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翠眼の魔物  作者: ミドリのヤツ
10/20

絶壁的に積み重なった友情の現状

「入るよ」


 返事はなかった。

 ネリネはそのままドアを開ける。

 その家は暗い雰囲気に包まれていた。

 もしかしてこの家も――と思ったが、そんなことはなかった。


 アネモネは部屋の隅で膝を抱えている。

 日も沈み明かりもつけていないこの時間帯では、人間には何も見えない。

 だが俺はその姿を鮮明に捉えていた。


 かがり火の光が僅かに差し込み、アネモネは顔をあげる。

 厚ぼったく腫れた目元で、光を背に入ってきたネリネを睨めあげる。

 残された片目。彼女の左目は、闇に光る緑の瞳。

 魔物ごどうるいというわけではない。なんの力もない普通の人間の目だ。


 けれど俺は思ってしまう。

 ああ、これは知ってるかんじょうだ。何故だか俺によく似ている。


「なにしに来たの」


 敵愾心の篭った恨み節がネリネに放たれる。

 ネリネはそんな彼女を見て複雑な思いにとらわれた。

 居てくれたという「安心」、

 敵意を向けられていることへの「悲しさ」、

 アネモネに対する「親愛」、

 この状況に対して立ち向かおういう「決意」、

 大まかなところはこんなところだが――

 それ以外にも、「侮蔑」「同情」「共感」「慈愛」……まだまだある。それらが複雑に絡み合って一つの大きな感情の系を為している。

 どうやら彼女との間には、いろいろな思い出が横たわっているらしい。


 これはちょっと食べられないな。

 魂に定着しているようなものだ。感情という概念からの逸脱が見られる。

 この感情系にあえて名前をつけるなら――やはり「アネモネ」というしかないだろう。


 一瞬だけ、ネリネはどんなふうに声をかけるか迷った。

 けれど、少し困ったように笑って――きっと二人でいる時はいつもこんな表情をしているんだろう――手に持った食べ物を見せながら、努めて軽い調子で言った。


「ごはん、一緒に食べない?」


 アネモネは少し反応に困ったようだった。

 さすがに目の前の相手の感情までは俺にもわからない。

 けれど彼女にも彼女なりに、いろいろと思うところがあるのだろう。

 二人の間に積み重ねられてきたものは決して浅いものではないと、ただそれだけのやり取りから見出せる。

 それは崖のように深い断絶でありながら、

 それは山のように高い愛情でもある。


「あんたは――」


 アネモネは続く言葉に迷って、それから言った。


「――もう、私と居てはいけないわ」


「それは、私が左目を得てしまったから?」

「そうよ。目を潰されたことが、私たちをくらい絆で結びつけていた。隻眼こそがこの世界で生きていく、私たちのクソッたれな関係性だった」

「眼球を得ても、私は変わらないよ?」

「いいえ変わるわ。現に変わりつつある。どこでその翠眼を拾ってきたのか知らないけれど、目玉を得るだなんて魔法みたいなことが起きたんだもの。起こりえないことが起きたなら、これからなにも起きないはずがない。それが代償か、褒賞かは知らないけれど――あんたはこれからどんどん変わっていく。だから――」


 アネモネはいったん言葉を切った。

 そして勇気を示すように、彼女はネリネに告げた。


「だから私との不幸同盟なんて辞めてしまえ裏切者。私との傷の舐め合いなんて続けてないで、さっさと幸福になっちまえ」


「――――」


 ああ、なんてそれは嫉妬まみれな。

 それはなんて羨望まみれな――祈りなのだろう。


 眼球を得たという事実は、どのような過程があるにしろ、その後どのような人生を歩むにしろ、歩んでいるにしろ……その事実はどうしようもなく、二人の間においては、それは幸福を得たことと同義なのだ。

 二人が眼球を失って不幸になったというのなら、眼球を取り戻したネリネは幸福を取り戻したということになる。

 少なくとも、二人の間ではそういう図式が成立する。

 そうでなくてはならないという強制が、強迫がある。


 さまざまな積み重ねがありながらも、ネリネとアネモネの関係性の核は「眼球を潰された」ことだった。

 その共通点、恥辱が二人の関係性の起点だった。

 眼球を得たネリネは、二人の中で先んじて幸福になった。

 それはつまり、それまで積み上げてきた関係性の前提が覆ることを示す。

 それまでのことがなくなるわけではなくても、

 それまでの関係性を見直す必要があった。


 不幸で成立する絆は、互いの幸福を邪魔しあう。

 幸福になったものは、不幸であり続けるものとの関係性を破綻させ、

 不幸なものは自分を差し置いて相手が幸福になることを許さない。


「それにね、感情が整理できないの。嫉妬心だとわかっているけど、あんたへの憎しみが抑えられない。私はあんたになにをするかわからない。だから、その前に」


 だというのに、

 アネモネは今、ネリネにアガペを示した。

 幸福を手にしたネリネを「幸福になれ」と送り出したのだ。

「自分のことは振り返るな、忘れろ」と、決別を告げたのだ。


 けれど、ああ、けれど。

 ネリネも、アネモネがそんなことを言うのは分かっていた。

 アネモネはそういうやつなんだということを、ネリネはちゃんとわかっていた。

 それだけの時間を彼女たちは過ごしていたのだ。


 だから、

「私は目玉を得たけれど、あんたを見捨てることはしない」

 だからネリネはそう告げるのだ。

「あんたの不幸は、私が引き上げる」


「やめてよ! そんなの私が耐えられない」

 アネモネが掠れた声で叫んだ。


「知ってる。あんたと私は、不幸だからこそプライドを持って生きてきた。私とあんたの立場が逆でも、救いの手なんて跳ねのける」


 ネリネの思考が聞こえてくる。

(「不幸のプライド」を持つ者にとって、施しはなによりの屈辱。

 その好意こそが私たちが不幸であることを強制的に再認識させ、屈辱の泥の中に叩き込む。

 施しは富裕層の道楽で、不幸な人間を同情の見世物にし、私たちを「不幸で金を貰う卑しい人間」にさせる。「そこまで堕落しちゃいない」という精神的大黒柱をぶち折る最低の好意だ。でも)


「でも私はやるよ。私が幸福で、あんたを見世物にしたいわけじゃない。ただ私とあんたが、どうしようもなく積み重ねてきた時間が重すぎるからだ。あんたが幸福に笑っている姿を見ないままじゃ、私が幸福になり切れないからだ」


 ほうほうほう――

 俺に感情を食われていなけりゃやってられない小娘が良く吠えるもんだ。

 でもよ、俺はこういう時に嘘をつかれるのがどうも気に入らない性分らしい。


 見世物にしたいわけじゃない、ねえ……でも、いまのお前の心の中に、少しでもないと言い切れるかい?

 今のアネモネのことを見て、哀れんでいる感情を一瞬でも抱かなかったと、そう言い切れるのかい?

 本当に?

 言い切れないはずだ――俺には誤魔化しが効かない。

 なにせ俺はお前の感情を読み取って言っているんだ。

 哀れんでいるお前の感情を、この俺自身が感じ取っているんだからな。


(舐めるな。魔物に人間のすべてを理解できると思うなよ)


「――認めるよ。私の心の中には、いま確かにあんたに対する憐憫がある。アネモネ、あんたがそのひとかけらの感情の存在が許せないということも分かっている。けどね、そんなことは私があんたを救い上げない理由にはならないんだ」


 ネリネが啖呵を切る。

 これが数時間前まで嫌々と駄々をこね、母親の裏切りに絶望し自死さえ許容しようとしていた娘とは思えないほどの力強い言葉で。


「言ったはずだ。私が幸福になるためには、あんたの笑顔が必要だと――。私が幸福に暮らしている時、ふと私は思うんだ。私は自分の親友を見捨てて今を手に入れた恥知らずだと。そんな幸福は許さない。誰が許しても、私に根付いたの『不幸者のプライド』と、この左目が許しはしない。あんたのためにあんたを救うなんてことじゃない――私のために、あんたを救うんだ」


「――――」

 アネモネは気圧された。

 いや、認めよう。気圧されたのは目の前の少女だけじゃない。

 この俺も、こいつの言葉に圧された。


 くそ、こいつが本当にただの村娘なのかよ。

 これが、クソみたいな村人どもと一緒に暮らしてきた人間の言葉かよ。


 ちっ、なんだか。なんだかなあ。

 一日に、それも同じ人間に二度も負かされるなんて……。

 …………。

 ちっ。


「勝手にしろ」

「うん、勝手にするよ」

 なにも言い返すことができず、吐き捨てられたアネモネの言葉に、ネリネが穏やかに笑って答える。


「勝手にするから、ね。ごはんたべよ?」

「……そんなきぶんじゃない」

「ダメ。食べさせる。口を開けろ、ねじ込んでやる」

「やめろぉ! それが親友に対する礼儀か!」

「口にねじ込まれるのと、自分で食べるの、どっちか選んで」

「どっちも嫌だ!」

「ふはははは不幸者に第三の選択権は無いのだ! さあ食え、さもなくば食え!」

「勝手だなあ……」

「でもほらこれ美味しいよ。犬って意外とおいしいんだよね。さっき知ったばっかりだけど」

「げ、これ犬なの……あ、でも悔しい。美味しい」

「でしょう」


 それから先は特に語ることもない。

 腐れ縁染みた女友達同士の、罵倒しあいながらイチャイチャしあう、ありがちな風景だった。


「アネモネ」

「何?」

「私、幸せになるからね。なにがあっても、幸せになる――」

「…………うん、そうすればいいさ」

「――ありがとう」

「……なにいってんだよ。私の幸せのためにも、あんたが幸せにならないと困るんだよ」

「あ、それ私の台詞」

「真似じゃないもんね。私の言葉ですぅー」


 そうして祭の時は過ぎていき――。

 いつしか月は高く昇っていた。

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