死発電車
がたごとと、小刻みに世界が揺れる。
「ん……、あれ」
薄目を開けると、こびり付いた眠気に後ろ髪を引かれる。うつらうつらと、ぼやける思考でゆっくりと周囲を見渡し、初めて電車に乗っていることに気づいた。
「っ。やべ、寝過ごした!? 今どこだっ?」
目が覚めてくると、俺は慌てて振り返り、窓の向こうを確認した。外はのっぺりとした暗闇が広がっている。次の停車駅や、他の路線との連絡方法のアナウンスも転寝している間に終わってしまったのか、どのあたりを走っているか結局わからなかった。
過ぎたこと、やってしまったことがしょうがないと思うが、肩が落ちため息をもらすのは止められなかった。
「とりあえず、5分もたてば次の駅に到着するだろ。はあ。けどいつのまに寝ちまったんだろ。やっぱ疲れてんのかなぁ」
三度ため息を漏らし、俺は最近の生活を振り返ってみた。
仕事が忙しいという意味では順調だった。先週はいくつか仕事の納期が積み重なって大変だったが、社員が一丸となってどうにか切り抜けた。これでしばらくは落ち着くはずだが、冬場には最大のハイタイムがやってくるので、嵐の前のなんとやらというやつだ。
仕事が皆無というわけでもないから、気を抜きすぎてもいけない。
「最近、仕事ばかりだな……」
思えば駆け込みの仕事で頭がいっぱいで、毎日終電近くになっていたし、休日も問題や異常がないか不安で、羽を伸ばせずアパートの自室でだらだらとしていた。
「な~に、さえねえ顔してんだ。佐々岡」
両肩を下ろしたところにはつらつとしたか声がかかった。
顔を上げた俺は、大いに驚いた。にんまりと笑い、尖った犬歯が人好きそうな印象を受けるサラリーマン風の男は、小学校に上る前までよく遊んだ友人の新見だった。
「新見? え、お前……なんで」
「なんだよ、間の抜けた顔しやがって。外国に移住でもして二度と会えないと思った友人と再会したって感じだな。なんだ? 俺がここにいちゃあ都合が悪いのか?」
「あ、いや……。まあ確かに二度と会うこともないと思ってたが」
最後に遊んだのは4歳の頃だった。幼稚園の友達と共にサッカーしたのが最後の思い出で、それきり別離して俺は小中高、大学まで通って就職した。今の会社は2社目になる。
新見と積もる話もあり、俺たちはまるでガキの頃に戻ったみたいに笑いながらよく話した。
とにかく盛り上がった。詳細な内容までは覚えていないが、新見と離れ離れになってから俺が学校通ってどうだったとか、中学のときの初恋の話とか、大学時代に二股されて悲惨な三角関係に苦労したとか、最初に就職した会社でであった彼女のこととか、近況を新見に話して、新見も同じようなことを話していた。
「女って面倒くせえよ。いや、お袋が親父と喧嘩してっとこ何度も見てっからわかってたけどよ、マジ面倒くせえわ」
新見はあっけかんと苦笑いしたが、彼の口から両親の話が出てきたことに俺が内心苦虫をかみ締めたように苦しくなった。
「なにか、あったのか?」
だからといって、ありえないと思っていた再開に水をさす気にもならず、表面上は苦笑に付き合う風に表情を取り繕って続きを促した。
新見は俺の配慮に気づいたでもないが、相当嫌な思い出なのか、陰鬱な顔で続けた。
「だってよ、ひとたび口を開けば、少しは家のことを省みてよ、だぜ。どうして女っていきもんは、男があせく働いて金を稼ぐことを当然の義務みたいに言うくせに、自分が篭って家事をすることは間違いだって言うのかね」
「そりゃあ、男女平等っていうか、最近は男でも料理とかするし」
「共働きならいいさ。けど働く気もねえのに男女平等とか、時代錯誤とか、もっともらしい言葉を並べるやつが一番着にくわねえの」
新見は忌々しげに舌打ちして、腹立たしさをあらわにした。
「理不尽に要求する客や、無理を通して仕事回す上司とか、言うことを聞かない後輩とかに本音を抑圧されるのと、日々の大半を家事に追われ、自分の時間が減っていくのと何が違うんだよ」
同じだろ、と剣呑な目で新見はもらし、話を切り上げた。
「お前は変わらねえな。いっつも他人に振り回されてやがる」
「お前が荒んでんだよ。ほっとけ」
「そうかい。……んじゃま、俺はそろそろお暇するわ」
膝を打って立ち上がった新見は俺を見てそう言った。どうやら、話に夢中になっているまに新見の降りる駅がまもなくに迫っていたようだ。
到着のアナウンスが聞き逃してしまったようだが、新見は迷い無くドアに歩いていった。
「じゃあな。俺もまさか会えるとは思わなかったわ」
「そうだな……。今度、……もし今度があるなら一杯飲みに行かないか? まだお互い話しきれてないこともあるだろ」
「……ああ、そんな機会があればな」
最後に寂しげに応えて新見は電車を下りた。止まった位置が悪かったのか、俺の座る位置から駅名はわからなかったが、発射の汽笛と共に電車は再び走りだす。
相変わらず外は暗く、小刻みに揺らしながら走る電車のエンジン音だけが響く。
「おや。佐々岡じゃあないか?」
当てもなく外を眺めていた俺を、しわがれた声が呼び止めた。
「高杉先生じゃないですか! どうも」
「ああ、よいよい。佐々岡も学生ではないのだから、気を張らず楽にしておくれ。といっても公共の設備の中だがね」
根元まで真っ白なあごひげをなでながら隣に座ったのは、大学時代お世話になったゼミの教授、高杉一斉先生だった。経済学を専攻しており、主に、ゲーム理論から見る市場競争の原理などを研究していた。
ゲーム理論と聞いて、ファミコンだのゲームボーイなんかを想像していた俺は、数学を交えた企業戦略うんたらと聞いて、進路を間違えたと後悔したことを今も覚えてる。
「お久しぶりですね。先生に尻叩かれながら卒論書いてた時期が懐かしいですよ」
「はは。私としては仮説の立て方や、過去に成功した企業の戦略を土台とした命題など、まだまだ詰めの甘く、叱責する部分は多々残っていたのだがね。まあ、学士過程ならぎりぎり及第点だろう」
「あはは、手厳しいですね」
一見好々爺然としている高杉先生だが、その実、厳格で気性が激しい性格は学部内では有名な話だった。ことレポートに対しては顕著で、やれ文章構成がなってないだの、日本語の使い方が間違っているだの、だらだらと主観を並べるだなど、4年間で一発合格をもらった学生はすずめの涙ほどしかいない。
「しかし、電車で会うとは珍しいですね。先生は確かバスでしたよね」
「まあな。たまには気分を変えてこちらに寄って見たのだ。まさか、気まぐれに乗った電車で教え子に会うとは想いもしななんだがな。はは、なんとも珍妙なめぐり合わせもあるものだ」
「そうですね」
そこで俺はふと気がかりだったことを高杉先生に尋ねた。
「先生、お体の方はもうよろしいのですか?」
「うん? あまりよろしくはないがな。全く私も衰えたものだよ」
「ご謙遜を。学生時代は柔道や空手で鍛え、大学の講師となってからも太極拳やら合気道やらたしなんで、いまだ現役でしょう」
「はっは。おべんちゃらも悪くはないがな、実際はそうでもないのだよ」
愉快そうにひげを揺らしながら高杉先生は笑う。風のうわさで肝臓を悪くして通院がちとなり、症状の悪化を気に教授を辞意し、サナトリウムに入ったと聞いたが、取り越し苦労だったようだ。
「あれ……、なんか」
高杉先生といくつか言葉を交わして、ふと違和感を覚えた。思考にもやがはってすっきりしないというか、大事な記憶がごっそりそぎ落ちているような感覚を覚える。
なにか、忘れている? いや、意識的にに隔離しているのか?
「どうしたかね。まだ人生半ばというのに、よもやボケてしまったか? まったく軟弱ものめ。そんな調子で社会人として立派にやっていけるのか?」
「え、……あ、いやぁ。そんなつもりはないんですが」
高杉先生の呆れ声に我にかえった。振り向くと先生は目を細めて、慈しむ様に破顔した。
「まあの、佐々岡の人生はまだ長い。今は自分の立ち居地も定まらずふらふらしておるやもしれんがな、そんなもの私の年になってもいまだ見えんよ。50にして天命を知るというが、私は何を想い、何を成すべきか、何を残せたのか結局わからなんだよ」
だが、と高杉先生は枯れ細った声でしみじみと呟いた。
「中々充実した余生であったとは思うのだよ」
万感をこめた一言に、電流が走ったように前進打たれ、同時にほっと胸をなでおろした。
「安寧にお過ごしになれたのなら、それは幸せだったのでしょうね」
「はは。全くだ」
高杉先生は今度こそ満足げに笑みを浮かべた。
最後に、と高杉先生が口を開いた。俺は最後の講義を前に、学生だった頃のように背筋を伸ばし先生に向き直った。
「話が長くなってしまったな。佐々岡、これから道は険しく、辛く逃げ出したいこともあるだろう。何のために行き続けるのか理由を見失うこともあるかもしれない」
「はい」
「だがな、そんなときこそ自分を見失ってはいかん。お前は元来周囲に流されやすい人間だったがな、苦しいときこそ流されるな。きちんと生涯を見つめ、自分の答えを見つけなさい」
「はい……」
がんばりなさい、と優しい一言を残して先生は確かな足取りで電車を降りていった。
高杉先生と別れて程なくして現れたのは、初めて就職したときの先輩だった。
先輩はコンビニで買ったというビン酒片手に、俺が転職した後のことをぐちぐちと吐き捨ていた。
「ほんと、本来ケツ持つ役割の連中のケツを俺らが拭わねえといけねえんだっつの。しかも世間的には、俺たちも脱税を黙認してたように言われてるしよ。たまんねえよ」
「先輩、声大きいですって」
「いいんだよ。全部、ぜえんぶ終わったことさ。今さら誰が何を聞いたって取り上げられたりしないさ」
そもそも、そんな心配もいらない、と先輩は付け加えた。
俺が転職してから数ヵ月後、元いた会社の社長以下3名の役員が脱税していることが発覚し、地方ニュースでも取り上げられた。朝のニュースで、警察ががさいれしている営業を見て、俺も彼女も目を疑った。先輩から聞いた話では、結局商社としての信頼を失って倒産したそうだ。
「にしても、お前はいいよ。つか、女作ったら即効別の会社行きやがってよお。しかも庶務のきれいどころだったんだぜ? かあぁっ、いいとこ持って行かれるくらいなら紹介なんかせず俺が告ってりゃよかった」
「何言ってるんですか。彼女を紹介してくれたときにはすでに、先輩は結婚してたじゃないですか。昼休憩になるたびに、お子さんがああした、こうしたって自慢げに写メ見せびらかせてたじゃないでしょ」
「藍は別格だよ。もうかわいすぎて目に入れても痛くもないね。むしろずっと目に入れて痛いくらいだよ」
「はいはいそうですか」
先輩はかなりの親ばかだった。他の先輩や上司の話を聞く限り、結婚するまでは女は面倒くさいと言い、結婚して子供が生まれるまでは妻の小言がうるさくて休日も休めないと言っていたらしい。それが子供ができた途端、昨日はにんじんをがんばって食べただの、週末には遊園地に行くだの、幼稚園にあがったとき運動会の父兄参加で恥じかかないようランニング始めただの、すっかり子煩悩していた。
先輩が残した迷言、「藍、愛してる!」は宴会のたび肴にされる鉄板だった。
「それで、奥様とおこさんとはどうなんです」
「あん? ……まあなんつうの? あれから相次ぐ自主退職だの、会社の倒産だの、退職金未払いだのごたごたあってな。……離婚したよ、すぐに」
「離婚ですか」
「そ。美佐子はよ、まあ日ごろが洗濯物だせだの、自堕落するなとか口うるさかったんだけどよ、俺が再就職探す間パートして支えるって言ってくれたんだ。けどよ、そしたら藍の世話どうするって話し合って……、結局な、実家に戻るのが一番だってなったんだ」
「それで離婚、ですか」
「離婚つっても喧嘩別れじゃねえから。何かと藍の写メくれたし、メールや電話で激励もしてくれた。あーあ、ああなって初めて美佐子は俺にはできすぎた女だなって思ったよ」
背中を丸めてちびちびと缶酒に口をつける先輩は、ほろ酔いの頬を寂しげに緩めた。
「あー俺のことは止めだ。気分が暗くなる――で、お前のほうはどうなんだよ? うまくいってんのか? 結婚を視野にいれてんなら大事にしろよ」
「そうですね……大事に、したいです」
歯切れ悪く応えた俺に、何かしらの事情を察したのか、先輩はやれやれと頭を振ってそれ以上は食い下がってこなかった。
「湿気た顔すんな、女は星の数ほどいる。まあ、いい女を掻っ攫っていく男の五万といるわけだが」
しんみりとした雰囲気を弾き飛ばすように先輩は笑った。空元気を総動員して無理やり笑っているのはわかりきっていたが、俺も後ろ向きの気分を払うため一緒に笑う。
酔っ払いと若造の、空虚な笑い声は電車の音に上書きされてどこか知らないところに紛れ込んでしまった。
「なあ、佐々岡?」
「何ですか?」
引き潮のように静まったあと、先輩は酒気を孕んだ声で、神妙に呟いた。
「お前は俺と違って前に進めたんだ。あの後、何があったかなんて知らねえし、知ってても何かしてやる余裕はなかっただろうさ」
「先輩、急になんですか。まじめな声出して」
俺がからかいをはさむと、先輩は低いトーンのまま、いいから聞けと静かに一括した。
「お前はまだ生きてんだろ? だったら、一度掴んだ幸せをまだ取りこぼすなよ」
数センチという近距離で距離で俺を見つめる先輩の顔には冗談は一切含まれていない。真剣に、誠実に、俺を案じて助言をくれた。
「俺に言えるのはここまでだ。あとはお前が選べ。悩んで、苦しんで、痛みに耐え切れずこっちにくるってんなら、そんときは縁のあるやつら全員呼び出して飲み明かそうぜ」
そうして昔のように、子煩悩な父親の笑みを浮かべて先輩は去っていった。
「……そろそろ、お前の番だと思ったよ」
暗い闇の中を当ても無く走り続ける車内に応える声はない。しかし、俺は立ち上がり進行方向の向きに視線を向けた。
まっすぐ横に切りそろえた前髪、困ったように八の字をした細い眉、右目の端に控えめにたたずむ泣きホクロ。思い浮かべた顔そのままの人物が目の前にいた。
「なあ、サチ。お前も俺を叱咤しに来たのか?」
「…………」
俺の問いかけにサチが答えない。口をきゅっと引き締め、あふれ出す感情を押さえつけるように全身が小さく震えていた。
「別にお前を責めてるわけじゃない。これは俺の問題さ。お前を失って深く傷ついたのも、一人の寂しさに耐え切れず何もかも放り出したことも、無気力に惰性にながされるままの日々をながめていたのも」
言葉が発するほどに、サチの顔色は白くなった。儚げな細い体は、数十センチも見通せない闇に飲み込まれそうで、数瞬たりとて目を離せない。
「すべて、流されるまま人生を選択してきた俺の弱さが悪いんだ」
「…………と、ない」
沈痛な面持ちで黙していたサチが、ようやく何かしら呟く。自分が声を出せることを確認すると、気遣うように喉に手を当てつつ、はっきりと俺を見て言った。
「そんなことない。薫君が十分にがんばったよ。悪いのは――」
「それ以上言わないでくれ!!」
サチの言おうとした言葉を切って俺は叫んだ。自分でも驚くほど大きな声に、サチは怯えたように数歩下がった。
「その言葉の先を、お前が言わないでくれ。これ以上俺に現実を押し付けないでくれよ。知りたくない、認めたくない……、忘れたくない……思い出を汚したくない」
「薫君……」
「俺をこれ以上惨めな男にしないでくれよ、サチ」
目からあふれ出す熱さを堪えきれず、泣きつくように懇願する。
彼女だった女性――サチが死んでしまった現実を背負わせないでくれ!
「わかってるさ。理解してるし、自分が嫌になる。嘆いて、泣き叫んで、自暴自棄になったってありえない希望にすがったってサチが死んだ事実は変わらない。起きてしまった出来事を覆すことなんてできないだ」
言葉にしたくないのに、自分に都合いい夢に溺れたいのに、止めることができない。秘めた思いを口にするほど地面がひび割れ、崩れた地盤に足を取られ闇に落ちていく。
つい先日まで踏みしめたものが壊れる。飛び移る先に未来が見えない今日に足がすくむ。
新見が言うとおり、俺は他人に振り回され。
高杉先生が言うとおり、サチの死に流されて自分を見失った。
「なあ、このまま電車に乗っていればお前のところにいけるのか?」
滂沱しながら口にした台詞に、サチは今迄で見たことないほど悲しい顔をした。いやいや、と駄々をこねる子供のように首を横に振る。
来ないで訴える声なき彼女の意思は、深い慈愛に満ちた、もっとも残酷な拒絶だった。
やがて、逸らした目を元に戻し、決意をこめた真摯な目で俺を見つめた
「私の身勝手を承知で言わせて。私をあなたの足かせにしないで。思い通りにならない現実から逃げて、目を逸らす理由に私を使うのはやめて」
お願いだから前を向いてと、身を乗り出して訴える。
「無理だ。先輩が藍ちゃんに全てを注いでいたように、俺は、俺の人生をお前にささげると誓ったんだ。身を寄せ合う半身を失ったら、俺はどうしていいかわかんねえよ」
「それでも、私は薫君には生きてほしい。私を思って立ち止まってくれるのは嬉しいけど、薫君は薫君の人生を送ってほしい」
「サチがいないなら、俺の人生に意味なんてないじゃないか!」
心がちぎれてしまいそうなほど痛ましい慟哭に、サチが衝撃を受けたように身を震わせた。これまでだって好きだと伝えてきたが、サチを大切にする想いの強さが予想を超えていたのだろう。
俯き、今にも駆け寄って抱きしめたい渇望を押さえつけるように両手を握り締める。
黙りこんでしまったサチに歩み寄ろうとした時だった。
突然、頬を衝撃が襲った。肉をえぐり、骨に届く鈍い音と共に俺の体は横にぶれる。
「そうやって、自分で決められねえ結論まで女に押し付けてんじゃねえよ。ど屑が!」
上から降ってきた怒号は新見のものだった。顔を上げようとすると、今度は肩をつかまれ引き寄せられた。
血管が浮き出るほど怒り狂った新見が間近で睨みつける。
「てめえが今までどんな薄っぺらい人生過ごしてきたかなんて知らね。選択を他の誰かに任せてりゃ、そりゃあ楽だったよな? お前は何も考えず、他人が考えたレールの上のせっさほいさ歩いていきゃいいんだもんな!」
言いながら、新見は右手を握りこんだ。
「けどな、最終的にその道を進んだのはお前だろ。だったら、ケツはお前が持て! うまく行かなかったからって、責任まで他人に取らせようとすんな。お前の人生はお前のもんだろが!」
再び頬にこぶしがめり込んだ。しかし、今度は倒れることも許されず、熱した鉄のように熱い頬の痛みと、信じられない光景に完全に思考が止まっていた。
新見は泣いていた。悔しくて、嘆かわしくて、ぶつけようのない怒りをあらわにして涙を流していた。
「死んだ人間に、生きてるやつの願いは重すぎんだよ……」
新見は切実に吐き出した。その言葉にはっとなった。
生きてる側には、親しい人間の死は重すぎる。それと同じように、死んだ側には、生きてる人間の適わない願いが重すぎる。
人は片方の視界に囚われがちだ。どうして、裏を返せば同じ気持ちなのだと気づけないのだろう。そして一度気づいてしまえば、簡単な結論に纏まった。
「そう、……か。そうだよな。俺はまだ生きてる。だから背負う責務があるのか。死んで、背負うこともできない人の分も背負って、生きていかないといけないんだ」
頬が痛くて、それ以上に胸が痛くて、顔をぐちゃぐちゃにしながら次々に涙をこぼす。
泣き崩れる俺を見て新見は上からどき、代わりにサチがそばにしゃがみこんだ。
「ごめんね。一緒に幸せになれなくて」
「あ……、あ……」
えづくばかりで、言葉にならない。それでもサチに、俺の大切な人に、すべてを打ち明けたくて口を開こうとしたが、サチはゆるゆると頭を振った。
名残惜しそうにしながら、そっと立ち上がる。
時間が来たらしかった。
目を閉じると不思議と心は穏やかだった。
目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
栄養失調と脱水症状になり、自室でぶっ倒れているところを会社の同僚からの連絡を受けた警察に発見されたらしかった。
医者にはこっぴどく説教され、家族は心配しすぎて胸がつぶれそうだったと泣かれ、同僚や上司らは人騒がせだと安堵した表情をしていた。
サチの死から2週間経っていた。
正直、サチの死から立ち直るにはまだ時間がたりない。あんな一方的に叱咤激励されたくらいで、半身を引きちぎられたような痛みを割るれるほど俺は不感症ではないのだ。
だけど、俺は前を向くと決めた。
今度こそ、新見の死を、先生の死を、先輩の死を、そしてなによりサチの死を背負い忘れないために。