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36.ある言語学者

 これは、軍徒研究所本部における、ある言語学者とその助手の記録である。


 白く明るい研究室。この時代には貴重な、紙の本が敷き詰められた戸棚。長机とホワイトボードには何もなく平面をただ露わにしていた。


「ツンデレ、マジ、ヤバい……こんな死語、軍徒にインプットする必要ありますか?マゾ、エッチ……これは風俗壊乱になるのでは?」

 助手はやや呆れたように言った。

「思考の幅を増やすには言葉の習得が手っ取り早いですからね。半分はわたしの趣味ですが」

 学者は笑いながら、戸棚からコーヒーカップを取り出した。

 軍徒に思考の幅なんて持たせていいのか、という疑問を助手はぐっと飲み込んだ。



「軍徒の命名法、何故軍艦の名前にしたんです?陸上でも運用しますし、航空機の方が偽装には適していたのでは?」

 タブレット端末に表示された名前の一覧を見ながら、不意に助手がそう尋ねた。

「暗号を解読された時点で、名称の偽装は無意味ですからね。これは、単にわたしの趣味ですよ」

 コーヒーカップを置き、学者は本を広げた。軍艦紹介と題されたその一冊には、かつて大敗を喫した軍艦の活躍が美辞麗句とともに載せられていた。


「海の上に、山の名を浮かべる。敵国の地に、我が国の川の名を引く。実に撞着表現的で、美しい侵略思想構図の体現だと思いませんか?」

 学者は、モニターに表示されている、現在の軍徒分布図を眺めて言った。

「この山は、屍の山。この川は、血の川。全ては人の血肉でできている。山となり川となれば、もはやどちらの国の者だったのかも分からない。極端な話、皮を一枚剥けば分からない。人間とすら呼び難い。これもまた、醜く美しい真理でしょう」


 助手はメモを取った。今日ではあまり用いられない、紙の手帳である。

「当初の予定では、軍徒はここまで増やす予定ではありませんでしたから。名前が足りるか心配になりますね」

 学者は他人事のようにそう言った。


「それに、呼びやすいでしょう?呼びやすさは愛着を呼びます。同型艦、寸分違わず同じ設計であったとしても、名前が異なれば違う個になる。兵器でありながら、個として認識されるのです。面白いでしょう?」

 軍徒に個としての意識なんてあるのだろうか、と助手は思った。

「反面、人間は最初から個体名を持って生まれる。そして、社会に組み込まれていくにつれて、肩書きを負い、個の名を薄れさせていく。これもまた不思議ですね」

 この人は学者ではなく作家になりたかったのだろうか、と助手は思った。その語り方がなんとも文語的に思えたのである。


「いずれ貴方はわたしの名を負う。ならば、貴方はわたしになるのでしょうか?」

 助手は思わず顔をあげた。

「……御冗談を」

「あながち冗談ではありませんよ」

 学者はコーヒーカップを覗き込んだ。カップは、まだ乾いていた。


「三日後、わたしはこのカップに湯を注ぎます。そして毒を混ぜて、飲みます。数分後には死ぬでしょう」

 助手は、この言語学者が憲兵に睨まれていることを知っていた。常日頃から、反戦色を滲ませアイロニーを語るのが好きな人だと知っていた。ここ最近になって急に整頓されるようになった机の上。それは、後片付けへの配慮であろうと薄々気が付いていた。

「そうなれば、わたしの肩書きは貴方のものになります。でも、貴方がわたしになる必要はありません」

 学者は、笑った。

「では、三日後までこれを預かっていてください。見ていたら、きっと早く飲みたくなってしまうので」

 こうして、助手はコーヒーカップを受け取った。


 

 翌日、学者は暗殺された。誰が殺したのか、どうやって殺したのか、何故殺したのか。何も公表されなかった。



 

「ああ、このカップですか?先生にいただいたんですよ」

 

 新たな言語学者は、今日もまたコーヒーカップに紅茶を注ぐ。


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