80.退院
※20151206 改行位置修正
陽の光が眩しい。
あたしは精一杯体を伸ばした。
「うーん、久々のお外だぁっ」
「はいはい、わかったから荷物持って」
後ろから恵美が諦めた表情で荷物を担いでる。こまめに荷物を引き取りにきてくれてたから、退院の荷物もそう多くはないんだけど、それでもなんだかんだと病院内で買ううちに増えてしまってた。
「ごめんごめん。ありがとね」
「いーえ。どういたしまして。ってか入院費用、すぐ返してよ? ほんとにぎりぎりなんだから」
「わかってるって。とにかく家に戻ってからね。ほんと助かった」
今日は平日なのに、恵美はわざわざ休みを取ってくれた。お財布も鍵も持ってない状態のあんた一人では退院できないでしょ、とぷりぷり怒りながら。
母親とそれから会社には電話は入れておいた。ちなみに病院からは今週いっぱいは就業禁止、と言い渡されてしまった。月曜日にもう一度通院して、就業可能かどうか判断する、とのこと。
まあ、そのほうがありがたい。
病院出て、最寄りのバス停までのほんの百メートルほどあるくのがしんどい。動けなかったせいで体力が落ちてる。
この調子だとマンションの階段を上がるの、相当苦労しそう。だって四階建てエレベーターなしの三階なんだもの。
……そういえば救急隊の人ってどうやってあたしを搬出したんだろ。エレベーターがないのに担いだのかな。
重たかっただろうなぁ。少しはダイエットしとこうかしら。
次に引っ越すときは絶対エレベーター付きにしよう、とちょっと心に決めてみた。
なんとかえっちらおっちら階段を昇って、久々の自宅にご挨拶する。
部屋は正月のまま、時が止まってた。
あ、でもないか。恵美が時々着替え取りに来てたから、汚れ物とか、食べた後とかはきれいに片付けられてた。ゴミも残ってなかったし、お風呂も覗いてみたけど、お湯は抜いてあって綺麗に掃除してあった。
「あんた、今後はシャワーだけにしときなさいね。風呂で寝るのって、失神してるようなもんなんだから。今回は運良く溺死しなかっただけなんだからね?」
怒り顔で言う恵美に、あたしは何も言い返せなかった。
「湯船に浸かりたいならスーパー銭湯行きなさい。あたしも付き合うから」
「うん、ありがと」
見つかったのが恵美でよかったよなぁ、と思ったところで顔に血がのぼってきた。誰が風呂から引っ張りあげてくれたんだろ。当然素っ裸だったよね? うわぁ、服着せてくれたんだろうか。それともそのまま?
真冬だし、さすがに裸のまま搬出したりしないよね?
今の今まで考えてこなかったけど、現場だったっていうお風呂を見てたらいろいろこみ上げてきた。
「どうかしたの? 彩子」
「いや、なんでもない」
頭を振ってあたしは答えた。頭を冷やそう。
病院から持ち帰ったものを整理して、洗い物は洗濯機で回して、ようやく一息つくと、恵美がお茶を入れてくれた。
「で、このあとは?」
「お金おろしに行って、それからスマホの修理かな」
時計を見ると十三時を回ってた。退院が十時過ぎだったのに、もうこんな時間かぁ。
「じゃ、ついでに昼ご飯も外で食べよう。ご飯作ろうにも食材ほとんどないし。……てか、あんた、ほとんど自炊してないでしょ」
恵美の声にあたしはしかめっ面を返した。
「だって、会社から帰ってくるの、遅いんだもの。それからご飯作ってたら日が変わっちゃうわよ。朝も早いからご飯作ってる暇ないし」
「わかるけどさぁ、もうちょっと女子力磨かないと、ほんとに結婚できないわよ?」
「……相手が見つかれば考えるわよ」
ぶすっとむくれる。
「そういや奥野くんからあんたの退院の日を聞かれたから答えといたけど、構わなかったよね?」
「え? ああ、別にいいわよ」
わざわざ休みでも取らないかぎり平日に来れるわけないしね。
「そういえば彼、結構頻繁に見舞いに来てたんだって? なんか噂になってたわよ?」
恵美はそう言うとマグカップを両手で包み込みながらにやにや笑った。
「噂?」
「そ。毎日仕事をとっとと切り上げて病院に見舞いに行ってたって話」
「え……? 毎日なんて来てない……わよ?」
戸惑って変な声になる。だって、あたしが覚えてるのは二回ぐらいだったと思う。一週間以上入院してたけど、そんなに来てたの?
「看護婦の間でも噂になってたって。あんたが寝てる時でもずっと傍に座ってあんたの寝顔見てたって。面会時間いっぱいまで」
「嘘っ! 知らないわよっ」
「愛されてるわねえ」
「……恵美ぃ」
思わずあたしは恵美をにらみつけた。けらけらと笑い出すと恵美は手を振った。
「わかってるわよ。それにしても執念というかなんというかよね」
「……あたしきっぱり断ったんだけど」
思い出しちゃった。退院するまでに考えてって言われてたこと。どうしよう……。
「それと、その見合いの写真。どーにかしなさいね」
後ろに積まれた紙袋を指さされて、あたしは頭を抱えた。――忘れてた。
「……送り返す」
「まぁそうよね。でも、結構いい条件の人もいたわよ?」
「あんた、見たの?」
びっくりして顔を上げると、恵美はてへ、と舌を出してみせた。
「だって、本格的な見合い写真と釣り書なんてめったに見られないもの。ちょっと見てみたかったのよね」
「……あんたのおかーさんに電話したらすぐにでも揃えてくれるわよっ」
「やめてよね。面倒なことになるんだから」
恵美は顔をしかめる。
「でも、お医者さんとかどこぞの企業の次男坊とか、結構すごいのよ? あんたのお母さんってほんとに顔が広いのねえ」
「まあ、顔は広いわね。仕事の関係だと思うんだけど」
あちこち出張してるのが当たり前だったし、今も忙しそうにしてる。退院しても、あたしが会いに行くことはあってもまたこっちに出てくることはまずないだろう。
「そういえば、これってあんたの主治医じゃない?」
「ええっ?」
恵美が差し出してきた一枚を受け取って開いてみた。きっちり髪の毛を七三に分けて撫で付け、三つ揃いでかっこつけた写真だ。どこをどう見たらあのボサボサよれよれの山崎先生に見えるんだろう。
「でも、名前とこっちの釣り書」
そこには確かに山崎先生の名前が書かれていた。勤務先も間違いない。
「……あんたのお母さん、もしかして知っててこれ持ってきたんじゃないわよね」
出張ついでに見舞いにやってきた母親が持ってきた見合い写真に主治医の写真が入ってるとか、一体何なのよ。
「まさか」
否定しながらも、母親の顔を思い出してぞくっと寒さを覚える。
もしそうだとしたら、山崎先生にあたしの見合い写真とやらが渡ってるわけで。
……ていうかいつの間にあたしの見合い写真なんか撮ったのよっ。絶対修正した合成写真に違いない。
「これ、入院してる時に気がついてたんだけど、教えたほうがよかった?」
「勘弁してよっ。どんな顔して先生に会えばいいかわかんなくなるからっ」
「だろうと思ったから黙ってたんだけどねー」
にやにや笑いの恵美の顔を見て、あたしは顔を覆った。
「……月曜日が怖い」
口の端を歪めてつぶやくと、恵美はあたしの背中をばしっと叩いた。
「なーに言ってんの。断るんでしょ? 全部。なら気にしなきゃいいじゃない。気が付かなかったってことにして」
「そ、そりゃそうだけど……」
「それともこれ、母親経由じゃなくて、直接本人に返したら?」
「いやよっ! それこそ顔あわせられなくなるっての!」
恵美のにやにやが止まらない。徹底的におちょくるつもりだ。
あーもう、何でこんなことになってるのよ……。
「まあ、あんたが王子様を待ってるのはわかってるけど、出会いなんてどこに転がってるかわかんないものよ? 見合いがきっかけだってあり得る話だし、年下が嫌なわけでもないんでしょ?」
あたしは無言を決め込むことにした。
「それに考えてごらんよ。ぜんぜん見ず知らずの人がさぁ、ある日家の前に薔薇の花束抱えて現れて、『あなたのことをいつも見ていました。結婚して下さい』ってきたら、あんたどうする?」
――気持ち悪い。それってなんてストーカー? って思う。
「普通さぁ、ストーカーだと思わない? 普通に声かけて知り合うところから始めるんじゃないの?
って」
それは分かる。でも、もしそれが運命の人なら?
「だから、出会いのきっかけを全部否定する必要ないんじゃないの? って話。まあ、あんたの場合はキスで判定できちゃうからアレだけど」
キスして心が離れるからいやなんだってば。好きにならなければ、傷つかなくてすむ。
「でもさぁ……寂しくならない?」
どきっとしてあたしは顔を上げた。恵美からこんな言葉が出るなんて初めてだ。
「恵美……? 何かあったの?」
「……ん、年末にちょっと失恋しちゃってね」
失恋? 恵美に男がいたなんて、全く知らなかった。あたしの情報は駄々漏れで、たいてい恵美のほうがよく知ってるんだけど、彼女の話は一ミリも漏れてきたことがない。
「ごめんね……そんな時に」
あたしは素直に頭を下げた。そんな精神状態の時にいろいろ世話してもらってたなんて。
「ううん、いい気分転換になったから。……あんたにはいい恋をしてほしいのよ、彩子」
ちょっと潤んだ目で恵美は微笑んでくれた。
「だからね、臆病になるのはやめてみなよ。あんたがいっぱい恋をして、キスのせいで失恋して傷ついてきたことはあたしがよく知ってる。でも、一歩踏み出さないと、何も始まらないよ? 運命の相手かどうかなんて、好きになってから考えてもいいんじゃないの? もしかしたら運命の相手はもうすでに結婚してるかもしれないし、おじいちゃんかもしれない。それでもずっと待つの? 耐えるの? そんなことしたらあっという間におばあちゃんになっちゃうのよ?」
あたしは黙りこんだ。
「運命の相手でなかったらどうしよう、って考えてない?」
心臓が痛かった。目を伏せる。
「それが最初に来るようなら、その恋は本物じゃないと思う。自分が夢中になれる恋を探したこと、ないでしょ?」
恵美の言葉がいちいち心に刺さる。
そう。あたしはどこかに隠れてる王子様を探すことしか考えてなかった。
「だから、我を忘れてみなよ。多分だけどね」
恵美はそこで一度言葉を切り、微笑んでみせた。
「運命の相手ってキスしなくても分かると思うよ」