恩返しはもう十分です——明日の失敗を先回りで直していた私が辞めた翌日、若君は跡継ぎの座を失った
胸騒ぎというものは、もう少し遠慮深く訪れてほしい。
夜明け前、枕元の手帳に三語が浮いていた。
『封蝋。西便。逆』
私は寝台から抜け出し、冷えた廊下を小走りで下りた。書簡室には、昨日ローラン様が署名した二通が仲良く並んでいる。西の商会宛ての封筒には東の商会の封蝋、東の商会宛てには西の商会の封蝋。見事な入れ替わりだ。仲がよろしいことで。
湯で蝋をやわらげ、印を外し、正しい封筒へ移す。封を整えて手帳を開くと、三語は薄くなり、朝日が窓枠を照らすころには消えていた。
これが私の朝だった。
◇
食堂へ戻ると、自分用に切っておいたパンはすっかり冷えていた。厨房の火を借りれば温め直せるけれど、その火にはローラン様の卵料理が載っている。私は硬くなった端を紅茶に浸し、立ったまま口へ運んだ。
「リゼット、まだか」
「ただいま参ります」
呼ばれたので、ふやけきる前に飲み込む。食べ物は待ってくれないが、若君は待つという美徳をお持ちではない。
父が亡くなったとき、葬儀代を出してくださったのはローラン様の父君だった。棺も墓地も、あの日の私には手の届かない値段だったから、その恩を忘れたことはない。
だから私は、葬儀代を返すために屋敷で働く契約へ署名した。契約書には開始日があり、満了日がある。恩は大切に保管してきたが、永久保存とは書かれていなかった。
ローラン様の居間へ入ると、上着が長椅子の背に投げられ、昨夜の杯が書類の上で輪染みを作っていた。私は上着を拾い、杯を盆へ移し、朝の予定表を机の中央へ置く。
「西への返書は発送済みでございます。東への返書も、封を確認いたしました」
「そうか」
ローラン様は予定表だけを取った。書簡の端へ記した私の確認印には目も向けない。
「昨日、私が念を押しておいたからな。こういうものは最後の確認が肝心だ」
「さようでございますね」
昨夜、念を押された記憶はない。ただし鐘を鳴らして葡萄酒を求められた記憶ならある。葡萄酒が封蝋を見張ってくれた可能性は、まあ、ないとは言い切れない。私は奇跡に寛容な女中である。
季末査定を前にして、ローラン様は忙しかった。正確には、忙しそうに見える姿勢を探すのに忙しかった。机へ向かえば書類を三枚広げ、客が来れば四枚に増やし、マルグリット様の足音がすれば羽根ペンを握る。
「本日の会食用の献立案でございます」
私が差し出すと、ローラン様は最初の一行だけを読んだ。
「牡鹿肉か。悪くない。東の使者はこういう格のある料理を好む」
「西の使者も、正午にお越しになる予定ですが」
「それは別件だ。時間は調整してある」
「承知いたしました」
本当に調整してあるなら、私の出番はない。調整していないなら、たいてい翌朝の手帳が働く。
私は献立案の末尾へ、東西双方の来訪確認欄を付けていた。ローラン様はそこへ目を留め、爪で紙を押さえる。
「この欄は要らないな」
「双方の確認者を残すためのものです」
「私が確認した。それで十分だろう」
羽根ペンが確認欄を横切った。黒い線は、私の署名まできれいに塗りつぶした。
「余計な記録が多いと、マルグリット様がお読みになる際に煩雑だ。その程度は言われる前に済ませてくれ」
「かしこまりました」
私は紙を受け取った。黒線は乾く前だったが、触れずに盆へ載せる。指先へ付けば落とすのが面倒だし、私の名前はもう十分に汚されている。
続いて、先週立て替えた配送費の領収書を差し出した。急ぎの荷だったので、会計窓口が閉まったあとに私の財布から支払ったものだ。
「こちらにご承認をお願いいたします」
「今か?」
「先週もお渡しいたしました」
「査定前で忙しい。あとにしてくれ」
領収書は二つ折りにされ、私の手元へ戻ってきた。返却だけは迅速である。その腕前を承認にも生かしていただきたかった。
部屋を出ると、廊下の先にノアさんが立っていた。帳簿を抱え、いつものように静かな顔をしている。
「また戻されましたか」
「まだ一度しか戻されておりません。先週と今日で」
「それを二度と言います」
数字を扱う人は容赦がない。私は領収書を胸元の小袋へしまった。
「配送費、銀貨十八枚。立替者はリゼット。西便の封蝋修正も、リゼット」
「後半は帳簿に載らないお仕事です」
「載らないことと、なかったことは同じではありません」
ノアさんは眉を寄せ、私の確認印が消された献立案を見た。黒線の下に残った文字を、覗き込むこともしない。
「確認者欄を作ったのも、あなたですね」
「ローラン様には不要だったようです」
「あなたが確認しなくなる日にも?」
私は答えず、廊下の時計を見た。答えは時計のほうがよく知っている。契約満了まで、あと三日だった。
◇
その晩、私は厨房の在庫を確認し、客室の銀器を磨き、会食用の卓布を選んだ。東の商会は深緑、西の商会は濃紺を好む。両方を同時に敷く卓などないので、私は何も出さず、棚へ戻した。
寝る前に手帳を開く。白い紙の中央へ、墨を落としたように文字が浮かんだ。
『牡鹿。正午。空席』
私はしばらく、その三語を見ていた。
牡鹿は会食の主菜。正午は東西の使者が来る時刻。空席は、おそらく一つしか用意されていない客席だ。
ローラン様は東の使者へ、正午の晩餐で最上席を用意すると書いた。同じ文面を西へも送っている。どちらも自分だけが特別だと思って来れば、卓を二つに割るか、若君を二人に増やすしかない。
いつもなら、ここからが私の仕事だった。
私は机の予定表へ手を伸ばした。東の商会へ時刻変更の使いを出し、西の商会には別日の試食会を提案する。厨房へ献立変更を伝え、客室係へ卓布を指定し、ローラン様には最初からその予定だった顔をしていただく。手順は頭に入っている。
指が予定表の端に触れた。
私は手を戻した。
手帳を閉じた。
三語は消えなかった。
◇
翌日は、引き継ぎに使った。鍵の場所、未発送の書簡、承認待ちの文面、納品時刻、厨房と使用人棟の連絡順。誰が読んでも困らない程度に書き、誰かの失敗を先回りして消すための手順だけは書かなかった。
その次の日、ノアさんが書類庫へ来た。私の机には、束ねた引き継ぎ書と、小さな鍵の輪が並んでいる。
「本当に、明日で終わりですか」
「契約書によれば」
「契約書は正しいでしょう。日付に関しては」
「それ以外も、だいたい正しい書類でございます」
ノアさんは笑わなかった。代わりに、私が小袋から出した領収書を取り上げる。
「これは私が預かります」
「ローラン様の承認がございません」
「だからです。未精算として残します。立替者の名前も」
「私が退職したあとまで?」
「退職したら、名前が消えるのですか」
黒線の引かれた確認欄が頭をよぎった。私は領収書から手を放す。
「では、お願いいたします」
「承りました」
ノアさんは帳簿の間へ領収書を挟み、角が折れないよう指で整えた。扱いが丁寧すぎて、ただの紙切れが何か立派なものに見える。私の銀貨十八枚は、今ごろ照れているに違いない。
◇
契約満了日の夕方、私はローラン様の執務室へ入った。窓辺には査定で着る上着が掛けられ、机には未署名の書簡が積まれている。予定表の正午には、東の商会、西の商会、季末査定と三つの文字が重なっていた。
「何だ」
「本日をもちまして、契約満了となります」
ローラン様は羽根ペンを止めた。驚いた顔はしたが、困った顔ではなかった。
「満了?」
「こちらが契約書の写しでございます。鍵と引き継ぎ書もお持ちいたしました」
「今は査定前だぞ」
「承知しております」
「なら、査定が済むまで残るのが普通だろう。引き継ぎも完全ではないはずだ」
「通常業務に必要な事項は記載いたしました」
鍵の輪を机へ置く。金属が触れ合い、小さく鳴った。
「辞めるなら辞めるで、もっと前に言うべきだったな」
「契約書に満了日は記載されております」
「いちいち契約書を確認するほど暇ではない。明日の朝だけでも来て、いつもどおり整えてくれ。正式な退職手続きはそのあとでいい」
依頼の形をしているが、返事を待つ声ではなかった。私は引き継ぎ書を鍵の横へ置き、一番下の一行を指で押さえた。
「明日の修正は、私の担当ではありません」
ローラン様の眉が上がる。
「大げさな言い方をするな。朝食と書簡と予定の確認だろう」
「はい。これまでどおりであれば」
「なら、誰にでもできる」
「さようでございますね」
私は一礼した。
廊下を歩き、使用人用の外套を返し、門番へ退職を告げる。荷物は小さな鞄一つに収まった。父の形見と着替えと、三語の残った手帳。それで全部だった。
門を出る前に、一度だけ屋敷を振り返った。ローラン様の部屋には明かりがつき、窓際に人影が動いている。明日の朝には、あの窓の向こうに、未署名の文面と、重なった予定と、冷める朝食が残る。
私は門の外へ足を出した。
恩には入口があった。ならば、出口があってもよい。
◇
季末査定の朝、査定の間には冷えた皿が持ち込まれている。
ローランは半分も食べていない卵を脇へ押し、東西の商会へ送る当日の確認文をめくる。どちらにも署名がない。承認待ちの箱は蓋を閉じたまま、卓の端へ置かれている。
「なぜ出していない」
書記が頭を下げる。
「承認欄が空いております」
「その程度は見れば分かる。急いで出せ」
「宛先ごとの文面確認が済んでおりません」
「私が確認している」
ローランは二通を取り、一通目へ署名する。二通目を開いたところで鐘が鳴る。
正午。
査定の間の上座にはマルグリット様が座っている。その右手に後継者の席があり、ローラン様は当然のように腰掛けている。向かい側には来客用の椅子が一つだけ置かれ、白い皿の中央で牡鹿肉が湯気を失っていく。
「東の商会より、使者がお見えです」
「通せ」
ローランは立ち上がり、上着の前を整える。
「西の商会より、使者がお見えです」
手が止まる。
二組の使者が別々の扉から入る。互いの姿を認めても礼節は崩さず、同じ卓の前で足を止める。
東の使者が先に頭を下げる。
「本日は、我々だけをお招きいただけるとのお言葉、光栄に存じます」
西の使者も一礼する。
「最上席を我々のために空けてくださるとのお約束、ありがたく頂戴いたします」
二人の視線が、一つの椅子へ落ちる。
ローランは笑みを作る。
「少々、行き違いがあったようです。どちらにも格別の配慮をと申し上げたまでで」
「我々だけに、と伺いました」
東の使者の声は穏やかだった。
「我々も、同じ言葉をいただいております」
西の使者も声を荒らげない。
マルグリットはローランを見る。
「説明を」
「担当の者が、招待状を取り違えたのでしょう。書簡の管理は下働きに任せておりましたので」
「招待状を」
東西の使者が、それぞれ封書を差し出す。封蝋は正しい。宛先も正しい。違うのは宛先の商会名だけで、最上席を約束する文面は一字一句同じだった。
マルグリットは最後まで読み、二通を卓へ戻す。
「署名はあなたですね」
「ですが、草案を作ったのは使用人です。確認すべき者が昨日、突然辞めまして」
「確認欄はございませんな」
西の使者が二通を重ねる。
「どなたが文面を確認なさったのですか」
「最終的な確認は私が」
「では、確認なさった」
ローランの口が閉じる。
マルグリットは答えを急かさない。卓上の牡鹿肉から細い湯気が消えても、視線を動かさない。
「承認待ちの箱を」
書記が箱を運び、ローランの前で蓋を開ける。未署名の文面、返却された予定表、確認途中の発注書が詰まっている。一番上には、鍵とともに提出された引き継ぎ書がある。
「こちらが、退職者の残した引き継ぎです」
東の使者が受け取り、末尾へ目を落とす。
「追記があります。明日の会食に関しては——」
使者は書かれた一行を読む。
「明日の修正は、私の担当ではありません」
ローランの手が、椅子の肘掛けをつかむ。
「それは、あの女が勝手に——」
「昨日、退職したのですね」
マルグリットの問いに、ローランは声を強める。
「契約満了を口実にです。査定前だと知っていながら、恩を忘れて屋敷を放り出したのです。あれの父親が亡くなったとき、我が家がどれだけ——」
「契約満了なのですね」
同じ質問はなかった。
「……はい」
「引き継ぎは」
「ここにあります。しかし、必要な修正が抜けています」
「通常業務に必要な事項は揃っています」
書記が引き継ぎ書を示す。鍵の場所、書簡の所在、予定、納品、連絡順。空欄はない。
マルグリットは二組の使者へ向き直る。
「本日の非礼は、一族の当主としてお詫びします。会食は中止し、改めて別々に席を設けます」
「査定はどうなるのです」
ローランの声がわずかに裏返る。
「もう見ました」
「たった一度の行き違いです。担当者さえいれば防げた」
「担当者がいなければ保てない采配を、あなたは自分の功績として提出した」
マルグリットは後継者の席を見る。
「立ちなさい」
ローランは動かない。肘掛けを握った指だけが白くなる。
「マルグリット様、これは不測の事態で——」
「その席を空けなさい」
東西の使者が見守る前で、ローランは立ち上がる。膝裏が椅子に触れ、後継者の席が小さく揺れた。
マルグリットは書記へ目を向ける。
「後継査定は不合格。次の候補が決まるまで、その席は空席とします」
ローランの肩から力が落ちる。上着は同じものなのに、もう跡継ぎの服には見えない。
書記が椅子を引く。
ローランの手は、肘掛けをつかむ場所さえ失う。
◇
翌朝、私は手帳を開いた。
『牡鹿。正午。空席』
三語はまだ残っている。防がなかった失敗だから消えないのか、ほかに意味があるのか、私には分からない。
分からなくても、今朝は困らなかった。窓辺の小卓には、蓋付きの皿が置かれている。私が身支度を終えるまで、湯気を逃がさないよう布まで巻かれていた。
「おはようございます」
戸口にノアさんが立っている。片手には帳簿、もう片方には小さなパン籠を持っていた。
「おはようございます。会計士のお仕事に、朝食の配達も含まれておりましたか」
「含まれていません。ですから、これは私用です」
「ずいぶん堂々とした職務外ですね」
「あなたに言われたくはありません」
私は椅子へ座り、皿の蓋を取った。卵と薄切り肉、それに焼きたてのパン。湯気がまっすぐ私の顔へ上がってくる。
「冷めておりません」
「急ぎましたので」
ノアさんは向かいへ座らず、まず帳簿を開いた。挟まれていた領収書を取り出し、私の前へ置く。
「配送費、銀貨十八枚。精算の承認が下りました」
「昨日の今日で?」
「未精算の理由と立替者を記録してありましたから」
領収書の余白には、支払済みの印が押されている。その横に、私の名前が省かれずに残っていた。
「ほかにもあります」
「立替が、ですか」
「あなたの仕事が」
ノアさんは帳簿を閉じた。
「西便の封蝋修正。会食予定の確認欄。納品遅延の回避。書簡の差し戻し。記録に金額がないものもありますが、すべてリゼットの仕事です」
「合計は出ないのですね」
「出しません。一つの数字にすれば、また誰かがまとめて自分の成果にします」
私はパンを割った。中から温かい香りが立つ。
「ノアさんは、これから屋敷へ?」
「朝食のあとに」
「まだ食べていらっしゃらないのですか」
「あなたの分を冷ましたくなかったので」
彼はようやく向かいの椅子を引いた。パン籠には、きちんと二人分が入っている。
私は手帳の三語を指でなぞった。消すことはせず、そのまま表紙を閉じる。
「では、いただきましょうか」
「はい」
温かい朝食は、私の分まできちんと湯気を立てていた。ノアさんの仕事らしい。




