3.森の番人 1
※20151206 改行位置修正
自分のくしゃみで目が覚めた。
時計を見上げると、深夜一時を回ったところだ。
喉がパンパンに腫れてるのが分かる。額に手を当てるとまだかなり熱い。それになにより寝汗がすごい。寝間着がすっかりびちゃびちゃだ。
起き上がって、買っておいたスポーツドリンクを口に含む。冷たい水分が腫れ上がった喉をなんとか降りていく。痛いけど気持ちいい。
寝間着を着替え、タオルで体を拭く。
なんだか眠ってる間に夢を見ていた気がする。あんまりよく覚えてないんだけど、空をとぶ夢。
熱が出たりして寝込んでる時に必ず見るのよね。
薬箱から熱さましと、今度は喉の腫れを抑える薬を飲む。水を飲むのも辛いほど腫れ上がったままだと結構しんどいもの。
布団もすっかり湿ってる。しんどいけど敷シーツを取り替えて、バスタオルをその上に並べる。掛シーツも外して、毛布も入れ替える。
タオルを濡らして保冷剤を巻く。布団に潜り込んでお手軽氷嚢を額に当てるとあたしは目を閉じた。
きっと起きた時より熱はあがってるだろう。でも、湿気たお布団で寝るのはいやだもの。
あと一日で治るといいな……。
眼を開ける。鬱蒼とした暗い森の中にいた。
「あちゃー、やっちゃったか。飛んでる途中に起きちゃったのね、あたしったら」
「サーヤ、大丈夫ですか」
白ふくろうが飛んできた。あたしは腕を差し出して止まってもらう。
「うん、あたしは大丈夫。落っこちたわけじゃないからね」
「まあ、それにしてもいきなり消えましたから、慌てましたよ」
「あたしの居場所、よく見つけたわね」
ラトリーの頭をなでなでする。ラトリーの毛並みって柔らかいから好きなのよね。
「いつものことでございますからな。あちらのサーヤは大丈夫でございましょうか?」
「大丈夫、薬飲んで寝たから今度こそ朝まで起きないはずよ。で、今ってどのあたりにいるのかしら」
「山を越える手前でしたから、だいぶ標高の高い辺りですな。この辺りは人が立ち入らないので、道ができていないんですよ。ぐるっと回ってみましたけど、飛ぶにはちょっとむずかしいですかねえ」
「そう……やっちゃったなあ。道を探してる暇はなさそうだし、なんとか先に進むしかないかしら」
腰の袋に手をやる。落っこちたわけじゃないから水袋はどちらもまだパンパンだ。荷物も特にダメージは受けてないみたい。
「獣の匂いは……とりあえずしてないみたいね。大きな動物、空から見なかった?」
「いえ、見てませんねえ。まあ、夜だから遭遇率は低いとは思いますが。日が昇るまでには山道に出て飛べるといいんですが」
樹の根元から空を仰ぎ見る。かなり年季の入った樹木ばかりだ。木に登ろうとするとちょっと手こずりそうな太い幹。
「地面歩いてても大丈夫かしら。湿地じゃないからヒルはいないと思うんだけど」
「ええ、大丈夫だと思いますよ。むしろ樹上を行くのは危険ですね。猿猴の巣がある可能性はありますから」
猿猴――あたしは身を震わせた。最悪の相手。
「わかった、じゃ、地上を行くことにするわ」
ラトリーに山頂の方角を確認してもらいながら歩き出す。道があるわけじゃないので、折りたたみナイフで蔦を切り払ったりしながら道を作るしかない。
獣道までないというのは珍しい気がする。ラトリーの言うとおり、猿猴の縄張りだから地上を走る者達が近寄らないのかもしれない。結果、道ができなくなる。
もしそうなら樹上のほうが道ができているんじゃないかしら。とはいえ、猿猴との遭遇はできるかぎり避けたい。なにしろ体長はあたしの二倍、横幅もあたしの二倍あるのだ。追いかけられても絶対逃げ切れない。捕まえられたら簡単に八つ裂きにされてしまうだろう。
それと……猿猴が人、とりわけ女を狩るのはもう一つ理由があるといわれている。……ここまで言ったらだいたい分かるよね……。
「サーヤ、右手にもう少し歩いて行くと川に出ます。そこから飛べるかもしれません」
「あら、それは助かるわね」
ラトリーに道案内してもらいながら、道を切り開く。蔦を切り払った時、地響きのような音がした。
「今の……何?」
続いて遥か遠くから動物の鳴き声。鳥の鳴き声も聞こえる。こんな夜に? しかもかなり切迫した声。
「サーヤ、来ます。猿猴! 伏せて!」
低木の下に潜り込み、地面に耳をつける。ラトリーは森を離脱してはるか空に逃れてるはず。
猿猴に追われてるのだろう、動物の乱れた足音が迫ってくる。
なるべく巻き込まれないように体を縮め、頭を両手でかばう。こんな時にヘルメットが欲しくなるけど、あれはあれで危険なのよね……。
足音が近づいてきた。それと木の上の方から枝が折れる音と叫び声。猿猴が狩りをするときに上げる鬨の声だ。心の芯が冷えてくる。ここにいるのがバレたら……本当にまずい。
ああ、こんなタイミングで現実のあたしが起きてくれないかしら。そうすれば、とにかくこのピンチは避けられるのに。夢の中のあたしが現実のあたしを起こす方法はまだ見つけられてない。
地響きと動物たちの荒い息遣い、土をえぐる蹄の音。これは――イノシシ系? シカ系?
すごい勢いで突っ込んできた。ギリギリを踏んで行くもの、存在に気がついて避けるもの。一体何体いたんだろう。細いひづめが肩に食い込んであたしは悲鳴を上げそうになった。肩を踏んでいった一体はそのままバランスを崩してつんのめった。身を隠していた低木が一本、巻き添えをくってなぎ倒される。
――やばっ……。
あらわになった部分を隠すべく、体勢を変えようとして激痛に襲われた。
痛みを必死でこらえる。多分、折れてる。踏まれただけで血が出なかったのだけがさいわいかも。猿猴は人の血のにおいには敏感と聞いている。
一体が倒れこんだことであたしが隠れていたあたりは動物たちも避けて走ってる。続けて踏まれる可能性は少しだけ低くなったみたい。
倒れた一体に足を取られて何体かが近くに倒れこんだ。動物たちの足音は遠ざかっていく。
ほっとするのもつかの間、猿猴が近づいてくる音が聞こえてきた。木を揺らす音と猿猴の咆哮。今回の狩りの獲物は……ここに倒れてる動物たちみたい。心臓を鷲掴みにされてる気分。
ズシン。
地面が揺れた。巨大なものが地面を歩いてる。目を合わせないように閉じ、口も閉じる。息も視線でさえも猿猴は気がつくらしい。
すぐ近く……さっきのシカが倒れてる辺りに巨大なモノがいる。たぶんこれが猿猴。聞こえてくる音からは、倒れた獲物たちを担ぎあげているらしい。生き物の息遣いが生々しい。
バキバキと木々を踏み折る音が聞こえなくなる。
あたしはほんの少しだけ、目を開けた。開けて――後悔した。
目の前に真っ赤な目を光らせた猿猴の巨大な顔があった。開いた口からぞろりと歯が見え――視界がブラックアウトした。