星夜の歌姫
記念すべき、小説家になろう初投稿作品です。拙い点が散見されるとは思いますが、寛大なお心でご覧いただければ僥倖でございます。
ある日、僕は一人で夜の海岸に来ていた。
それは何となくではあったけど、夜の海が見てみたくなったからである。
夜の海は不思議な美しさをもっていて、肌寒さはあるけれども居心地がよかった。
そしてその日は夜空いっぱいに星が輝いていた。
それは星空の絨毯とでも呼びたくなるような、本当に素晴しい景色だった。
僕以外には誰もいない。
この海と夜空が僕のものであるかのような錯覚さえ感じた。
静寂が支配するこの美しい場所。
しばらくそうやって海と空を眺めていた。
すると、その静寂に混じって何かが聞こえてきた。
それは歌声であった。
美しい歌声。
見渡してみたけど、当然僕の他に人の影はない。
でも、確かに歌声が聞こえる。
美しくて、思わず引き寄せられる澄んだ音色。
一体どこで歌っているのだろう。
近いようで、遠くのようでもある。
僕は海の方へ身を乗り出して、岸壁の下の方を覗き込んだ。
ようやく僕は歌声の主を見つけることができた。
海岸に近い小さな岩の上に、女の人が座っている。
でも、彼女が普通の人間ではないことはすぐにわかった。
彼女は、人魚だった。
彼女は僕に気が付いていない。
水平線と空が同化する美しい夜の海で、彼女は歌っている。
どうして、こんなところに人魚がいるんだろう。
いや、それよりもどうして彼女は歌っているんだろう。
それはどこか寂しげである。
哀しみの曲なのだろうか。
それはどこか喜びに満ちている。
恋の歌なのだろうか。
僕にはわからない。
ただひとつ確かなのは、僕が彼女に魅せられてしまったということ。
そう、僕は人魚に恋をしてしまったのだ。
星明りに照らされた彼女は、今まで出会ったどんな女性よりも美しく見えた。
彼女から一瞬たりとも目を離すことができない。
しかし間も無く、彼女は海に潜ってしまった。
僕はじっと待っていたけど、あの娘はそれっきり戻ってこなかった。
次の日も、その次の日も、ぼくはその海岸へむかった。
でも歌声は聞こえてこなかった。
彼女の姿はない。
僕は彼女に会えることだけを願い、毎日のようにそこへ向かった。
そして、空にたくさんの星が輝く夜。
彼女は歌っていた。
前に聞いたときよりも澄んだ音色で歌っていた。
僕は彼女と話がしたかった。
勇気を出して、彼女がいつも歌っている岩の近くに行こうと思った。
ガードレールを乗り越え、なるべく近くへ。
不安定な足場を、岩壁にしがみつくようにして歩いていく。
額に汗をかくほど、岸壁を渡り歩くのは怖かった。
でも、おかげで、彼女との距離が縮まっていった。
もう少しで、話ができる距離だ。
それなのに。
ああ、何ということだろう。
僕はうっかり、足元の大きな石を、海に蹴り落としてしまったのだ。
静かな海に、その音は十分な音量だった。
すぐに唄が止んだ。
彼女が、こっちに気がついたのだ。
驚きとも、恐怖ともとれる表情だった。
1秒か、2秒か、わからない。
彼女はすぐに海に飛び込んでしまった。
僕は叫ぼうとした。
それで、つい、片手を思いっきり伸ばしてしまった。
体のバランスが一気に崩れた。
何が起こったのかはすぐにはわからなかった。
僕は冷たくて、暗い海に、僕は落下していたのだ。
パニックになりながらも、岩にしがみつこうと必死になった。
でも足場だった岩は結構な高さがあったのでよじ登るのは難しく、どうにか手ごろな高さの岩を見つける他ない。
ようやく岩場に登ったときには、あまりのしんどさに何も考えられなかったほどであった。
誰かの笑い声が聞こえた。
くすくす笑っている。
見れば、あの人魚が、海面に頭を出してこっちを見ているのである。
恥ずかしさの中に何とも言えない、妙な嬉しさがこみ上げてくる。
その一方で、正直ちょっとだけムッとした。
だけど彼女は興味が湧いたらしく、岩場でへたりこむ僕に好奇心に満ちた眼差しを送っている。
その日から、人魚との恋が始まった。
どうやら彼女は星が煌く夜に唄を歌うのが好きらしく、空にたくさんの美しい星が輝く夜だけ会うことができた。
始めは遠かった距離も、会う毎に警戒心が薄れていったのか、いつの間にか同じ岩の上で一緒に座るようになった。
言葉は通じなかったけれど、彼女の唄を聴いているだけで僕は満足だったし、僕を見ると笑顔になる彼女を見れば、それだけで幸福な気分になった。
しばらくそうした逢瀬を続けていた。
でも、彼女は陸上で暮らすことはできないし、ぼくも海で生活することはできない。
それは初めからわかりきっていたこと。
それなのに、この問題がどれだけ恨めしかったことだろう。
一年程経って。
別れの日がやってきた。
彼女は首を横に振って、もう会えないとジェスチャーする。
このままただ会うだけの日々は何にもならない、彼女はそう言いたげであった。
僕のことを思ってのことであったに違いない。
僕は人魚姫の話を思い出した。
でも、この場合は立場が逆のようだ。
僕が人魚になりたい程なのだ。
最後に、彼女は僕に美しい貝殻をプレゼントしてくれた。
それは今まで見たことのないような、宝石のような貝殻だった。
それ以来、その海岸で人魚の唄を聞く事はなくなった。
だけど星が煌く夜の海を見るたびに、もらった貝殻を見るたびに、あの美しい人魚とその歌声を、そして何より大切な思い出を、僕は鮮明に思い出すことができるのだった。