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プロローグ

プロローグ


 修学旅行と言うのは、学生生活においても重要なイベントだ。

 一週間近い日程を用意し、学年全体で行動し、長い時間を家族以外の人間と過ごすというのは、あまり経験のない生徒も多いだろう。

 これだけ大きなイベントであるから、学生生活の重大な思い出となる出来事もままある。イベントの熱気に中てられて出来上がる即席カップルなども、青春の一面とも言えよう。

「いやー、カスケンの一世一代の告白、面白かったなぁ? おい」

 峠に向かう山道を走るバスの中でそんな声が聞こえ、カスケンこと粕谷ケンジは身を硬くする。

 手に持っている文庫本を取り落としそうになってしまい、慌ててその手の中にもう一度収めた。

 薄ら笑いを含んだ声は、まだ聞こえてくる。

「でもクラスでも一番のお似合いカップルが出来ると思ったんだけど、残念だったよ」

「斉藤もどうして断るかねぇ。カスケンめっちゃ頑張ったじゃ~ん」

 ケンジの席からは見えないが、斉藤と言う女子も同じように身を硬くしているだろう。

 だが彼女の場合はケンジよりマシだ。彼女の近くには彼女の友人がいる。それだけで幾許か心も休まるだろう。

 だが、ケンジの隣は愚か周りには友人と呼べる人間もいない。

 孤立無援の状況に、ケンジは凍えるような思いと煮えたぎる感情を抑えるしか出来なかった。

「なー、カスケン、もう一回やってみっか? 押せば折れるかもしれねーぞ」

「なんとか言ったらどーよ? ねーねー、おい」

 背もたれがガタンと揺れる。後ろから蹴られたのだ。声も真後ろから聞こえてきている。

 後ろの席に聞こえないように、ケンジは『うるせーよ』と呟く。

 こんな調子では小説に集中する事も出来ない。そもそも、動いている車内で細かい文字を読んでいれば乗り物酔いをしてしまう。ケンジが今も文庫本を手に持っているのはある種のイミテーションだ。

 本を読んでいれば普通、必要な用事でなければ話し掛けたりはするまい。そうやって誰からのアクションも拒否するポーズが、ケンジにとっての読書だったのである。

 だが現状、ケンジは心無い弄りを受けている。修学旅行というイベントの熱に浮かされた中学生にとって、ケンジの自己防衛ポーズは何の意味も成さなかったのである。

「おいこら、無視かよ。カスケ~ン」

「声かけてるんですけどぉ?」

 ガタンガタンと揺れる座席。ケンジの我慢も限界に近くなり、喉が鳴る。

 堪忍袋の緒が切れる寸前、ケンジの隣に座っていた男子が立ち上がって後ろを振り返る。

「その辺にしとこうぜ。先生も睨んでる」

 後ろの座席に座っているオラついた男子に、柔和な笑みを見せた隣の男子。

 確かに彼が指差す先では教師がこちらを見ていた。かなり厳しめの表情をしているところを見ると、教師も怒りの爆発寸前であろう。

 それを確認して、後ろの男子は鼻を鳴らした。

「まぁ、いいか」

「カミケンに言われちゃなぁ」

 どうやら収まったらしい。カミケンと呼ばれた隣の男子はケンジの隣に座りなおす。

「大丈夫?」

「……別に」

 カミケンがケンジを心配して声をかけてくれているが、ケンジはそれを突っぱねる。

 ケンジの隣に座っているカミケンこと神谷健二は、ケンジのクラス、いや学年全体で見てもリーダーシップのある人間であった。

 高いコミュニケーション能力と学力、身体能力を持ち合わせ、ケンジを気遣うような心の余裕もある。おまけにツラも良い。

 粕谷ケンジ、神谷健二。二人のケンジは音にして、たった一文字違いでありながら大きく立ち位置の違う人間であった。

「粕谷……ゴメンな」

 そんなカミケンが急に小声でケンジに謝ってきた。

「なにさ、急に」

「いや、一年の頃から粕谷と一緒のクラスにいたけど、俺は何もしてやれなかった」

「ボクが何かしてくれって頼んだか? そんな謝罪すら余計なお世話だよ」

「……でもさ、俺は何かしてやりたかったよ」

 苦しい心中を吐き出すように言いながら、カミケンは周りを見回す。

「こんな状況じゃ、修学旅行も楽しくなかったろ?」

「それはいつもの事だ。ボクは学校と言う場所を、それにまつわる行事や出来事を、一度も楽しいと思ったことなんてない」

「それだよ。その意識を変えてあげたかったんだよ」

「もう一回言うけど、余計なお世話だ」

 ケンジにとってカミケンが気を使ってくれることは、とても苦痛であった。

 それは遥か高みにいる存在からの憐れみにしか思えなかったのである。

 カミケンに優しい言葉をかけられる度、気を使われる度、その立場の高低差に眩暈を覚えるほどであった。

 バスの座席だって、ケンジの隣には誰も座りたがらなかったのを、カミケンが進んで立候補したのだ。そういう行動が酷く腹の底のドロドロした何かを刺激する。

 ケンジもこのままで良いとは思わない。ケンジをいじめている連中をボコボコにしてやりたいと常々思っているし、こんなくそったれな場所からいなくなれるならそうしたい。

 しかしそれを願い、頼んだとしても、カミケンが実現できるとは思えない。

 カミケンはケンジをいじめている連中よりもカーストの上に立つ人間である。だが、カミケンが彼らに反発すれば、そのカーストが裏返る事も充分ありえる。それだけ、彼らは数の力を持っている。

 カミケンが幾ら優れた人間であるとしても、数の暴力には敵わない。間違った認識の民主主義に殺されるのがオチだろう。カミケンもそれを理解しているから、彼らに強く反発しない。

 強く反発されなければ、当然彼らは自分の行動を省みない。是正しない。いや、仮に反発されたとしても変化したりしないだろう。だとすれば、カミケンに出来る事などない。

 それなのに優しい言葉をかけてくる。それは偽善と独善だ。

「カミケン、ボクは君の事が、思った以上に嫌いかも知れない」

「粕谷……」

 複雑な表情を返すカミケンを、ケンジは既に見ていなかった。


 そんな時に事件が――事故が起こる。


 急にガシャン、と言う破壊音が聞こえ、車体が強く揺れる。

 女子の座っているほうから小さく悲鳴が聞こえ、そしてすぐに浮遊感。

 内臓が浮き上がるような気持ち悪い感覚に襲われ、すぐに想像が働く。

 浮いている、のではなく、落ちているのだ。


 僅かの間に起こった出来事。

 山道を走っていたバスが、何の因果かガードレールを突き破って崖の外に身を躍らせていたのである。

 状況を正確に理解できている乗客は、少ない。

 しかしその得も言われぬ浮遊感に不安が煽られ、まだ精神も成熟しきらない中学生の口からは、悲鳴が溢れる。

「きゃあああああああ!!」

「うわあああああああ!!」

 グラリと傾く車体。空中にあってなおきりもみし、バスの側面にあった窓に空が映し出されていた。

 認識していた重力の方向が混乱し、周りのクラスメイトは眩暈を覚え、更に車内に響く誰かの悲鳴が新たな悲鳴を生む。

 阿鼻叫喚の入り口に立ったバスの中で、ケンジは息を呑む。

 窓際の席に座っていた彼は、恐らくクラスメイトの中でも早めに状況を理解していた。

 故に、死を察知するのも早かった。

 このままでは、死ぬ。それを理解するのが驚くほど早かったのだ。

 そして状況をいかんともしがたいというのを理解するのもまた早かった。

 空中を舞っている観光バス。その中に乗っている乗客を全員救う事など、到底無理であろう。中に乗っている単なる中学生男子ならばなおさらである。

 崖下は何十メートルだろうか。地面に衝突したなら、どれほどの衝撃が襲い掛かるのだろうか。

 推測は出来ない。だが、結果として自分が、ひいてはバスに乗っている全ての人間が死ぬ事は想像に難くなかった。

 死を理解し、しかし納得できない心が今にも言葉にならない声を吐き出しそうになるところで、ケンジは強く目を瞑った。

 ものの数秒でバスは地面に激突し、大惨事となるだろう。

 その結末を、覚悟も出来ない心で、待つ。それしか出来なかった。


 だが、

「……はっ」

 無意識の内に息を止め、体躯を丸めていた自分に気付く。

 身体中から汗が噴出しており、それがやたら気持ち悪い事にもまた気付く。

 最後に、そんな悠長な事を考えている事に気付く。

「ボクは……」

 乱れている呼吸を何とか整えながら、周りを窺う。

「死んだ……のか?」

 キシ、とゆがみそうな窓ガラスに手をつき、ケンジはその場に足をつける。

 横転する形で落下しているバスは現在、ケンジの座っている側の窓が下になっている。

 窓から外を覗くと、まだ遥か下に地面が見えていた。

「……なんだ、これ。何かに引っかかったのか?」

 床を確かめながら、ケンジはバスの中を落ち着いて眺める。

 そこには奇妙な光景が広がっていた。

 荷台から転げ落ちた生徒のバッグや、その中身が空中を舞ったところで写真に収められたかのように、そのまま固められていたのである。

 まるで糸か何かで上から釣っているように、もしくは透明の土台に乗せられているかのように、空中で静止したまま動かない。

 そしてそれは荷物だけではない。

 座席から転げ落ちた女子、男子、教師までもが、転げ落ちた時のポーズのまま、空中で固定されている。

 まるで時が止まったかのようであった。

「嘘、だろ……」

 ケンジが手に持っていた文庫本も、空中でその動きを止めている。

 アレだけ響いていた悲鳴も今や聞こえず、周りはシンと静まり返っていた。

 ケンジは後ろの席に座っていた男子を見る。

 先ほどケンジを煽るようなことを言ってきた男子も、今は静かなものだ。恐怖に歪んだ表情のまま静止している。

 手近にいたその男子の頬をつねってみたが、彼は何も言わない。反応すらしない。

 渾身の力を込めてつねったのだ。幾らケンジが非力だったとしても『痛い』の一言くらい帰ってきてもおかしくはない。

 しかし、それもない。

「な、なんだっていうんだよ……」

 突然の状況に困惑を隠しきれない。

 だが同時に、期待もしてしまっていた。

「これじゃあまるで……小説や漫画の中みたいじゃないか」

 口元が歪む。

 ケンジが待ち望んでいた空想の世界が実現したかのようであった。

「ボクが時を止めたのか……? そんな強力な特殊能力を、ボクが?」

 時を操るだなんて、ラスボスにも匹敵するような能力である。

 まさかそんな能力をケンジが手に入れる事になるとは、夢にも思わなかった。

「これがあればボクは……」

『残念ながら、不正解です』

 歓喜に打ち震えるケンジに水を差すように、どこからか声が降ってきた。

「だ、誰だ!?」

『失礼、悠長に自己紹介をしている時間はありません』

 辺りを見回しても動いている人間は見当たらない。

 しかし、代わりに空間を引き裂いてヌルリと前肢が現れた。

「うわっ! なんだ……手!?」

『選びなさい。私の手を取り生き残るか。それともこのまま落下事故に巻き込まれて死ぬか』

 あんまりにもあんまりな言い草であった。

 そんな二択、選ぶ余地すらない。

 だが、その手はそれ以上の説明をする気はないようである。

『時間がありません。決断は早く』

 急かしてくるその手に、ケンジは考える間もなかった。

「ボクの待っていた展開! ボクの世界を変えてくれるきっかけ!」

 その目には輝く世界が広がっているようにすら見えていた。

 いじめられていた学校生活、鬱屈した世界などに未練はない。

 この世界が変えられるのならば、それが胡散臭い手だとしても飛びついてしまう。

 浅慮なケンジはその手に飛びついた。

「ボクは生きる!」

『よろしい。では、あなたをこちらに呼び寄せましょう』

 その綺麗な手に引き寄せられ、ケンジは空中に現れた裂け目に引き込まれた。


 ケンジの冒険が始まる。

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