言っても過言ではないでしょう。
その証拠に、ハトゥーシャの皇帝が、女子どものするような遊びに長い時間を割いているのですから。
陛下は、緑の森や草原を、縦横無尽に馬で駆けて行くのが似合っているのに。
土地の百姓ともお酒を飲んで車座で語り合い、作物のできに同じように一喜一憂したり、先帝が荒らしてしまった土地をもとに戻そうと、黙々と鍬を振るう。
そんな人であるのに。
悔しい。
そう思ったら、並べた札を滅茶苦茶にしてしまった私なのです。
「利衣奈様」
陛下が静かに微笑みます。
「こんな歪んだ状態は長くは続きません。人を恐怖で支配しても、人の心までは縛れません。人の心に命令はできないのですから」
いつか、本当に近い将来、ケレムは討たれる時が来ると思っています。
ケレムは人を殺めすぎました。
皇帝ではなく、ただの人殺しです。
私も皇帝の器ではない。
ねえ、利衣奈様。
ハトゥーシャを良い国にすることができたら、二人でどこか違う国に行ってみませんか?
違う国? 馬に乗って? 陛下と?
はい、私と馬に乗って。利衣奈様は馬に乗れますか?
いいえ、乗れないの。
ではお教えしますから、二人で……
部屋の扉が乱暴に開けられました。
「ははっ! 札遊びとは! エルトゥール、お前、ご機嫌取りが上手くなったな! 情けない! コカの中毒から生還して、命が惜しくなったと見える。それとも、命を救ってもらったから聖女様に頭が上がらないのか?」
「……ケレム」
「聖女様が大好きなエルトゥールに良いことを教えてあげようと思ってね」
ケレム様は赤い舌で唇を舐めました。
「エルトゥール、お前、聖女召喚のすぐ後、ガスパールの王女リーナについて調べて欲しいと言われただろう? 覚えているか? 召喚した聖女様が、異世界から来たはずの聖女様が、なぜガスパールの王女のことを知っているのか不思議だと言っていただろう。そのことについて、面白い情報が入ってきたものでね、こうして出向いたということだ」
胸がドキドキします。
冷や汗が流れます。
ずっと昔の嘘が、目の前に突き出されたような気がいたしました。
「『影』が帰ってきてね。『影』、報告いたせ」
いつの間にか、黒ずくめの男がケレム様の後ろに控えていました。
「ガスパールの王女リーナは確かにガスパールの第六王女として存在しておりました。ガスパールでは首切り姫と呼ばれており、ワガママで嫌われ者の王女のようです。婚約者のいた騎士団長と自分が結婚できるよう、策略を用いた模様ですが、その強引なやり方が周囲の反感を買い、辺境の地ダラハーへと追いやられております。ただ、ダラハーへ来てからは人が違ったように、村のため、騎士団長のためと献身的な一面を見せており、マロの町にダラハーの特産品を売る店を作って村の者に感謝されておりますし、健気な態度に騎士団長も満更ではないようで、その店も中々の繁盛ぶりです」
店にあった絵姿がこれでございます、と差し出されたものは……
私に似た他人です。
やはり利衣奈が中に入っているからかしら。
それに、一番驚いたのは、トーリと結婚していたことです。
利衣奈は、トーリが好きなのかしら?
こうして考えて見ると、トーリはやはり幼馴染の範疇であって、それ以上でも、以下でもないような気がいたします。
と、考え事をしていたら、四つの碧の瞳が私を見つめていることに気が付きました。
「利衣奈様、なぜガスパールの王女のことが気になるのです?」
陛下、それは……
「ふふ、実は聖女様の中身はガスパールの王女だったりしてね? 五百年も前の古臭い召喚術なんて使うから、中身まで呼び寄せることができなかった……なーんてね。ふふ、聖女様、どう思います?」
「……」
「おや? お返事がない? ああ、困りましたねえええ。では、ガスパールに攻め込みましょうか、聖女様。いや、まてよ? ダラハーへ攻め込みましょう。どうせド田舎の村でしょう? 王女様を捕まえて、ハトゥーシャの王都まで連れて来てしまいましょう。そうすれば、その王女様から、何か面白い話が聞けるかもしれません。ああ、楽しみだ」
ああ、利衣奈、ごめんなさい。
私はどうすればいいの?
「くくっ、聖女様ね……。お前、本当は誰?」
「利衣奈様……」




