蛮 -burn-
一
湿った空気が充満する。
ようやく止んだ長雨が、岩肌に染みこみその色が深まる。
ひたひたと濡れた足音と荒い呼吸が生ぬるい石壁に跳ね返って飛んでいく。
不快な空気が不快な知らせを呼んできたのだ。
その急使の男は息を切らせて廊下をほとんど素足で走っていた。
雨でビショビショに濡れてしまった身体から水滴が飛び散る。
その出で立ちからも事の重大さを推し量ることができた。
男が階段を上がり切る手前で、二人の兵が立ちふさがる。
「待て。まず要件を言え」
「・・・火急の知らせがある。王はおられるか」
すると、奥から声が聞こえた。
「オレはここだ。入ってこい」
声を聞き、二人の兵も無言で道を開ける。
男はゆっくりと階段を登り、大きく開いた門から中を見据えた。
玉座に王の姿はない。
言葉なくただ玉座を眺める。道をふさいだ兵達も、男の空気に気づき中を覗き込む。
焦っていた頭を戸惑いがよぎるも、門をくぐり玉座に近づいた。
「・・・王?」
「ここだぁ」
太い声は後ろからした。
ぐわっと、振り返る男の喉になにかが跳びかかる。大きななにか。
男に向かって浴びせかかるようにして現れたそれは、瞬間、鼻先でその動きを止めた。
男の眼前に広がる景色は一匹の虎の牙の群れ。
ゴロゴロと岩の転がるような音が牙の奥のぽっかり開いた穴から聞こえてくる。
今にも噛み付かんとする虎の頭が男の視界を遮っているのだ。
すこし遅れて、男の腰が地に落ちた。
「危ない危ない。喉笛を噛み切られては話が聞けんところだった」
先程の太い声がさらにその後ろ、虎の影から聞こえてくる。
一本の引き締まった腕が虎を後ろからつかみ上げ、その動きを制しているのが見えた。
「こいつめ、雨の中せっかく連れてきてやったのに全く懐かん。可愛気のない」
そう言うと、虎の首根を力任せに引っ張り上げ、地に押し付けてその上に座り込んだ。
「なにがあった」
その言葉ではっとなった男は、姿勢を正し、やや上ずった声で話し始めた。
「・・・はっ、益州四郡の動きに急変がありました」
「なんだ」
「建寧太守雍ガイとソウ柯太守朱褒が戦死したとのこと」
「なにぃ・・・」
虎を抑えていた腕がひと際太くなる。必死にもがいていた虎も、息がつまり、次第におとなしくなり始めた。
「高定はどうした。まだ生きているのか」
その名を聞き、男の顔がこわばる。
「それが・・・雍ガイ、朱褒を殺したのはどちらも高定配下の鄂煥とのことです」
王と呼ばれる者の眉間に力がこもる。その表情は先程男を襲った虎の形相を思わせた。
すっかりおとなしくなってしまった虎の上からすっと立ち上がり、王はどっかと玉座に腰を降ろした。
「雍ガイが死んだぁ? あいつがか? しかも高定んとこの瓜坊に殺られたなんざ、おもしろくねぇ」
急使の男はそれ以上何も言えず、気を失った虎を気にしながら地面を見つめる。
「高定はもともと乗り気じゃあなかったらしいが、殺すほどなにが気に入らなかったってんだ」
片肘をつき短く切りそろえた髭を撫でる。
ふん、と鼻息荒くひと呼吸し、その王はおもむろに立ち上がった。
「朱褒はまあそうでもないが、雍ガイはあれでいて気の合う男だった。その死を弔うは必然」
石造りの部屋の温度が上がった。
隆々とした王の身体がその陰影をさらに濃くする。
力が込められた上半身の肉が締まり、太い血管が身体中に浮き上がりだした。
羽織っていた薄手の着物を放り投げ、眉根に大量の皺を集めたまま、王は口の端を釣り上げて笑いながら叫んだ。
「高定よ、この孟獲様直々に、今から言い逃れを聞きに行ってやるわ」
二
建寧城内。
高定配下の鄂煥は憤りを感じていた。
主君のためと、この手で雍ガイ、朱褒を討ち、その功績に南中三郡を手に入れることができたというのに、主君である高定は近頃浮き足立っていた。
越雋からここ建寧に居を移して以来、積極的に人前に出ることを避けるようになったのだ。
それに、太守二人の首級を上げた張本人である自分の報酬が期待していたほどではなかった、ということにも少なからず不満はあった。
報酬が目的ではないと、自分に言い聞かせてはみるものの、それ以来、主君の態度など一挙手一投足を気にしてしまうようになっていた。
もともと細やかなことに捉われる性格でないことが、鄂煥を次の行動に移させた。
「御主君、鄂煥でござる」
「・・・なんの用だ」
明らかに不機嫌そうな声が返ってくる。
「中に入ってもよろしいか」
「・・・。入れ」
気負うことなく中に入る。
気怠そうに浅く座った姿勢の主君高定がそこにはいた。
「御主君、少しお話したきことがござる」
「なんだ。あの報酬では不服だったか? なぜ自分は大将二人の首を狩った功績として、三つもある郡の太守に選ばれなかったのか、と」
「・・・いえ」
否定することしかできなかった。
今まで感じていた不満がそのまま寒気に変わった気がした。
「鄂煥、私がお前を太守に選ばなかったのは、もちろんお前の腕を自分の近くに置いておきたいという我儘もある」
高定の目はじっと鄂煥を見据えている。
「だが一番の理由は、あれが全て自分の功績だと信じていることだ。それは危うい考えぞ、鄂煥」
「・・・どういうことでございましょうか」
自然と言葉がかしこまっている。単純な男だ、と高定は少し肩をすくめた。
「雍ガイと朱褒を討ったのは確かにお前だ。だが、それがたやすくできたのはどう考えても諸葛孔明の策の為すところ。・・・私はやつのことがおそろしい」
はっとして鄂煥は主君の顔を見つめる。眉間にゆるく皺が入ったその顔は怒りや哀しみといった強い感情ではなかったが、えも言われぬ苦悩に満ちていた。
「やつは私と雍ガイの些細な不和をつき、全く自らの手を汚さずして南中の叛乱を抑えたのだ。私とて共に手を合わせると誓った仲。殺すほど憎かろうはずもない。それが、全て終わってみれば叛乱鎮圧は私の裏切りが原因ではないか。功績もなにもない」
南中三郡を得た太守の顔はむしろそれを重荷と捉えているようだった。
「三郡を守れとやつは言った。当然こんなもの恩賞でもなんでもない。事の責任を私に押しつけるため。孔明の評価は上がるがその後の恨みは全て私が負う。だが、充分すぎる報酬を与えられた私には逆う理由になるものなどない。終始抗う事すらままならん」
高定は忌々しげに咳払いをし、鄂煥のさらに後ろに視線を移す。
それに気付いた鄂煥も振り返って自分の入ってきた方を見た。
しんと静まる部屋に遠くから急いた足音が聞こえる。
「鄂煥、やっと恨みが廻ってきたぞ」
高定は急使が現れるのとほぼ同時に立ち上がり、少し歩いて鄂煥の肩を軽く叩いた。
「南蛮王様はお怒りだ」
*
「ずいぶん遅かったではないか」
城門上から眼前に広がる群勢に対し、高定は堂々たる態度でそう叫んだ。
高定の隣には鄂煥、そしてその他の城兵たちが弓を構えている。
城外には孟獲を中心に五百騎ほどの兵が密集していた。
孟獲は馬上で腕を組み、口元には笑みを浮かべて高定を睨みつけている。その表情に自分の感情がくすぐられている事に気づくことなく、高定は再び叫んだ。
「まさかその数で城攻めというわけでもあるまい。要件を言え」
組んでいた腕をほどき、馬の首根を撫でながら南蛮王は答える。
「てっきり越?の方にいると思っていたからな。建寧まで戻ってくるのに無駄足を踏まされた」
「気を利かせたのが仇になったか、すまんな」
互いに口調こそ軽いが、腹に据えた感情は周りを圧迫するのに充分な淀みを与えていた。
「高定、お前が建寧城で偉そうな顔をしている事は、オレにとって不愉快だ。雍ガイはどうしたぁ」
「それがわかっているからここへ来たのではないのか」
「ほぉ、思っていたより正直だな。ではオレも真っ向から問おう。どうして雍ガイと朱褒を裏切った」
高定の失笑は孟獲まで届くことはなかったが、嫌にゆっくりとした口調がそれを物語っていた。
「単純な話だろう。勝てる見込みを感じぬ叛乱に見切りをつけたまで。両郡を抑えて蜀漢に降れば、待遇も悪くはならん。それが思いのほか好待遇だったというだけだ」
「オレと対立する事も承知の上という事か」
心持ち低く声が響く。
「お前は南中の叛乱に積極的には参加しておらんではないか。お前と対立する理由など私個人にはない」
「オレは建寧の出だ。同郷のよしみで雍ガイを弔いたいという意志はあるぞ」
「なんと、南蛮王に漢民族の血が混じっているとはな」
隣にいる鄂煥ですら嫌気がよぎるほど、その言葉には皮肉が満ちていた。
「そんな事は我らの民の方がよく知ってる。ことさら大げさに言うまでもない」
それを気にもとめない素振りで孟獲は話を続けた。
「お前に対立の理由があろうがなかろうが、お前の立っているその城はオレの故郷で、友雍ガイの仇敵が陣取っている。攻め入るには充分な理由だろう。だが今はその城に興味はない」
「なに?」
「なにぶん王という身分でな。私怨に囚われるわけにはいかんのだ。オレの目的は、心も肝も小さい高定殿がどんな魂胆で裏切りなどという大胆な行動に出たのかを知りたいんだ」
「貴様ぁっ!」
真っ先に声を荒げたのは鄂煥だった。
高定はそれを左手で制し、落ち着いた様子で返した。
「自分の見込み違いを私の器の大きさでごまかされてはかなわんな。私は国の衰勢を見事推し量ってここに立っている。南中はどのみち蜀漢に帰順するしかなかったのだ」
「ほぉ・・・」
高定の言い分を、孟獲は意外にも興味深げに聞いていた。
しめたと言わんばかりに高定もまくし立てる。
「私が南中の叛乱に不本意ながらも参加したのは、隙さえあれば雍ガイ、朱褒を討ち南中を我が手に治めるため。結果は、この通りだ」
この高定の言葉が、ほぼ全て偽りであることは鄂煥を除く建寧城下の兵士達には知る由もなかった。
そういう意味でも高定の太守としての手腕を鄂煥は素直に感じ取っていた。
「ひとつ・・・訊いていいか?」
その場にそぐわないくだけた調子が聞こえた。
「ん?」
「ひとつ訊いても構わんかと言っておる」
孟獲だった。
太い両腕を厚い胸板の前で組み、小首を傾げながら素朴に話しかける孟獲に飲まれ、高定はつい思わず問い返してしまった。
「な、なんだ」
「確か、蜀漢の初代皇帝劉玄徳が死んだことをきっかけに、雍ガイは叛乱を決めたはずだ。後継ぎはまだ若いらしいからな。お前の言う衰勢はむしろ劉蜀にある。なのにお前は南中にこそ勢いなしという言いまわしだ」
今まで聞きに回っていた孟獲の口から流れるように言葉が溢れる。
「そもそもお前、」
孟獲の両眼がしっかりと高定を捕らえる。獣の眼差しを一身に浴びて高定の体は不意に強張った。
「さっきから何をそんなに恐れてるんだ」
「なっ!」
眼球に血が巡る。頭に血が逆登ってくる音が聞こえる気がした。
図星を突かれ、恥と怒りが入り交じった感情を悟られんとすることに意識が削がれ、何ひとつ言葉を返すことは出来なかった。
そんな高定を見切ったかのように孟獲は続ける。
「お前にはオレと話を始めてから、劉蜀には勝てないという憂いがある。噂の玄徳もいない幼帝を掲げる蜀にだ。お前が手に入れたと見栄を張った南中三郡も与えられたものだと漏らしていたぞ。南中人の誇りも見失うほどお前を萎縮せしめるのはどこのどいつだ」
「だまれっ!」
この怒号に最も驚いたのは高定だった。
自分の立つ城門の下から轟いた憤怒の叫びは、その勢いで橋を倒させたのかと錯覚させるほどであった。
堀に橋が掛かり、開いた城門の先に見えたのは殺気を剥き出しにした鄂煥の姿だった。
「鄂煥か! なぜ橋を降ろした!」
高定の位置からはまだ鄂煥を確認する事はできない。
「鄂煥! 返事をしろ!」
城門からゆっくりと馬の鼻先が現れる。
鄂煥は主君の呼びかけに応える事なく噛み付くような視線を孟獲に向けていた。
「孟獲! 貴様如きがこれ以上御主君を愚弄する事はかなわんぞ」
怒りのあまりか、その声は震えているように聞こえた。
それをつまらなそうに眺めて、孟獲は返す。
「お前とは話しておらん。早く橋を上げんと城を獲るぞ」
「・・・なんだと!」
孟獲の煽りに子供の様にあしらわれる鄂煥を見て、高定は自分の悩みを部下に吐露してしまったことを激しく後悔した。
自分と同じ悩みを共有したことにより、鄂煥にも弱みができてしまった。それを他人に指摘されれば動揺を隠せない人間であることはわかっていたつもりだったのに。
呼びかけに応えない部下を見下ろし、苦悶の息を漏らす。
一方の孟獲は冷静な様子で傍らの男に向かって呟いた。
「どうだ阿会喃。猪が釣れたぞ」
「お見事です」
言葉少なに男も応える。
「では最後の仕上げをして帰るか」
そう言う孟獲の声に反応して、先の男と反対側の影が動いた。
「待て。オレが行く。オレだけ前に出ればあの猪は一人で出てくる。その方が話が早い」
「・・・・」
五百の中にあって異様な雰囲気を醸し出している影が一歩下がる。
孟獲は馬の腹を蹴って一騎前進した。
それに呼応して鄂煥も橋を渡り、少しの空間を挟んで両者は対峙した。
「孟獲、一騎討ちぞ」
「瓜坊が。獣としてはオレの方が格上だとわからんか」
「ぐぬ・・・!」
辛抱堪らず右手の方天画戟を構える。
孟獲も腰に帯びた刃の広い剣を抜いて構えた。
二人の動きが止まる。
一瞬の間もなく動いたのは鄂煥だった。
正面から鋭く戟を振るう。
孟獲は鼻先すれすれで二度の攻撃をかわし、三合受け返してみせた。
馬を交差させ、再び対峙する。
勢いのまま突進してくる鄂煥に孟獲が呼びかけた。
「鄂煥!」
「!」
「オレの目的はお前の首だ!歯を食いしばれよぉっ!」
刹那、孟獲の馬が相手の馬の鼻っ柱目掛けて顔を打ちつけた。
鄂煥の馬はその衝撃を受けきれず、前のめりに倒れ込む。
馬の動きに引っ張られ、鄂煥の体が前方に飛び出して来たところに孟獲は刃を振り合わせた。
馬から鄂煥が転げ落ちる。その胴体には既に頭は見当たらなかった。
主人を失った馬は興奮したまま体勢を立て直し、どこへともなく走り去ってしまった。
土煙の舞う地面に鄂煥の首が転がる。
馬を落ち着かせ、孟獲は高定を仰ぎ見て叫んだ。
「雍ガイ、朱褒の仇は討たせてもらった!こいつの首は置いて行く。南中の同志として二人の墓前に掲げておけ!」
言われた高定の様子にあまり変化はなかった。
鄂煥が自分の声に応えなくなった時から覚悟していたことである。
むしろ問題はこの先にあった。
この城はどうなってしまうのか。
圧倒的な兵力の差にも考えが及ばぬほど、高定は動転していた。
だがその予測に反し、孟獲はそのまま馬の踵を返して背中越しにこう言った。
「建寧はオレの生まれた地だ。廃れぬようしっかり治めろ。また遊びに来てやる」
そうして自身が連れて来た群衆の間を駆け抜けると、それを追うように連なって孟獲軍は跡形もなく去っていった。
残された高定はそれを驚くほど無感動に見続けていた。
*
建寧城をあとにした孟獲軍が地を駆ける。
黙したまま先頭を行く南蛮王が突如口を開いた。
「阿会喃、玄徳亡き後の蜀について調べてこい。噂程度で構わん」
「はっ」
「大体わかったら董荼奴と金環三結を連れてオレんところに来い」
「わかりました」
言うや否や十数騎が列を離れ、見えなくなる。
速度を変えず進む集団の中で孟獲は囁く。
「どんな奴だろうなあ、忙牙長」
「・・・」
「荒れるぞこれぁ」
それっきり一言も発することはなく、荒ぶる軍馬の群れは森の中へと吸い込まれていった。