113.貴人の頼みごと
宿の天蓋つきベッドの寝心地は最高だった。宿に泊まる貴族の侍女用の部屋だというのに設えが実に充実していた。
帰着は結局日が替わったあとで、ラフィーネはすでに眠っていたため顔は合わせなかった。知らせは入れてあったため、今朝顔を合わせた時は怒っていなかった。
ただ、事の顛末をドラジェから聞いていたらしくて、いきなり部屋に引っ張り込まれて体のあちこちを確認された。
……どうも過保護すぎるんじゃないか。
その上。
夕べ帰ってこなかったせいで死ぬほど心配させたことを詫びると、彼女が持参してきたと思われる、水色のワンピースを着せられた。
つまり。
なんでか髪の毛をきっちり結い上げられて、まるで貴婦人のような格好をさせられているのだ。
こんなことをさせた当の本人はといえば、いつもの乗馬用スタイルで、きりっとした女騎士風に見える。
一人旅に慣れているらしく、髪の毛の結い方やコルセットの付け方など、一通りのことを卒なくこなす。本当にこの人、伯爵夫人なのか?
「やっぱり似合うわ。普段からこうやっていればいいのに」
「いえ、それでは仕事になりませんから」
どれだけこの姿になるのを固辞したことか。結局はドラジェの一言でこの姿になっている。
――こんなの、他の奴らに見られたらどうなることやら。最高にまずい。
と、そこまで考えて、夕べの顛末の結果を思い出した。
タンゲルがやってきたのは、この格好になったあとだった。一目見たタンゲルは硬直し、それから顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「おまえ……それ、反則だろう」
「仕方ないでしょう? 夕べ遅く帰った罰だって言われて、しかたなくっ……んんっ」
いきなり唇を塞がれた。力いっぱい分厚い胸板を押し返すと、ようやく唇が離れた。
「こんなの目の前にしてほっとけるか。……お前、絶対その姿で他の奴らの前に出るなよ?」
「あんたが来なきゃドラジェ以外の男には見られずに済んだのよっ。ったく……ちょっと、この手離して」
まだ欲望に目の周りを染めた男はルーの腰から手を離そうととしない。
「いやだ」
「あのねえ……お客人から早く帰ってこいって言われてんだから」
「そうか」
――そうか、じゃねえっての。まったく。とっとと用件済ませてしまおう。
「で、奴らはどんな感じ?」
「ああ、全員骨抜きにされて帰ってきた。当分女はいらねえって顔に書いてあった。腰が立たなくて馬に乗れそうにない奴もいたが、馬に括りつけてやる」
「そう、これでこりてくれればいいんだけど」
「どうだろうな。ここから先は二日起きに大きい街に泊まるから、うまくガス抜きできると思う。また妙なことをやりそうなら最初から娼館へ放り込んでやる」
「そうね」
「それでも、その姿はやばすぎるから絶対晒すなよ」
「わかってるっての。どうせ銀の馬車から出ることなんてないんだから」
「何かがあった場合はどうする。その姿で逃げることになるんだぞ」
「短剣は身につけているわよ。それにもし、そういうことになったら、お客人の身代わりになれるし」
「……バカなこと考えるなよ」
ぐいと腕を掴まれた。痛い。
「痛い。離して」
「身代わりになるなんて考えるなよ。もし襲わて拐かされたとして、お客人が貴族ならば身代金で解放されるが、お前が身代わりだとバレたら間違いなく殺される。それだけはやめろ」
「ああ……そっか。まあ、油断させる手ではあると思うんだけどね」
「絶対するな」
タンゲルの目が剣呑な光を宿している。そんな危険性があるんだろうか、この一行の旅に。
ラフィーネを襲う。……馬車に家紋はないし、取り立てて豪勢なわけでもない。護衛の構成も見れば正規の騎士がいるわけでなく、寄せ集めの傭兵と便利屋だというのはひと目でわかるだろう。
その状態で、この隊が襲われることがあるだろうか。
「わかったわよ。でも、不可抗力は勘弁してよね」
「だめだ。それも含めて……」
……俺に誓え。
至近距離でそうつぶやいて、タンゲルはルーの唇を貪った。
「一体何考えてんのかしら」
「あら、どうかしたの? ルー。ずいぶん機嫌悪そうね」
眉間を指でぐりぐりとマッサージしていたルー=ピコは目の前の客人の声に顔を上げた。
「ええ、ちょっと男ってのがわからなくなって」
「まったくよね。町中で大乱闘なんて。怪我でもしたらどうするつもりなのかしら。王都への到着がおくれてしまうじゃない」
「そうですね」
実際、何人かは多少の怪我をした。クララの館から呼ばれた治癒師のおかげで今は全く問題ないが。
「それにしても本当に似合うわ。……ね、ルー」
「何ですか」
こういう声を出す時は何か思いついた時に違いない。
「しばらくわたくしと入れ替わらない?」
「入れ替わるって……馬車に乗ってるだけなのに? それにラフィーネ様はいつもその格好をなさってるじゃないですか」
「だって、何かあった時に逃げやすいほうがいいでしょう? この姿なら馬にも乗れるし」
「それはあたしも同じなんですけど」
「じゃあ、宿にいる間だけでもいいわ。少しの間、身代わりをしてほしいのよ」
「……ラフィーネ様、それば宿をお一人で抜け出す、ということですか?」
ラフィーネは片目を閉じてぺろりと舌を出した。
「それはいけません。危険すぎます。次の宿場はダルシニーよりも大きな街。潜り込んでしまえば目に届かないところに簡単に連れ込まれてしまいます。もしそうなったら……」
「大丈夫よ。変なところには行かないわ。ただ、市場を見て回りたいだけで」
「いけません。……顔を他の男に見せるなと言われているのでしょう?」
「だって、気詰まりなんだもの。少しは息抜きさせてよ」
「ダメです。ラフィーネ様に何かあったらどうします。他の護衛をつけたくても、姿も見せてはならないんでしょう? 一人で動くのだけは絶対ダメです」
「なら、ルーがついてきてくれればいいじゃない? 身代わりにならなくてもいいわ。ルーはその格好で、わたくしはこの格好で行けば」
「バレますってばっ。そりゃ護衛は得意だけど……」
「じゃあ、決まりね?」
「ラフィーネ様っ」
人の話を聞きやしない。ため息が口をついて出る。
「……じゃあ、色々準備しますから。あたしのいうことをちゃんと聞いてくださいよ?」
「うふふ、なんだかワクワクしてきましたわ。ルー、楽しみにしているわね」
――ほんと、なんでこうなった。
仕方がない。次の宿ではイーリンとキーファに十分働いてもらうことにしよう。
身代わりが要るというなら、イーリンにさせようか。
彼女の軽蔑を含んだ冷たい目を思い出して、身震いする。……やっぱりやめとこう。




