108.約束
奥野くん、豹変してます。
……わんこ?
※20151206 改行位置修正
今日は元のプロジェクトメンバーはほとんど全員休んでいる。高広チーフももちろん休みだ。
がらんとした机に座って、あたしは仕事に没入していた。昨日の言葉通り、高広チーフからの仕事の指示書がメールで届いてた。三日分の作業量はありそうだが、定時で帰れ、という指示もついている。三日で終わらなくても問題はない、ということらしい。
少なくとも今日は定時で上がる。……約束もあるし、なによりいたたまれない。
……昨日のあれやこれやはやっぱり見られてたらしい。そりゃそうよね、エレベーターホール横でやってりゃ誰か通るし。
直接声をかけてきたりメールが飛んできたりはしないけど、前に奥野くんに相談を持ちかけられた時よりは視線が痛いし排斥感が半端ない。
だから、とにかく仕事に没頭した。お昼も席でおにぎりをかじって済ませた。
今までもこんな状況はあったし、実際に噂されてるあたしの噂は間違ったものじゃないから反論も弁明もするつもりはなかった。
今回も一緒だ。
ただ、違うのは……もう運命の人を探さなくて済むということ。
胸の奥に小さな火が灯ったみたいに暖かくなる。口元が緩むのを感じてあわてて引き締める。
時間が経つのが遅く感じられる。定時までの時間を数えてるだなんて、自分が自分でないみたいだ。
それに、やっぱり十日も入院していた影響は出てることを実感する。
通勤のバスに揺られる二十分、電車に乗っている二十分を立っているのが辛い。駅について会社までの一キロちょい、普段なら十分で歩ける距離を二十分かかる。
足や腕の力が萎えてるだけじゃない、背筋もだ。重たい荷物を担いでいたりすると背中や脇腹の筋を痛める。いつも担いでるバッグも、中身を整理して重たくない素材のバッグに切り替えた。
一ヶ月もすれば元に戻るだろうとはリハビリの時に言われた。それまでは疲れない程度に体を動かそうと決めた。
お茶タイムに化粧直しに行くと、後輩の子と鉢合わせした。忘年会の時に奥野くんの話を振ってきた子だ。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
剥げかけた口紅を塗り直す間、彼女は手にした刷毛を動かすこともなくじっと鏡を睨んでいた。
「……恥ずかしくないんですか。あんなとこであんなことして」
見てたんだ。
紅筆を止めて彼女に向き直る。
「奥野くん、可哀想だと思わないんですかっ。あなたみたいな人と噂になって……キスまでされてっ」
これもよく言われたな。告白されてすぐキスしてた頃は特に。あたしも意地になってたし、ところ構わずキスしてた。彼女たちから言われたことも真っ当なことだし、自分が悪いはわかってたから黙ってその謗りを受け止めていた。
でも、ごめんね。
もう違うの。
あたしは彼を手放せない。
「彼から仕掛けてきたのよ」
「えっ……」
いつもならどんな言葉も聞き流して何の反応も返さなかった。冷たいと言われる原因はこのあたりにあるのだろう。
「それに……本当に好きな人となら、どこだって構わないわ」
言い切って微笑むと、彼女は怯んだように視線を逸らして足早に化粧室を出ていった。
あたしは鏡に向き直って、深々とため息をつく。
好き、という言葉を押し出すのには勇気がいった。息苦しいし心臓もバクバク言ってる。鏡に映った顔も赤くなってる。
彼女の口から他の子たちにも伝わるのはあっという間だろう。
また居心地が悪くなるのか、と少し落胆する。でも、それは最初からわかってたことだし、今までも気にしないようにしてきた。
仕事は仕事、プライベートはプライベート。別物だ。
「さ、仕事仕事」
大きくのびをして、あたしは居室に戻った。
定時であがり、居室を出る。昨日のことが思い出されてやはり顔が熱くなる。
エレベーターホールに向かうと、定時上がりの職場の子や同じフロアの他の会社の人がすでに十人ほど待っていた。
ちらちらと視線が飛んでくるのが痛い。うわ、社外の人にも見られてたのか。
――覚悟はしてたけど結構来るものがあるなあ。
「先輩」
ぐいと腕を引かれた。びっくりして振り向くと、ラフなTシャツにチェックのシャツを着込んだ奥野くんが立っていた。
「奥野……くん?」
病院に来てた時はいつもスーツだったし、会社でもスーツ姿が多かったから、一瞬誰かわからなかった。
「なんでここに……?」
「うん、昨日約束したけどもしかして逃げられるんじゃないかと思って、待ってられなくて」
腰に腕が回ってる。顔の距離、近いってばっ。周りの視線が痛い。
ポーンと鳴ってエレベーターが到着する。
「えっと、とりあえずエレベーター来たから、乗ろ?」
ぞろぞろとエレベーターに人が吸い込まれていく。そちらに、と動こうとしたが、彼の腕は緩まない。
「奥野くん?」
「……亨って呼んで」
こんな甘い声、反則だ。でも、ここはまだ会社の延長で……。
「だめだってば、ビル出るまでは禁止っ」
「一階の喫茶店もビル内だけど、だめ?」
悲しそうにハの字眉になる。なんなの、この豹変ぶりは。耳としっぽが見えるようだ。
「と、とにかくフロアから出るまではだめっ」
「分かった。じゃあ、早く出よ」
エレベーターの下行きボタンを押す。エレベーターで下に降りるまで、亨はあたしを腕の中から離そうとしなかった。




