【逃亡編】13.あたしと彩子
※20151206 改行位置修正
扉の前にあたしはいた。
扉の上には白いふくろうが止まっている。
「久しぶりね、ラトリー」
「ええ。お久しぶりです。……決めたのですね」
あたしはうなずいた。
「ええ。今すぐ……試練を受けるわ」
「おや、いいのですか? 確か、森に戻ってからと」
ラトリーの言葉にあたしは首を横に振った。あたしがリュウにだけ言った言葉をラトリーがなんで知ってるのか突っ込みたかったけど、ラトリーはあたしの導き手、召喚者だ。ずっと見ていたに違いない。
「ええ、もういいの。……あたしがリュウと結ばれたように、彩子も亨と結ばれた」
まさかほとんど変わらないタイミングでこうなっちゃうなんて、思ってなかった。
このまま扉をくぐったら、彩子の記憶があたしの記憶を上書きしてしまう。リュウとの幸せな記憶が、彩子の喜びにかき消されてしまう。
――それだけはいや。
「ラトリー、お願い。……彩子が結ばれた記憶をあたしの中に残したくないの」
「ああ、なるほど。わかりました。では、今朝あなたがリュウの元を去ったあとの現実での記憶を洗い流しましょう」
ひらり、とラトリーはあたしの前に飛んできた。いつものように腕を差し出せば、その足であたしの腕に止まる。
「この羽を食べてください」
一枚の羽をラトリーは嘴にくわえていた。おそらくはラトリーの羽だ。受け取って恐る恐る匂いを嗅ぐが、何の匂いもしない。ぺろりと舐めて見ると粉砂糖のような上品な甘さを感じる。
「そのまま齧って飲み込んでください」
羽というよりは砂糖菓子と呼んだ方がふさわしいそれを、言われたとおりに口に運んだ。かじっただけでホロホロと崩れ、舌の上で溶ける羽をすっかり飲み込むと、心臓のあたりにぽっかりと穴が開いたように感じた。思わず自分の胸を見下ろしたが、物理的に穴が開いているわけじゃない。
「今の羽があなたの記憶を消しました。今日の彩子を思い出せますか?」
腕に止まったままのラトリーに言われて、今日の彩子を思い出そうとした。が、思い出せるのは昨日の彩子までで、今日の記憶はリュウと朝別れてからさっきこの扉の前に来るまでが途切れている。
記憶がなくなるとこんな風に胸に穴が空くのだと初めて知った。
それでも、後悔はしない。
あたしはあたしの記憶が……トリムーンでのあたしの生活が大事だ。
彩子よりも。
あたしは選んだ。現実の彩子よりリュウを。
「ありがとう、ラトリー」
きゅっと心臓の上で右手を握りながらラトリーに微笑む。
「いいえ、どういたしまして。あなたの幸福のために役に立てるなら幸いです。さて……では、試練を始めましょう。試練について、どれぐらいご存知ですか?」
「リュウに聞いた程度だから……トリムーンに作る体によって試練の期間や種類が変わるってことぐらい」
羽を広げてラトリーはうなずいた。
「ええ、そのとおりです。あなたの場合は種族はそのまま人間ですから、リュウよりは期間は短くて済みます。一月もかからず終わるでしょう。試練が始まると、今までのように日が昇っても彩子が目を覚ましても消えることはありません」
知ってる。監禁されてたあたしを救ってくれたあと、リュウは昼も夜もずっとあたしについてくれてた。あの時にはもう試練に入ってたんだ。
「こちらで眠っても現実に戻ることはありません。逆に言えば、眠ってもあなたは消えませんから、以前みたいに貴重品を無造作に身につけていても安全、という状態ではなくなります」
「ええ」
召喚者は、日が昇れば身に着けているものごと消えてしまう。消えている間、身につけたものは完全に安全だ。だからこそ、高評価な便利屋を続けて来られたのだが、今後はそれを保証できなくなる。
召喚者だからと利用してくれていたお得意様は離れていくだろう。それは仕方がない。
「そして、あなたはリュウという伴侶を得た。今までのように根無し草で行った先で仕事を請け負い大陸をふらつく生活はもう終わりです」
「……ええ」
もともと、根無し草の生活になったのは、あたしが召喚者であり、帰る場所がなかったからだ。ラトリーと一緒にいれば特に困ることはなかった。便利屋ギルドには入っていたが、いつもラトリーが応対してくれて、あたし自身が利用したことはない。
ラトリーとの便利屋稼業は嫌いじゃなかった。頼まれた物を指定先まで運ぶのは面白かったし、そのついでに色々な街や村、国を渡り歩けたのも幸いだった。
でも、もう終わり。
寂しくないかと言われれば寂しいに決まっている。でも、もう決めたのだ。
「今後については、リュウとよく話し合って決めてください」
「分かったわ」
「ああ、わたしがこうやってあなたの前に現れるのも今回が最後です。扉も、今夜くぐったらもう二度とこちら側には戻れません」
「……ええ」
ラトリーとの付き合いは長かった。もう十年以上になる。常にあたしの側にいて、それが当たり前だと思っていた。――森に落っこちるまでは。
「ラトリー」
「なんでしょう」
「……ありがとう。こちらに呼んでくれて、いままで一緒にいてくれて」
くるりとラトリーの目が一周した。
「どういたしまして。あなたとの旅は楽しかったですよ。あなたをこちらに呼んで正解でした」
そうだ、聞いてみたいことがあった。これが最後だというなら、今聞かなければ二度と聞けない。
「あのね、ラトリー。聞きたいことがあって」
「ええ、なんでもどうぞ」
「……なんであたしを呼んでくれたの? 召喚者って何なの? なんでトリムーンに呼ばれるの?」
くるくると目を回しながら、ラトリーは答える。
「いいでしょう、選択を終えたあなたにはお教えしましょう」
ラトリーは腕から肩に移動してきた。
「こちらの世界――あなたがトリムーンと呼ぶこの世界は、三つの月を通じて複数の世界と隣り合わせて存在しています。稀に、月が重なった時に他所の世界で生まれた子供の影がこの世界に飛び込むことがあるんです」
あたしはラトリーが羽で指し示す三つの月を見上げた。こちらでもあちらでもない場所からでも三つの月は見える。
「影?」
「ええ。月が重なった時の影は普通のものより濃いのです。で、こちらに落ちた影を通じて、夢で本人に接触するのが我々の役目です。本人が希望すれば、こちらの世界に落ちた影に本体の心を重ね、召喚者としての体を得ることができる。召喚者の影が薄いのは知っていますか?」
「ええ。……本体がなく影だけだったからなのね」
「その通りです」
現実のあたしの心に影がついただけだから、月光は心を通り抜けて影を薄くしているのだ。
「納得したわ。じゃあ……誰でも来られるわけじゃないのね」
「ええ。こちらの世界に影がなければ召喚できません。そして、召喚に応じた者には望む能力を与えるのが習わしになっています。もちろん、魔法などのように無理なものもありますが」
「じゃあ、もう一つだけ。……召喚者はこの世界にとっては歓迎される存在なの? 歓迎されざる存在なの?」
するとラトリーは広げていた羽をたたんだ。
「もちろん、歓迎しています。但し、特殊な能力を持ち得ることも皆知っていますから、召喚者だというだけで襲われることもあります。教会は召喚者の保護者としても機能するようになっていますから、何かあれば彼らを頼ってください」
「ええ」
実際にピコのおかげでずいぶん助けられた。あたしも、リュウも。
「ああそうそう、複数の世界と接していますから、リュウとあなたのいた元の世界が同じとも限りません」
「ああ……そうなのね」
少しだけホッとしたと同じぐらい、がっかりした。もしかしたら、リュウの本体は山崎先生だったんじゃないか、なんて思ってたのよね。向こうとこっちで同じ人が運命の人だったら、なんてこともちらっと思ってたし。
「それと、夢の中で彩子にも会えるようになります。彼女も夢の中であなたと会ったことを覚えていられるようになります」
「リュウから聞いたわ。それも少し楽しみにしてるの」
「彼女にとってはあなたは彼女のことを全て知っている最も近い他人になるのでしょうね。良い関係を築いてください」
「分かったわ」
彼女はあたしにとっては分身というか自分自身だったもの。彼女のこれまでの人生はあたしの人生でもあった。これから彼女が生きる人生が幸多いものであることを願いたい。そう――魂の双子のようなものだもの。
「じゃあ、行くわね。ラトリー。本当に今までありがとう」
肩に乗るラトリーに頬ずりすると、あたしは扉に手をかけた。ラトリーがふわりと飛び上がり、扉の上に止まる。
「では、あなたの人生に幸多からんことを――サーヤ」
ラトリーに手を振って、あたしは扉をくぐった。




