ある夫人の遺言
「ふふ、『お前を愛することはない』なんて」
「……わかっていたことなのに」
「あ、旦那様いらしたのですね」
「ご機嫌よう」
「横になったままですが、どうかご容赦くださいませ」
「体が痛みますので」
「……」
「ありがとうございます」
「私が目を覚ましてがっかりしましたか?」
「ふふ、冗談です」
「妻が婚礼の夜に身を投げたなど、体裁が悪いですものね」
「……これも冗談です」
「ええ、分かっていますわ」
「悪気があったわけではないのでしょう?」
「ただ私の悪い噂を知っていた」
「初対面ですもの、仕方ないですわ」
「おや、懸命に首を横に振ってくださるなんて」
「お優しい方ですわね」
「いいえ」
「私が勝手に期待してしまっただけです」
「そして、勝手に裏切られた気になって」
「旦那様のお言葉を聞いた瞬間、窓の外しか見えなくなりましたの」
「つい、身投げなんて真似をしてしまいましたわ」
「手を伸ばしてくださったのも、気付いておりましたし」
「だから、旦那様は悪くありませんわ」
「ふふ、はしたない真似をしてしまいましたわ」
「……もっと確実な方法もあったのに」
「安心してください」
「もう死ぬ気はありませんわ」
「もう、どうでもいいですから……」
「……」
「我が家のことまで調べてくださったんですね」
「ええ、悪女どころか屋敷からもまともに出たことありませんわ」
「……なんでもすると言われましても」
「愛情もいりませんし、復讐も興味ありませんわ」
「もう疲れてしまいましたの」
「どうか旦那様の好きなようにしてくださいませ」
「そうだわ、私に非がある形で、離縁なさるのがよろしいのではないですか?」
「きっと満足に子供も産めませんし、私は何の役にも立ちそうにないですもの」
「……」
「それでは、旦那様が苦労なさるだけですわ」
「罪悪感を覚える必要はありません」
「どうか、そんなふうに頭を下げないでくださいませ」
「ここへ来る前から、私はとっくに壊れていたんですもの」
「……そんな泣きそうな顔をされると」
「……私、困ってしまいますわ」
「……」
「知りたいと言われましても私は空っぽなのです」
「これから、なんて想像できませんわね」
「ふふ、今度は難しい顔になってしまいましたわね」
「そんなに考え込んでくださらなくてもいいのですよ」
「食事が与えられる、鞭をふるわれない」
「それだけで、十分すぎるほどですから」
「ああ、また悲しいお顔をさせてしまいましたわ」
「ですが、本当に実家のお屋敷とは比べ物にならない待遇ですのよ?」
「ベッドは柔らかいですし、お部屋も日差しが入って温かいですし」
「外に見えるお花もきれいですわね――」
「……あら?」
「急に飛び出して行かれましたわ」
「……」
「……」
「……」
「お戻りになったのですね」
「どうかされましたか?」
「……!」
「わざわざ、お花を摘んできてくださいましたの?」
「いえ、ありがとうございます……」
「ふふ、お礼くらい言わせてくださいな」
「生まれて初めてのプレゼントですもの」
「こんなもの、なんておっしゃらないで?」
「とても綺麗ですわ」
「……ふぅ」
「ええ、少し眠くなってしまいましたわ」
「では、お言葉に甘えてお休みさせていただきますね」
「……はい」
「……また明日」
「…………」
「…………」
「ふふ、何度もこちらを振り返りながら出て行かれましたわ」
「面白い方ね」
「ああ、なんだかとても温かいですわ」
「また明日、なんて言ってくださる人がいるなんて」
「家のことまで調べて、心を痛めてくださった」
「知りたい、と」
「そう言ってくださった」
「綺麗なお花まで……」
「旦那様は」
「とってもお優しい方よ」
「そんな方のお邪魔になりたくはないわ……」
「きっと一生をかけて償おうとなさるのだもの」
「旦那様には、いつか誰かと、穏やかに笑っていてほしいわ」
「だから」
「ここで、終わりにしてしまいましょう」
「旦那様のおかげで十分満たされましたわ」
「ですが、今のままでは旦那様に悪評がついてしまいますわね……」
「そうだわ、遺書を書きましょう」
「我が家の事情を書き残せば、旦那様のせいではないと分かっていただけるはず」
「ふふ、お父様とお母様、ビックリなさるかしら」
「体もなんとか動きそうですし」
「すぐにやってしまいましょう」
「……死ぬ気はない、なんて」
「結果的には嘘をつくことになってしまいましたし」
「旦那様にも一言添えておきましょう」
「最後に私を見てくれる人に出会えるなんて」
「幸せでしたわ」
翌朝、まだ屋敷が目覚めきらぬうちに、夫は夫人の部屋を訪れた。
そこで、男が目にしたのは花を抱いて静かに目を閉じる夫人の姿だった。
傍らには、几帳面な文字で綴られた遺書がある。
そこには、夫人の実家で何が行われていたのか。彼女がどのように扱われてきたのか。そして、夫に罪はないのだということが、淡々と記されていた。
最後の端にだけ、小さく一文が添えられている。
最後に、私を見てくださって嬉しかったです。
それだけで、私には十分でした。
どうか、私のために立ち止まらないでくださいませ。




