133.脱出
「ルー!」
ラフィーネは悲鳴に近い声を上げて彼女にすがろうと手を出した。が、ルークが妻をかばうように前に出る。
「ルーク!」
「下がりなさい、ラフィーネ。……彼女が山賊の一味でないとは限らない」
鋭い視線でルーをにらみつけながらルーカスが言うと、ラフィーネは口をつぐんで眉を寄せ、夫の背からルーを見つめるにとどめた。
馬車は走り続けているが、御者がいないせいかスピードが落ちているように感じる。
「よく生きて戻ったな、ルー」
ルーカスが声をかける。が、その声はルーが戻ってきたことを歓迎するものではない。
「ご心配をおかけしました。女一人と侮られたおかげでなんとか逃げられました」
目隠しの布を両手で押さえたまま、ルーは苦笑を浮かべている。ルーカスが疑っているのを感じ取っているのだろう。
「外の鍵は壊しました。……いまなら逃げられます」
ルーカスはちらりとルーの背後に視線を移した。先ほど扉をガンガン打ち付けていたのは、かかっていた鍵を壊すためだったのだ。
そもそも、扉に外から鍵が掛けられていることも知らなかった。文字通り、この馬車は銀の鳥籠だったわけだ。
「逃げる?」
「……ここにいてはまずいのではありませんか?」
ルーをにらみつける。馬車のスピードはさらに落ちている。周りを走っているはずの護衛達の音が聞こえない。
表向き、ルーカスはルーの正体を知らないことになっている。だが、ルーはルーカスの正体を知っている。
「このあたりは山賊が多いんです。狙うのは貴族の子女、もしくは奥方」
その言葉にラフィーネは息をのんでルーを見つめた。
「なるほど。……で、君がその山賊の一味でないという保証は?」
ルーカスはラフィーネに向いたルーの視線を遮るように体を動かし、ルーに剣を向ける。
「そうですね……この馬車に目印の黄色い旗が立ててあるのはご存知ですか?」
「旗?」
「ええ。……懇意の山賊に、中にいる客人を攫えという合図の旗です」
「何だって……!」
ルーカスの目が見開かれるのを見て、ルーはため息をついた。
「懇意の……ドラジェが?」
ルーの言葉にルーカスは頭を働かせる。
ドラジェの周辺でそういった不幸な報告が相次いでいるのは聞いていた。今の話が裏付けのあることなのだとしたら、この馬車から逃げるのが最善策だろう。
狙われているのはラフィーネで、ルーカスではない。
ドラジェの商業組合入りに関して、推薦人として名乗りを上げたルーカスをドラジェは信用していない。
ラフィーネが一人旅をしているのはドラジェの欲した人質だからだ。おそらく残る二人も、似たような形で人質を取られている。それと悟られないようさりげない方法で。
そこまで考えて、ルー自身もドラジェの人質なのではないかと思い当った。もちろん、ルーの正体がばれていないことが前提だ。ならば、ここにいていいはずがない。
「いいだろう。……ラフィーネ、ルーについていけ」
自分の後ろに隠したままだった妻の手を引き、ルーのほうへと押し出す。
「ルーク?」
「主様」
ルーの後ろから声がする。ルーカスが身構えると、ルーは押しとどめるように掌を見せて後ろを振り返った。
「イーリン、奥様をお願い」
布をかき分けて現れたのは、黒いメイド服に身を包み、エプロンだけ外した少女だった。
「あなたは……あの時の」
「はい、奥様」
「誰だ」
油断なく剣を向けるルーカスに、イーリンは会釈をする。
「あたしの従者です」
「以前も護衛をしてもらったわ。……信用してもいいのね?」
ラフィーネの言葉にルーはうなずいた。
「わが命かけて」
「……わかりました。じゃあ、お願い」
差し出されたラフィーネの手をイーリンが握ったかと思うと、あっという間に布をかき分けて馬車から姿を消した。
一瞬のことで、呆気にとられたルーカスはかけようとした言葉を飲み込んで口を閉じ、ルーに視線を戻す。
「剣を収めてください」
「……そうだな。君とここで争っても意味がない」
剣を腰に戻すと、ルーはようやく緊張を解いた。
「だが、妻がいなくなったことをアレは納得できるのか?」
「予定通り、山賊に襲われたことにすれば問題ありません。あとで山賊のアジトにお二方がいないと知っても、その時にはもう手遅れでしょう」
「なるほど。では、今行われている襲撃は偽か」
「襲撃のすべてではありません。本当に山賊が待機していましたから、利用させてもらいました。奥方にはイーリンを付けましたから心配はありません」
本物、と聞いてルーカスは顔色を変えた。
「ラフィーネを危険にさらしたことには変わりない」
「……お叱りでしたらすべてが終わってからいくらでも」
「償うと?」
「……ええ、何なりと」
その言葉に、ルーカスもうなずいた。
「いいだろう」
「では、ルーカス様も脱出を」
「だが……」
差し出されたルーの手に、やはりルーカスは逡巡する。
「山賊に襲われたように偽装するんですから、ルーカス様が残られると困ります」
狙いがラフィーネだけならば、ついている男は護衛と思われて切り捨てられてもおかしくはない。
そう口にすると、ルーは首を横に振った。
「その姿ではただの護衛だとは思われませんよ。籠の中にいるのは貴人だと山賊も知っていますから、傷一つつけずに攫うと思いますよ。もちろん、抵抗されればその限りではありませんが」
「……疑われずに済むのだな?」
「ええ」
ラフィーネと自分自身は守られるだろう。だが、それ以外の者に牙が向くのは避けなければならない。
「少なくとも、ドラジェが王都に着くまで欺ければ大丈夫です。……お二人には蛇を護衛につけますから」
ルーカスは目を見開いた。
確かに、ルーカスもラフィーネも、ルーの正体を知っている。だが、まさかルーの姿のまま、蛇のことを口にするとは思ってもいなかった。それは正体を明かしたに近いからだ。
「……貴方は、決めたのですか」
王都に戻ることを。
そう絞り出したルーカスの言葉に、ルーが今度は目を見開き、それから首を横に振った。
「……僕はただの風来坊ですから」
答えたルー=ピコの声は、ピコの声のままだった。




