4.森の番人 2
※20151206 改行位置修正
眼を開ける。いつもなら目の前に白いふくろうがいたり、近くで飛んでたりするんだけど。
見覚えのない場所。明かりがなく薄暗い部屋の中に茶色い葉っぱで葺いた屋根らしいものが見える。身動きしようとして、左肩に激痛が走った。
そうだった。思い出した。あたし、動物たちが逃げるのに巻き込まれて……踏まれたんだ。そして、猿猴の顔が迫ってきて……。
恐怖が蘇ってきて、あたしはぎゅっと眼を閉じた。
体が震えてくる。
こんなことなら……あの時動物たちに踏み潰されたほうがよかった。
涙が溢れてきた。
ごめん、ごめんね。現実のあたし。こんなところで――死よりも屈辱的な思いをするなんて。
いっそのことここで舌を噛み切ろうか。でも、そうなったら……何も知らない現実のあたしが召喚されるんじゃないだろうか。扉を通らずにこっちに来れたって聞いたし、そうなったら何も知らないあの子がいきなり猿猴の慰み者にされてしまう。
それは――それはダメ。絶対ダメ。
あたしは――まだ、それでもこっちの世界を知ってる。知ってるだけにいろいろ覚悟もできてる。もちろん死にたくはないけど、でも死ぬかもしれないことは知ってる。
あの子は知らない。
扉を通ってきた時のこっちの記憶は目が覚めれば消える。でも、扉を通らずにきたあの子は、こっちの記憶を持って帰ってしまうかもしれない。
もしそうだとしたら、あの子が壊れちゃう。
それだけはダメ。
唇を噛みしめる。
あたしが踏ん張らなきゃ。ううん、なんとかして、隙を見つけて逃げなきゃ。
目を開ける。動かせる範囲で首を動かして周りを見る。あたしがどこにいるのか、どうなってるのか、把握しなきゃ。
顔を動かした途端、激痛が走る。右手を動かそうとしてみて気がついた。両手が頭の上で縛られて、縄かなにかでひっぱり上げられてる。長時間縛られたままなのか、肩の感覚がない。右肩を動かそうとするとギシギシと関節が悲鳴を上げる。左肩は骨が折れてるはずなのに、こんな体勢にされてるなんて……。
足はと思って動かそうとすると、こちらも足首で縛られている。膝を動かそうとしたけど、これも縄で引っ張られてるみたいで動かない。
遠くで猿猴の咆哮が聞こえる。
ビクッとして思わず体を身構えようとして――激痛が走った。
「あうっ!」
悲鳴が口をついて出た。慌てて口を閉じる。
猿猴が聞きつけてきたら……。恐怖がよみがえる。
その時、ごく近くで音がした。枝を踏んで歩く足音。地鳴りや揺れはない。猿猴のものならズシンと揺れが来るはず。もしかして猿猴の子供でもいるのか。もしここが猿猴の巣であるならば……。
不意に黄色い光が天井を照らした。誰かが来てる。ランプか何かだろう、オイルの燃える匂い。もしかして、誰かが助けに来てくれたの?
あたしは助けを呼ぼうと口を開いた。でも、その声を聞いて猿猴が戻ってきたら? 助けに来た人も猿猴にやられてしまうかもしれない。
声を出せずに口を閉じる。光の動きを望みをつなぎながらじっと見守って。
光の動き方から、誰かがランプを持ってうろうろ歩いているみたい。ランプでできた巨大な影は人のような形をしてた。でも、猿猴のようにも見える。
猿猴は火を怖がらない。なら、これもやっぱり猿猴なのかもしれない。
薄い希望がぱりぱりと壊れていく。助けじゃないんだ。きっと。
ぬっと黒い影が現れた。続いて目を焼く明るい光。猿猴の姿なんか見たくない。怖い……あの目、あの歯。
目を閉じてつい身を捩ると痛みがぶり返した。
「うぐぅっ……」
「あれ、起きてたの?」
猿猴は言葉も喋れるの? 男の人みたいな声に聞こえる。でも、怖い……。目を閉じ口を閉じ、出来る限り光の反対側へ顔を向ける。
「耳、聞こえないのかな。目も……見えてないのかな。声は出るみたいだけど」
光を何かが遮ったみたい。閉じた目の裏が陰った。と同時に脇をくすぐられた。
「きゃっ……はうっ」
身を捩って逃げようとして、また肩の痛みに身悶えた。
「うん、喋れるみたいだね。僕の声は聞こえてる? 聞こえてたら目を開けて」
いや。絶対いや。猿猴の顔なんてもう二度と見たくない。それくらいなら一生目を開けない。だれかアイマスクか目隠し持ってきて。それなら見なくてもすむもの。
「うーん、聞こえてないのかなぁ。聞こえてないふりしてたりして」
顔の近くに何か気配を感じた。覗きこまれてる感じ。必死で顔をそむける。
息遣いが聞こえる。少しだけ獣の匂いと男のにおいもする。
「それとも、鼓膜破れたかな。困ったな……ここじゃ治しようがないし」
また脇腹をくすぐられる。もう、なんでくすぐるのよっ。
「痛いっ!」
はっきり言うと脇腹をくすぐるのはやめてくれた。
「もしかして、脇腹も打ってるのか……ちょっとごめんね」
もぞもぞと胸の上で手が動くのが分かる。ベストの前を開けてる……? 次は下に着込んでるシャツを引っ張られてる感じ。カプリパンツのベルトをゆるめてる……? パンツに押し込んでたシャツを全部引っ張りだすと、ぺろん、とめくられた。皮膚にあたる風の感触から、胸のあたりまでめくられたみたい。
「い、いやっ!」
そんな、心の準備も何もできてないのに、いきなりソレなの? いやよ、いやっ!
体を思い切り捻る。肩も足も痛いけど、そんなこと、言ってられない。でも。
「ちょっと、じっとして!」
大きな手があたしの体を抑えこもうとする。そんな、直接肌に触られるなんてっ!
「いやぁ~っ!」
涙が出てきた。
と、大きな手が体から離れ、あたしの頬を挟み込んだ。無理やり真上に向かされる。
「じっとしてろっ! 肋骨が折れてるかも知れないんだぞ! 肺に刺さったらどうする!」
怒鳴りつけられた。怒って……る?
「少し触るから、くすぐったくても我慢しろよ。痛かったら痛いって言えよ?」
脇腹に手の感触。すこしくすぐったい。でも、肌を押しながら滑っていく指先はなんだかお医者様の触診に似てた。左右とも、脇腹から脇の下までゆっくり確認するように触ったあと、お腹を少し強めに押された。左わき腹は押されると痛くてうめき声を上げる。
「ああ、青タンできてるな。動物に蹴られたみたいだ。頭じゃなくてよかったな。ついでに足も確認するぞ」
ベルトをゆるめたままのカプリパンツをぺろんと足首まで脱がされる。もう、抵抗する元気もなかった。というか、なんとなく、お医者様にされてる気分になってた。
足も太ももからふくらはぎ、足首、足の先まで押したり触ったり。足も左側にいくつか痛い部分があった。やっぱり青あざになってるらしい。
「まあ、打撲だけみたいだね。骨は問題ない。運がいいよ」
それからカプリパンツを腰まで穿かせてくれて、めくったままのシャツも下げてくれた。元のように着させることは断念したみたいだけど。
「さてと……ちゃんと耳も聞こえてるみたいだね」
ばれた。
「なんで耳が聞こえない振りしてたのかは聞かないけど、目を開けてくれないかな。話もできないと、拘束解くことも出来ないよ」
「いや……」
なんだかお医者様な気がして気を許してたけど、目の前にいるのは猿猴。赤い目がフラッシュバックして恐怖が戻ってきた。
「なんで?」
「怖い……」
「こわい? 何が? 僕が?」
「だって……だってっ!」
目の前にいるのはいい人なの? それとも猿猴なの? もう、だんだんわからなくなってきた。
「猿猴は、ひ、人を食べるって、い、言うじゃないっ。お、女はみんな、お、お、犯されて孕まされて、え、猿猴の子供を産まされるって!」
涙も出てきた。こんなこと、猿猴に言ったら怒らせて殺されるかもしれない。でも、その判断も出来ないくらい、あたしは混乱してた。
「あー……」
目の前の生き物は黙り込んだ。
ずいぶん長く黙って、それから何かを引っ張り寄せる音がした。
「目を開けて、僕を見てくれないかな。見てもらったら多分、分かるから」
「いやっ。怖いっ」
目の前の生き物が猿猴じゃないと、あの目と歯の生き物じゃないとどうして言えるの?
「ああ……君は猿猴を見たんだね。それなら仕方ない。じゃあ、そのままで話そうか。ただ、君がちゃんと理解してくれるまで、その拘束は解くわけにはいかない。拘束を解いていきなりブスリとやられたら困るからね。できるだけ……左肩は骨が折れてるから、早いとこ降ろしてあげたいのは山々なんだけど」
あたしは口を閉じた。目の前の生き物は続けた。
「僕の名前はリュウ。森の番人だ」