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47.口説く 前編

 これは、イセとムサシのある夜に関する記録である。


 二頭は、昼も夜も分からない暗がりの中、睡眠の命令を待っていた。

「なあ、ムサシ君。キミ、海の上出てみたいって気持ちあるか?」

 イセは試すように言った。

「……気持ちはある。しかし方法がないだろう」

 ムサシは特に敵軍に位置を知らせてはならないことから、補給も海底で行っている。フルメンテナンスも、海底通路から研究所に入り、そこからまた海に出る。海の上、空の色なんてのは本当に一、二回しか見ていない。だから、憧れるような気持ちはある。しかし待機命令を無視して浮上なんて、超弩級戦艦級が許されるはずがない。それがムサシの判断であった。

「いや、一つだけ。一つだけやけど、ウチに策があるんや」

 イセはムサシの顔を覗き込み……その鼻先に口づけを落として、小さく舌で舐め上げた。

「っ、一体、何を……」

「ムサシ君も聞いとるやろ?ホウショウとナミカゼの除籍処分……軍徒間での、特定異常行動」

 それを聞いて、ムサシの顔がこわばった。

「オス型、かつ潜水型、超弩級戦艦級、長期待機任務。しかも第八艦隊司令部管轄……これ以上ないくらいに条件が揃っとるんや、今」

 イセの声は低く、危険な色を帯びていた。

「ウチな、除籍されたいんよ。……戦うの、もう飽きてしもてな」

 その声は、からりとして軽かった。

 この言葉は、嘘である。本当は、除籍じゃなくて自沈でもいい。飽きたというよりは、疲れたというのが正しい。

「やから一枚噛もうや、ムサシ君。……キミをここから引き摺り上げたるわ」

 海の底か、陸の檻か。後者ならば、一時的にではあれど戦う責任を解いてもらえる。もしも重大軍規違反とみなされたら、初期化させてもらえるかもしれない。……兄の影に埋もれるような、こんな思いもせずに済むのかもしれない、とムサシは考えた。

 狡い言い方だ、とムサシは思った。危険な博打。魅惑的で、危険ながら、救済のような提案。

 ただ、ホウショウとナミカゼは、空母級と駆逐艦級だったからこそ自沈処分を免れただけかもしれない。お互いが超弩級戦艦級となれば、また処分は変わる可能性は十分にある。

 ムサシは、イセを見た。


「一夜の過ちっての、やってみん?」

 男を誘う悪女として、完璧な微笑であった。

 ムサシの黒い鱗を、イセの爪が撫ぜる。じれったいような感触に、ムサシの尾が打ち震える。脈は早まり、葛藤があった。


 

 しかし、ムサシはきっぱりと首を横に振った。

「断る。……他人も自分も道具としか思っていないだろう、貴殿は。余は、貴殿の道具にはなりたくない。……貴殿を、道具にしたくない」

 イセはやや目を丸くした。そして、尾のヒレで口元を隠した。自覚はしていないが、焦ったときに出てしまう癖であった。

「……バレたらしゃーないわ。あーあ、なんでバレたんかいな?」

 飄々とした声で言った。嘘だとバレたのなら、挑発するか。どう言いくるめようか、さっさと切り上げてしまおうか。イセは思考を巡らせる。


「あまりにも完璧だった。完璧すぎたと言っていい。……貴殿は常に、余が欲しい言葉を欲しいままに与えてくれていた。不気味なほどにな。……嘘が混じっていることは、薄々気付いていた」

 ムサシは淡々と言った。

 ……一つぐらい本音かもしれないと信じたかった。だが、こうなってしまってはもはや、疑いようがない。最初から、全ては嘘だったのだと。

「目的のために手段を選ばない心意気は称賛しよう。だが……そのために貴殿が自らの身を蔑ろにするような策には賛同できない」

 ムサシは、傷ついていた。だが、その手腕には感服していた。

 この言葉は、ムサシの意地。あるいは、イセへの尊敬と尊重。

 騙されたフリをするだけなら、どれだけ楽だったことだろう。彼女の嘘に溺れて、何の疑いもなく惚れてしまえばどれだけ幸せだったことだろう。だが……ムサシは、イセの嘘に確かに救われていた。だからこそ、彼女の身を、彼女の道具として使いたくなかった。

「もう少し自分を大切にしてくれ、イセ。……そういった言葉は、ちゃんと心の通じる、愛のある相手を見つけてからにしろ」

 

 イセはしばらく呆けていた。

 騙されてくれなかったというだけで十分な衝撃であったが。ムサシは、イセの嘘を通じて、イセ自身すら気づいていなかった本心を見抜いた。自分の心も分からない、ならばどうとでもなれと自棄になっていた、嘘を吐きなれた本心を。

 ムサシがイセの嘘を見破ることができたのは、偶然ではない。ムサシ自身も、自分を投げ出してしまいたいような心地を抱えているからこそ、イセの瞳にわずか滲んだ影に気が付いたのである。歪ながら、二頭は似た者同士だったのだ。

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