90.伯爵夫人
※20151206 改行位置修正
休憩が終わり、荷物を収めるとルーは御者台に登った。今日はウェインが手綱を握っている。ラティーとグリードは交代でお休み中だ。
「どうかしたか?」
不意にウェインが口を開いた。ルーははっとして顔を上げる。
「ごめん、ぼーっとしてた。もいちど教えてくれる?」
ウェインは頷くともう一度説明を始めた。今日はウェインから馬車の手綱さばきを教えてもらうということになっている。
――もちろん、当然馬車ぐらい操れるんだけどね。
ルーは講義を聞きながら、さっきのザジの言葉を思い起こしていた。
――ナレクォーツ伯爵夫人。
確か、ナレクォーツ伯爵といえば、王国の北にあるクォーツ領を拝領した古い家系のはずだ。今の王国でも当主は重要な地位を任されている。
そういえば、現在のナレクォーツ伯爵はそろそろ六十歳に手が届くお年のはずだ。キーファから聞いた限りだと、銀の馬車のお客人はまだまだ女盛りの頃だろう。
もしかしたら彼女は伯爵の息子の嫁なのか? だがザジははっきりと伯爵夫人と言っている。知らないうちに代替わりしたのだろうか。
きちんと確認しておけばよかった。次の休憩で聞いてみよう。
そしてなぜ、彼女はあの枯れ木のようなドラジェとともにいるのか。
今回の王都行きはドラジェにとってどういう意味を持っているのか。
トリエンテが自治権を失うのが確実となり、商業ギルドのトップである自分が商業組合の一員として認められるための旅だと思っていた。
その後見人がナレクォーツ伯爵ということなのか? だとしたら、トリエンテはナレクォーツ伯爵に下賜されるということになる。それなら、ドラジェの後見になるのは納得がいく。
だがそれにしては夫人の行動が不可解だ。トリエンテに来たこと、王都へ向かっていることを完全に隠蔽しようとしている。
下賜先が推理の通りならば、何の問題もない。ドラジェの後見として大手を振って同道すればいいだけのことだ。だから――おおっぴらに出来ない理由があるのだ。
ドラジェが商業組合の一員になるには原則的に三人の推薦人とそれ相応の納付金が必要だ。推薦人は子爵以上の貴族か王族でなければならない。
オードには推薦人が誰なのか、調査を頼んでおこう。王都に着くまでには返事が届くかも知れない。それと、納付金を誰が出したのか。
この二つが分かれば、ドラジェの背後に誰がいるのかが分かるだろう。もちろん、トリエンテが誰に下賜されるのかが分かればもっと早く目処がつきそうだが。
そしてクラック子爵の名前。
ザジにも確認したが、クラックという名前の子爵はいない。領地もない。クォーツをもじった偽名だろう、というのが共通の認識だった。
――それに。
正直言って、トリエンテを欲しがる理由がわからない。取り立てて特産のある土地でもなければ資源のある地域でもない。
ドラジェの野望に誰かが乗ったとしか思えないのだ。
それが気に入らない。自分が大切に思う場所を誰かが取り上げようとしている。それが原因だとは思っていないが、トリエンテにそこまでする魅力が見つからない以上、もしかしてと思ってしまう。
もしそうなら。
ルーは口元をほころばせた。
――全力で相手してやる。
「あとは実際にやってみろ。困ったら俺を頼れ」
ウェインの言葉に思考を中断する。ほぼ説明が終わったところだった。
「うん、ありがとう、ウェイン」
別に、といいウェインは前の馬車に目を向けた。
「そういえばウェイン、昨夜はよく眠れた?」
「ああ。――お前と別の天幕でよかった」
「そうらしいね」
ちらっと後ろの荷台を見やって、ルーは答える。
「グリードが暴れたとか聞いたけど」
「それで寝不足なのか?」
「らしいわよ。今日の寝ずの番、グリードなんだけど大丈夫かなぁ」
「問題ない。俺が代わる」
ルーはびっくりしてウェインを振り返った。
「えっ、でも、それじゃあ仮眠する時間、取れないわよ? グリードもラティーも多分、夜まであのまま……」
「大丈夫。昨夜よく眠れたから。明日の朝までぐらいならどうってことない」
「……そう? でも、無理はしないでね?」
「それに……お前、ずっと夜警やるって聞いた」
「ああ、そのことね」
ルーはうなずき、肩をすくめた。
「そうでもしなきゃ、安心して眠れないもの。まさかあんな騒動になっちゃうなんて思ってなかったし――まあ、昼間もおちおち寝てられそうにないけど」
ルーの言葉にウェインはちらりと視線をルーに投げた。恨みがましい視線がぶつかる。
「ああ、そうだった。気を利かせてくれてありがと、ウェイン。でも、あたしはベンチの上で寝るほうが好みなの」
「そうか」
「じゃあ、今日の当番はよろしくね。そういえば夕食の当番は」
「それも俺だ」
「……代わってもらったら?」
「考えておく。……ラティーとグリードさえうんと言えば、俺もずっと夜警の当番になる」
「ウェイン?」
号令がかかる。ウェインが手綱を引き、一行は止まった。
「伝令、行ってこい」
「あ、うん」
タンゲルの号令が聞こえて、ルーは慌てて御者台から降りた。