111.ダルシニーの夜
昨日と同じようにラフィーネのマナー教室を受けながらの夕食が済んで、食後のティータイムを楽しんでいた時だった。
館の給仕がドラジェに耳打ちをして下がる。ドラジェはちょっと眉を寄せたがルーの方を見た。
「ラフィーネ様、ルーをお借りしてよろしいですかな?」
「あら、何か問題でもありましたの?」
「ええ、護衛隊の隊長から彼女の呼び出しがありまして」
ドラジェの言葉にルーは立ち上がり、ラフィーネを振り返った。
「申し訳ありません、ラフィーネ様。仕事の話かと思いますので行ってまいります」
「そう……残念だわ。遅くなるのかしら?」
ラフィーネは心底がっかりした顔で首を傾げた。
ドラジェはルーをちらりと見たあとで口を開いた。
「この時間からの呼び出しですので遅くなるかと。……ルー、日が変わるまでに戻れないようなら誰か使いを寄越せ。ラフィーネ様にご心配をおかけせぬようにな」
「分かりました。ラフィーネ様、本当に申し訳ありません。戻りましたら必ずお伺いしますから」
「そう……分かったわ。寝てしまってても起こしてちょうだいね」
それは約束できない。ぐっすり眠っている貴婦人を起こすのは気が引けるものだ。そうでなくとも中身が男の自分が、貴婦人の寝室にしのびこむなど――。
「かしこまりました。では、行ってまいります」
「ああ。タンゲルは宿の入り口で待っているそうだ。急いで行ってこい」
名残惜しげなラフィーネと不機嫌そうなドラジェに頭を下げて、ルーは足早に部屋を出た。
宿の入り口には見覚えのある広い背中が見えた。
仕事で呼び出された風を装うため、ルーは少しだけかしこまって声をかける。
「おまたせしました」
「ああ。じゃあ行こう」
タンゲルはちらりとルーを見ると、すぐに踵を返した。貴族向けの高級宿舎から繁華街へは少しある。普通は馬車で移動するものだろうが、今は馬車や馬を出せる状態ではない。すれ違う馬車の客人たちの好奇な視線を浴びながら繁華街まで降りると、ようやくタンゲルは肩の力を抜いてルーを振り返った。
「あの界隈は立ち入るだけで肩が凝るな」
「そうね。居心地が悪いわ。……まさかあたしまであの宿に泊まることになるとは思わなかったけど」
「ああ、まさかお前が銀の馬車に同乗することになるとはな」
「まったくよ。迷惑もいいとこだわ。……そういえばザジは?」
「店の前で待ってるって……ああ、あれだ」
タンゲルの指差す方向には確かに見慣れた顔が人待ち顔であたりを見回している。
「ザジ!」
「ルー。お疲れ。よく抜けてこられたな」
「ほんと、タンゲルが呼びに来てくれなきゃ、まだ堅苦しいお茶会を続行中よ」
タンゲルを振り返ると、彼は穏やかに微笑んでいた。
「次回もこの手が使えるかわからないがな」
「あー、まあ、バレなきゃ大丈夫だろ。とりあえず店に入ろう。ルーは飯食ったんだよな?」
「ええ」
「俺たちも他の奴らと食ってきたから、ツマミと酒さえあればいいよな?」
「任せるわ」
「それなら、俺の行きつけはどうだ。仕事でよくこの街を通るからいくつかいい店を知っている」
タンゲルの提案にザジもルーも異論はなかった。
待ち合わせの場所から少し歩いたその店は、表通りから少し入った静かな場所にあった。傭兵や便利屋らしき客がちらほらいるが、表通りのような喧しさはない。
「おやっさん、いいかい」
タンゲルは店に入るとカウンターに歩み寄った。カウンターの中にいた白髪の片目の男は、タンゲルを見るなりあごで奥を示した。
「奥のテーブルでいいよな。……おやっさん、いつものを三人前。あと適当にみつくろってくれ」
「あいよ」
タンゲルについて店の奥に入ると、カーテンで仕切られた席に座るよう促された。
「こんな奥……?」
「ああ、内緒話をするには最適の場所だ。他の席からは離れてるし、ここにはおやっさん以外は入ってこない。他の奴らが万が一この店に来ても、俺達には気がつかない」
「そこまで警戒することもないだろう?」
少し呆れたようにザジが言うと、タンゲルは首を振った。
「グリードたちならともかく、他の面子に見られたら乱入してくるのは間違いないだろう。あいつら、金をもらっても娼婦の館に行かずにお前を探してたからな」
「……あたし?」
ルーは目を見開いた。
――この街に来れば金さえ払えば女は抱き放題だ。だから、ここまでの辛抱だと思っていたのに、なんでまだボクを狙うんだ?
「ああ、あのあと銀の馬車に同乗するようになっただろう? 全く接触する機会がなくなって、賭けより鬱憤を晴らす方に傾いたようだ。王都に着くまで、銀の馬車から離れるな」
「……そんなにまずい状況になってるわけ?」
確認するようにザジを見ると、ザジも険しい顔をしてうなずいた。
「マジでまずい。本気でお前を襲おうとした奴以外は、お前がちらちらと目の前をうろつくのを見るのだけで十分だったんだ。それが、急にいなくなって、姿も見られなくなって、目つきが変わってきてた。娼婦でも買いにに行けば収まるだろうと思ってたんだがな」
「なにそれ……」
「ああ、アルだけはぶちのめしといたから、二度とお前を襲おうとはしないだろうけどな」
「アルって……ああ、あの」
「それと、お前が銀の馬車に乗るようになったのはドラジェさんの差金だって噂になってる。もともとお前はドラジェが準備した女だと思われてるからな。裏切られたと思ってるみたいなんだ。それを雇い主にぶつけるわけにいかないだろう?」
「……で、あたしに全部ぶつけようってわけね」
ルー=ピコはため息をついた。
「まあ、こうやって引っ張り出してるのも危険なわけなんだけどな。……こんな話、宿でできねえからな」
「帰りは俺が一緒だから大丈夫だろう。ここに来るまでも特に何もなかったしな」
タンゲルはそう言うとジョッキを傾けた。
ルーも目の前のソーセージにフォークを突き刺してかぶりついた。
「ところで、ルー」
「うん?」
「……銀の馬車のお客人って、男か?」
タンゲルの言葉にルーは咳込んだ。
「なに、言うかと思えばっ……びっくりするじゃないの」
「いや……一応確認しとこうと思って」
「普通に考えれば分かるでしょ?」
「男の相手をさせられることだって十分考えられるだろう?」
タンゲルは眉を顰めてルーを見下ろしてくる。ルーは眉間に指を当ててため息をついた。ザジは客人の素性を知っているし、この会話に突っ込んでくるつもりはないようだ。
「女に決まってるでしょ。でなきゃ誰が同じベッドで寝るもんですか」
「男だって同じベッドで寝るだろう?」
「だ・か・ら、女だって言ってんの。人の話ちゃんと聞きなさいよっ」
「へーえ、お姫さんと同衾してんの? ルー」
ザジの茶々入れに、ルーは深々とため息をつく。
「仕方ないじゃないのよっ。床で寝るって言ったら自分も一緒に床で寝るとか言い出すんだからっ。まったく……」
「それでそんな色っぽい唇してるってわけか」
言われてはっと唇を隠す。馬車の中で塗られた紅は拭ったはずだが、食事前に色々いじられてそのまだったのだ。
「そういや、化粧してねえか? ルー。なんか妙に色っぽい。いやマジでその格好で繁華街歩いたらぜってーやばい」
ザジまでジロジロと覗き込んでくる。あわててぐいぐい唇を拭うと手の甲には紅がついていた。
「あーもうっ。……その目で見るの禁止っ!」
「お前、その姫さんに弄ばれてねえか?」
くっくっと笑うザジをひと睨みすると、ルーはテーブルに突っ伏した。
「……そうよっ。退屈な姫さまの遊び相手をさせられてるのよ。夕べは着の身着のまま寝るって言ったら自分の寝間着引っ張り出して着せ替え人形させられるし、馬車の中では化粧で遊ばれるし。今日、あのままあの宿にいたら、なにされてたかわかんないわっ」
「そうか。……大変だな」
そう慰めるタンゲルの口ぶりも笑いを隠せていない。ルーは唇を尖らせると椅子ごと背中を向けた。
「まあ、そんなに拗ねるなよ、ルー。少なくとも銀の馬車にいる限りはお前は安全だって分かって安心したかっただけなんだ。な? タンゲル」
「あ、ああ。そうだな。……それとな、ルー」
「何?」
「絶対に一人になるな。銀の馬車から降りる必要がある時は、ドラジェさんか俺かザジを呼べ。グリードたちでもいいが、どいつもこいつもお前が隙を見せた瞬間に狼になる。……忘れるなよ」
「分かった」
タンゲルの言うことは尤もだ。というかこの二人がここまで言うくらいだ、本当に危険性が高いのだろう。その警告を無視するほどルーは馬鹿ではない。
皿に残っていた最後のソーセージを平らげると、タンゲルは立ち上がった。
「そろそろ帰るか。娼館に行った奴らはこの時間ではもう帰って来られないだろうし、他の奴らもいい加減諦めた頃だろう」
「だといいんだけどな……。まあ、俺も宿までは送るよ。万が一ってこともあるしな」
「そうね。日が変わる前に戻れなかったら使いを出すよう言われてるし」
まだ日が変わる時刻ではないが、夜が更けて行くに従って危険度は上がる。人通りが減った繁華街ほど怖いものはない。
ルーとザジもタンゲルの後に続いて店を出ることにした。




