93.母襲来
※20151206 改行位置修正
土曜日。
あたしはチャイムの音で起こされた。宅配で届くようなものはないし、新聞か宗教ってところだろう。
無視することに決めてあたしは寝返りを打った。
……しつこくチャイムが鳴る。
仕方なくあたしはインターホンの受話器を上げた。
「……はい」
「いるなら早く出なさい! 荷物重いんだから!」
母親の怒号だった。
寝ぼけてた頭がしゃきっと起きる。
ばたばたっと走って玄関の鍵を開けると、超絶不機嫌の母親の顔がそこにあった。
「お母さん……」
「いいからとっととこれ受け取る。重かったんだからねっ」
風呂敷包みを押し付けて、母親はとっとと靴を脱ぐと部屋に上がって行った。
玄関を閉めて、慌てて後に続く。
今日来るなんて思ってなかったから、居間は昨夜のままだ。
「彩子! あんた女の子なんだから、もう少し綺麗にしときなさいよっ」
荷物を降ろして母親は腰に手を当て、あたしをじろりと睨む。
「仕方ないじゃない、退院してまだ間がないんだから。一日体を動かしてるだけでしんどいのよ」
「それにしても……とにかく着替えなさい。風邪引くわよ」
言われてあたしは自分を見下ろした。ホットパンツにTシャツ。この時期はずっとエアコンかけてるから、これでも十分寒くない。
でも流石に寝起きのカッコのままはまずいか。
仕方なくあたしは隣の部屋に行ってハイネックのセーターとGパンに着替えた。
居間に戻ってきたら、母親はテーブルの上に残ってた夕飯の後片付けをしてた。
「珍しいわね、自炊したの?」
「うん、週明けまで暇だし、こんなチャンスはもうないだろうなあって思って」
「そんなことないわよ。結婚して仕事やめれば」
さらりと怖いことを言う。
あたしは母親の背中をじっと見つめた。
うちの両親は共働きだ。母は、父が結婚をしても仕事をやめなくていいといったからプロポーズを受けたって以前言ってた。
父からも、働いている母に惚れたからやめなくてもいいと言った、と聞いた。
その母が、あたしには結婚して仕事をやめろと言う。
……正直、分からない。
母はあたしが働くこと――とりわけ都会に出て一人暮らしすること――には反対していた。女の一人暮らしは危ないってことらしいけど、母だって仕事をしていた時は大阪で一人暮らしをしてた。
そんなに、信用がないのかなぁ。それとも、危なっかしく見えるのかなぁ。
それとも、あたしがしてる仕事は評価してないってことなのか。
確かに朝早くから夜遅くまで仕事してるし、休みでも帰省できないし、心配はかけてるんだろうとは思う。
でも、だからって……永久就職を押し付けるのはどうなんだろう。
母が仕事をしている自分に誇りを持っているのは知っている。
あたしが仕事していることについても、ちゃんと理解してくれていると思ってたのに。
「彩子、そこの袋取ってちょうだい」
買い物してきたのだろう、スーパーの袋を彩子が渡すと、母親は冷蔵庫を開けた。
「あら、いろいろ入ってるわねぇ。これじゃ入らないかしら。……彩子、あんたご飯は食べたの?」
「ううん、まだ。さっき起きたところだから」
言われて時計を見ると、十時を過ぎていた。
「仕方ないわねぇ……」
冷蔵庫からてきぱきと食材を取り出す。昨夜作った保存食はそのままで、空いたスペースに買ってきた物を入れていく。
「ご飯作るから、座ってなさい」
「……分かった」
あたしは居間のソファに身を沈め、テレビをつけた。テーブルの上はすっかり片付けられ、拭いてある。
台所からいい匂いがしてくる。出汁の香りとお醤油。卵を割る音。
「何作ってるの?」
「雑炊。昨夜遅くまで飲んでたでしょう? 二日酔いになってるんじゃないの?」
あたしは黙り込んだ。そういえば、机の上に潰して転がしておいたビール缶が綺麗に片付けられている。
「はい、おまたせ。熱いからね」
一人用の土鍋がどんと置かれる。グツグツまだ言ってる。
「ありがと。お母さんは食べないの?」
「食べてきたからね。おあがり」
そう言うと母親はまた台所に戻って何かし始める。
「何やってるの?」
「気にしないで食べなさい」
そう言い返されるともう何も言えない。あたしはもそもそとレンゲで熱々の雑炊を食べ始めた。
食べ終わる頃には母親も居間に腰を落ち着けた。
「お茶入れたから」
「ありがと」
ごちそうさま、と手を合わせて、食べ終える。
「で、お母さん、いきなり来たのはなんで? 連絡くれればよかったのに」
「だって、携帯電話が壊れてるって言ってたでしょう? 修理に時間かかるんだろうと思って。それに、固定電話には電話したのよ? 昨日。でもいなかったでしょ?」
むっとした顔の母親に、あたしはごめん、と返す。
確かに、昨日は買い物に出かけてたし、そのあとは手の込んだ料理を作るのでバタバタしてたっけ。
「それに恵美ちゃんから退院したって聞いてたからね。土日なら家にいるだろうと思って来てみたのよ。退院、おめでとう」
「あ、ありがと」
改まって言われて、ちょっと反応に困る。
「で、病院はなんて?」
「うん、リハビリにはしばらく行くけど、もう大丈夫だろうって」
「リハビリ?」
「うん、十日も寝てたから念のためって先生が」
そこで思い出して、あたしは部屋の隅に置いたままだった風呂敷包みを引っ張ってきた。
「そうそう、お母さん。これ、知ってたの?」
一番上の見合い写真を引き抜くと、母親に見せる。
「あら、この間置いてった見合い写真? あんた、ちゃんと見て選んだのね?」
と、嬉しそうに手を出すのを、あたしは押し留めた。
「違うの。ちゃんと見て。こっちの釣書も。ほら。この名前。見覚えない?」
「さぁ。覚えてないわね。誰から渡された写真だったかしら」
首を傾げる母親に、あたしはつい強い口調で言った。
「覚えてないって……あたしの担当医だった先生の名前だよ?」
「あらまぁ……そうなの? これはあれねぇ。運命かもしれないわねぇ。写真もいい男だし。この人にしなさいな」
「お母さん!」
あたしの声も無視して、母親は今日抱えてきた風呂敷包みを引っ張ってきた。
「今日もね、一杯預かってきたの。でも、それならもうこちらはお返ししなくてはね?」
「だから、お母さん?!」
……こんなにものわかりの悪い母だっただろうか。こんなに一方的に、あたしの声も意思も聞かずに押し通そうとすること、今まで一度もなかった。
「あたしは見合いする気、ないんだってば!」
「……わかってるわよ」
顔を上げた母親は、眉を寄せていた。
「無理やり見合いさせるつもりはないから。ただね……ちょっと煩いのよ。私に適齢期の娘がいると知った途端にこれだもの」
あたしはびっくりして母を見つめた。ため息をついてこんな話をする母は初めてだ。
母が会社の中でも優秀で部下も多くいることは知っている。国内出張も多いし、上役の海外出張についていくことも少なくない。お中元やお歳暮の数も半端ない。
「あんたに彼氏でもいればねえ、さくっと断れるんだけど……ごめんね。今度からきちんとお断りしておくから」
「何それ……」
それ以上、言葉が出ない。
母親はバツの悪そうな顔をしていた。
「うん……あんたが入院したって聞いて、休み取る時につい言っちゃったのよ。一人暮らしの娘が風呂に倒れてたのを友達が見つけたって話。一人暮らしだから心配だったって話したの。そしたらねぇ……なにを勘違いしたのか、『じゃあ結婚したら一人じゃなくなりますね』って……どこの馬鹿だったか忘れたけど。それがあっという間に広まったらしくて。……上役や取引先の人にまで」
やれやれ、と肩をすくめる母に、やっぱりあたしは言う言葉が見つからなかった。
「そんなもんだから、今回ばかりはどれも受け取るのを断れなくてね。ごめんね、嫌な思いさせちゃって」
「……そう、わかった」
仕事の上での人付き合いが大事なのはよく分かる。とりわけ母親のようにそれなりの地位にいればなおさらだ。以前なら、はなから怒ってただろう。でも、あたしも社会に出て、人間関係がどれくらい大事かはわかってるつもり。
無碍にはできない。
「で、どうする?」
「え?」
「その先生。気になるなら打診してみるけど?」
いやいやいや! 誰もそんなこと言ってませんから!
「そういうつもりじゃないってば!」
「でもまあ、患者と担当医から発展する恋もあると思うのよ?」
「……お母さん、ドラマ見すぎ」
「夢がないわねえ。ま、いいわ。一応保留ってことにしとくから」
「……はい?」
母親はなぜか山崎先生の見合い写真と釣書を別に分けて、他の物を全て一つにまとめる。
「この写真と釣書はあんたから先生に返しておいて。お母さん、誰から預かったのかもう覚えてないのよね」
「ちょっとっ、そんなの、できるわけないでしょう?」
「あら、だってまだリハビリとか診察とかあるんでしょ? その時に母から預かったとでも言って返しておいて。それでいいから」
「……本当にそれだけでいいの?」
「ええ。お願いね」
押し切られた形で、先生の見合い写真と釣書はあたしの手元に戻された。
「じゃ、母さん、これで帰るから」
「えっ! 泊まっていくんじゃないの? 明日日曜日だし」
腰を上げる母親にあたしはびっくりして声を上げた。
「明日から海外なのよ。忙しくてごめんね。正月早々からあちこち行かさないでほしいわよね、まったく」
土鍋を台所に運んだかと思うと、ショルダーバッグを取り上げた。
「あ、そっちの見合い写真の束は悪いけど家に送り返しておいてくれる? 持って帰るには重すぎて」
「……持ってこなきゃよかったのに」
「そういうわけにもいかないでしょ? じゃ。食材はいろいろ買っておいたから、傷まないうちに食べるのよ?」
そう言いながらぱたぱたと玄関に向かう。ほんと、うちの母親ってば落ち着かないっていうかなんていうか……。
「わかった。お母さん」
玄関の戸に手をかけた母親は振り向いた。
あたしは精一杯の笑顔を作った。
「ありがとね」
それに笑顔で応え――母親は扉を閉めた。