百年後の運動会
学校がなくなるとき、そこにあった思い出も一緒になくなってしまうのでしょうか。
校舎や教室、校庭に引かれた白線。毎年繰り返されてきた行事。写真や記録に残せるものもあれば、誰かの記憶の中にしか残らないものもあります。
『百年後の運動会』は、閉校を迎える小さな学校で、最後の運動会を準備する教師と三人の子どもたちの物語です。
それぞれに残したいものがあり、それぞれに譲れない思いがある。しかし、限られた時間の中ですべてを叶えることはできません。
失われるものと、受け継がれていくもの。その境目にある一日を、見届けていただければと思います。
倉庫の奥から、玉入れの籠を引き出した。
赤い縁取りは色あせ、網の一部が外れている。支柱の継ぎ目も緩んでいた。私は籠を床に置き、網を留めていた金具を指で押した。外れた箇所を戻そうとしたが、留め具がうまく噛み合わない。工具箱を開け、合うものを探した。
窓の向こうには、校庭が広がっている。遊具はもう使われず、砂場の縁には草が伸びていた。校舎の壁に貼られた「最後の運動会」の紙だけが、風に揺れている。
この学校は、今年度で閉校する。
児童は三人。来年度からは、全員が隣町の学校へ通うことになっていた。教育委員会の説明は何度も聞いた。人数が減り、学年を越えた学習にも限界がある。教員の配置も、校舎の維持も、今の形では続けられない。どれも間違った説明ではなかった。
それでも、最後の運動会くらいは、昔と同じように開きたかった。
私もこの学校の卒業生だった。祖父が作ってくれた弁当を食べ、友人と競走し、転んだ子の膝についた砂を払った。そういう一日のことを、今でも覚えている。
私は工具箱から細い針金を取り出し、外れた網を仮留めした。金具は完全には戻らなかった。籠を持ち上げると、網がわずかに傾いた。
これで使えるかどうかは、もう少し確かめなければならない。
私は籠を倉庫の入口に置き、進行表を広げた。
*
「徒競走は、正式な記録を取ってください」
陸は、進行表を見るなり言った。
六年生の陸は、今年の運動会で一番速い。走るときの姿勢も、スタートの反応も、三人の中では抜けていた。校庭の端に設置した計測器を使えば、百メートルの記録を小数点以下まで残せる。
「順位もつける。記録証もほしい」
「分かった。準備しておく」
「練習のときと同じ条件でお願いします。スタート位置も、計測も」
陸は念を押した。
来年からは、隣町の学校へ通う。そこには同じ年頃の子が大勢いる。陸は新しい学校でも走るつもりらしい。だからこそ、今の記録を曖昧なものにしたくないのだろう。
「玉入れは、やらないんですか」
私が尋ねると、陸は籠を見た。
「それ、直すんですか。時間がかかるなら、徒競走を先にしてください」
「まだ決めていない」
「走るのは、時間が決まってるから。ほかの競技で遅れたら、記録を取れなくなるかもしれないでしょう」
言い方はもっともだった。私は進行表に目を戻した。
「記録の時間は確保する」
陸はそれ以上言わず、校庭へ出ていった。
私は仮留めした網をもう一度押した。金具は、少し動いただけで外れそうになった。
*
「三人だからできる競技にしたいんです」
紬は、昼休みにノートを持ってきた。
四年生の紬は、ノートに校庭の見取り図を描き、線や矢印をいくつも書き込んでいた。三人で布の四隅を持ち、その上にボールを載せて運ぶ。途中に置いた板を越え、決められた場所まで運んだら、次のボールに替える。落とさずに運べた数を競うのではなく、三人で最後まで運ぶことを目標にするらしい。
「大勢でやる競技を、三人用に小さくするんじゃなくて、最初から三人のために作るんです」
「面白そうだね」
私はノートを受け取った。布の幅や板の位置は、まだ決まっていなかった。実際に試し、ボールが落ちたときの動きも確認する必要がある。
「練習は何回できますか」
「準備もあるから、何度でもというわけにはいかない。安全を確かめてから決めよう」
「じゃあ、何回やるかも決めてください」
紬は言った。
陸が、廊下の向こうから顔を出した。
「それ、そんなに時間かかるの?」
「かかるよ。三人でやるんだから、ちゃんと考えないと」
「だったら、徒競走の時間を削らないで」
「私の競技だって、最後の運動会のために考えたんだよ」
紬の声が強くなった。
「陸だけの運動会じゃない」
「そんなこと言ってないだろ」
二人は私を見た。
「どちらもやる。ただし、準備に使える時間には限りがある。試してみて、できる形を考えよう」
私はそう答えた。
紬はノートを閉じたが、すぐには立ち去らなかった。
「簡単にするだけなら、考えた意味がないです」
その言葉を残し、紬は廊下を戻っていった。
*
悠は、古い端末を持ってきた。
二年生の悠は、ふだんから写真を撮るのが好きだった。校庭の隅の草や、窓に映る雲、誰もいない教室。何を撮ったのか尋ねても、うまく説明しないことがある。
「運動会の日、写真を撮りたいです」
「競技中も?」
「はい。学校の写真も撮りたいです。倉庫も、教室も。先生も」
「先生も?」
「この学校にいた先生だから」
悠は端末の画面をこちらに向けた。これまでに撮った写真が並んでいた。窓枠の傷、昇降口の靴箱、校庭の隅に置かれた古いスコップ。どれも、私なら写真に撮ろうと思わないものだった。
「全部撮れるかな」
「撮りたいものを、先に決めておきます」
「それなら、競技の時間と重ならないようにしよう。私も手伝う」
悠は頷いた。
そのあと、悠は倉庫の入口に置いた玉入れの籠を見た。
「これも撮っていいですか」
「もちろん」
悠は籠の網を少し持ち上げ、外れかけた金具を確かめた。
「先生、直すんですか」
「直せるところまでね」
「直しているところも、撮りたいです」
私は工具箱を見た。まだ、籠の修理にどれほど時間がかかるか分からなかった。
「時間があれば」
悠は籠を見たまま、端末を胸に抱えた。
*
運動会の進行表は、何度書き直しても収まらなかった。
午前中の二時間半。準備と片付けを含めれば、競技に使える時間はもっと短い。開会の挨拶を短くしても、競技の間には移動と安全確認が要る。計測器の調整も、写真を撮る時間も、紬の競技を試す時間も必要だった。
私は、これまでの運動会で行ってきた種目を一つずつ書き出した。
徒競走。障害物競走。玉入れ。リレー。
以前なら、児童が少なくても、保護者や地域の人に手伝ってもらい、種目を組み替えて続けてきた。今年は、手伝いを頼める人も少ない。競技を支える人がいなければ、安全確認を一人で兼ねることになる。
紬の競技は、準備と試行に時間がかかる。悠が撮影するなら、競技の進行と記録の管理を同時にすることはできない。陸の徒競走は、計測の条件を整える必要がある。
私は進行表の余白に、必要な時間を書き込んだ。
全部はできない。
それは、子どもたちの希望を聞く前から分かっていたはずだった。
それでも私は、競技の名前を消すたびに、昔の運動会を思い出した。玉入れの籠の下で、誰かが声を上げていた。籠に入らなかった玉が足元を転がり、皆で拾った。祖父の弁当を食べた場所も、玉入れの順番を待った列も、今では校庭のどこだったのか、はっきりとは分からない。
私は玉入れの文字を消した。
その欄だけ、しばらく空いたままになった。
やがて、進行表を新しく書き直した。
開会の挨拶は短くする。徒競走は正式な計測を行い、記録証を渡す。紬の競技は、板を一枚だけ使い、事前の安全確認と練習を含めて時間を区切る。やり直しは一回まで。悠の撮影時間は、競技の合間と終了後に設ける。
障害物競走、玉入れ、リレーは実施しない。閉会の挨拶も短くする。
それが、できる範囲で組める最終案だった。
私は三人を職員室に呼び、進行表を見せた。
「徒競走は、計測器を使って記録を取る。紬の競技も実施する。ただし、準備と安全確認に時間が必要だから、板は一枚にする。やり直しは一回まで。悠の撮影時間も確保する。競技中は、決めた場所から撮ってほしい」
「障害物競走もリレーも、ないんですか」
陸が尋ねた。
「今回はやらない」
「徒競走の記録を取る時間は、絶対に削らないでください」
「削らない」
陸は進行表を見直した。
紬は、板が一枚と書かれたところを指で押さえた。
「これじゃ、私が考えた競技と違います」
「全部を実現する時間はないんだ。まず安全にできる形にする」
「板が一枚なら、運ぶ意味が変わります」
「それでも、三人で運ぶ競技にはできる」
「先生が決めるんですね」
紬はノートを閉じた。
悠は、撮影時間の欄を見ていた。
「写真は、全部は撮れないんですね」
「そうだね。撮りたいものを先に決めておこう」
「先生が決めるんじゃなくて、僕が?」
「撮りたいものは、悠が決めていい」
悠は進行表から目を上げなかった。
「分かりました」
誰も納得した顔はしていなかった。
私は進行表を三人に渡した。これで当日の準備を始められる。そう考えようとしたが、紙に書かれた競技の名前は、消す前より少なくなっていた。
*
運動会当日の朝、校庭には薄い霧が残っていた。
私は計測器の位置を確かめ、スタートラインを引き直した。陸は何度もスタート位置を確認し、靴ひもを結び直した。紬は布の四隅を持って、ボールを載せる位置を確かめていた。悠は端末を持ち、校舎の正面から撮影を始めた。
開会の挨拶は短く済ませた。
最初は徒競走だった。
陸はスタート位置につき、合図を待った。私は計測器の表示を確かめ、合図を出した。
陸が走った。
ゴールを越えても、陸はすぐには止まらなかった。校庭の端で振り返り、表示された記録を見た。
「もう一回、確認してもらえますか」
「計測は正常だよ」
「記録証に書く前に、もう一度見てください」
私は端末のログを開き、記録を照合した。数値に間違いはなかった。
「これで確定する」
陸は小さく息を吐いた。
私は記録証に数値を書き、陸に渡した。陸は受け取ると、すぐに記録を読み返した。
悠が端末を向けていた。
「今の、撮れた?」
「撮れたよ」
「記録証も撮っておいて」
陸はそう言い、記録証を胸の前に持ち上げた。
悠は一枚撮った。それから、陸の足元と、スタートラインも撮った。
「何を撮ってるんだよ」
「スタートのところ」
「記録が分かるように撮ればいいだろ」
「これも残したいんだ」
陸は記録証をしまった。
「好きにすれば」
声には、まだ不満が残っていた。
*
紬の競技の準備には、予定より少し時間がかかった。
布の四隅を持つ位置を決め、ボールを載せ、板の向こうまで運ぶ。私は板が動かないことを確かめ、ボールが落ちても走り込まずに拾える位置にいるよう伝えた。
「一回目でできたら、次は?」
紬が尋ねた。
「一回目で終われば、それでいい。落ちたら、原因を見てもう一度」
「やり直しは一回だけですね」
「そうだよ」
陸は布の端を持ちながら、計測器のある場所を見ていた。
「早く始めよう」
「分かってる」
紬が答え、三人は布を持った。
ボールが載る。三人が歩き出す。
板に近づいたところで、陸が先に布を傾けた。ボールは布の縁へ転がり、地面に落ちた。
「ちょっと、急に動かさないで」
紬が言った。
「そっちが遅いからだろ」
「陸が引っ張ったんじゃない」
「悠もちゃんと持ってよ」
悠は布を握り直した。落ちたボールを拾い、三人の中央に置いた。
「今のは、僕も持ち上げすぎた」
紬は板とボールを見比べた。やり直せるのは、あと一回だけだった。
「板の前で止まろう。そこで、三人とも布を水平にする。それから一緒に動く」
「止まったら、時間がかかる」
「じゃあ、どうするの」
陸は答えなかった。
私は口を挟みかけて、やめた。決めたのは私だ。三人が自分たちで考える時間まで、奪う必要はなかった。
「もう一度、やるよ」
紬が言った。
三人は布を持ち直した。今度は板の手前で一度止まり、布を水平にした。陸が紬を見た。紬が頷き、悠が足元を確かめた。
三人は同じ速さで歩き出した。
ボールは板を越え、向こう側へ運ばれた。最後まで布から落ちなかった。
「できた」
紬は言ったが、笑わなかった。陸も何も言わず、布を畳み始めた。
悠は、ボールを載せた布と、板の位置を撮った。
「それ、撮るの?」
陸が尋ねた。
「うん」
「僕たちが運んでるところは?」
「撮ったよ」
悠は端末を確認した。
紬は畳んだ布を抱えた。
「これ、あとで捨てないでください」
「捨てないよ」
私が答えると、紬は布を倉庫の入口に置いた。
*
競技が終わると、校庭の片付けを始めた。
悠は、あらかじめ決めていた場所を順に撮影した。校舎の正面、教室の窓、倉庫の中、使い終えた布。記録証を持つ陸も、布を畳む紬も撮った。三人で並ぶ写真を撮るときには、私が端末を受け取った。
撮影の合間に、私は玉入れの籠を倉庫から出した。
網を留めた金具は、朝よりも少し緩んでいた。仮留めの針金を外してみたが、金具は元の位置に戻らなかった。工具を持ち替えれば、もう少し直せるかもしれない。けれど、片付けの時間は残り少なかった。
私は籠を地面に置き、外れた網を指で整えた。
悠が、少し離れたところから端末を向けていた。
「先生」
悠が言った。
「どうした?」
「先生が籠を直そうとしてるところ、撮ってない」
私は籠を見た。
「そうだね」
「もう、今度はないよ」
私は何も言えなかった。
悠は端末を下ろし、校舎の方へ歩いていった。
私は籠を持ち上げた。網の一部は、傾いたままだった。
*
片付けが終わるころ、陸が記録証をもう一度取り出した。
「この記録、次の学校でも比べられるかな」
「同じ条件で測れば、比べられるよ」
「同じ条件って、難しいですよね」
陸は記録証を折らないように、端をそろえた。
「でも、これは今日の記録だから」
私はそう答えた。
陸は頷き、記録証をしまった。満足したようには見えなかったが、それ以上は何も尋ねなかった。
紬は、倉庫の入口に置いた布を取りに来た。
「これ、持って帰ってもいいですか」
「学校の備品だけど、使い道があるなら相談しよう」
「捨てるくらいなら、持っていたいです」
紬は布を畳み直した。
私は、すぐに返事をしなかった。閉校後に残る備品の扱いは、まだ決まっていないものもある。けれど、布を廃棄する理由もなかった。
「分かった。持ち帰れるようにしておく」
紬は布を抱えたまま、校庭を横切った。
悠は端末をしまっていた。
「写真は撮れた?」
「撮りたいものは、だいたい」
「よかった」
「でも、先生が籠を直してるところは撮れなかった」
悠はそれ以上、何も言わなかった。
私は倉庫の中を見た。玉入れの籠は、入口に置いたままだった。
*
三人が帰ったあと、私は校庭の白線を消した。
線を引いた粉は、掃くとすぐに薄くなった。土の色は、線のあった場所だけわずかに違っていた。何度か掃いているうちに、その差も分からなくなった。
倉庫には、玉入れの籠を戻した。修理は終わらなかった。網の傾きも、外れかけた金具も、そのままだった。
私は籠を奥へ押し込み、扉を閉めた。
鍵をかけると、校庭には何も置かれていなかった。
来月には、校舎の引き渡しがある。それまでに残った備品を整理し、書類をそろえなければならない。運動会の記録も、学校の記録として保管することになるだろう。
私は鍵を握ったまま、校舎を見上げた。
ここで過ごした日々が、同じ形で残ることはない。
何かを残そうとするとき、私たちはつい、以前と同じ形を保つことを考えます。
同じ場所で、同じ行事を、同じように続ける。それができれば、思い出も失われずに済むように思えるからです。
けれど、時間が過ぎれば、人も場所も変わっていきます。どれほど大切にしていても、すべてをそのまま残すことはできません。
この物語の三人は、それぞれの願いを抱いて最後の運動会に臨みます。教師もまた、かつて自分が過ごした学校の姿を残そうとします。それでも、記録にできるもの、写真に収められるもの、手元に持ち帰れるものには限りがあります。
それでも、残せなかったからといって、その時間がなかったことになるわけではありません。
受け継ぐことは、過去を寸分違わず保存することではなく、失われていくものと向き合いながら、自分なりの形で次へ渡していくことなのかもしれません。
物語を閉じたあと、読者の皆さんにも、ご自身の記憶の中にある場所や、いつの間にかなくなっていた風景を思い出していただけたなら幸いです。




