見ず知らずの君へ
ひと夜ひと作 其の一
考える人にこそ読んでほしい、ひと夜シリーズの一作目。
僕らには長い長い道の半ば、ふと歩みを止めたくなることがある。
それは野に咲く花の誘惑だったり、空飛ぶトンビへの嫉妬だったり、まあ他にもいろいろ。
とりあえずなんとか理由をつけて、このクタクタに疲れきった身体を、そこらの岩にでもあずけて休みたいと渇望する。
だけれども、そんなことは許されない。
そんなことをしてしまえばお前の居場所なんてもう無いぞと、一度眼をつむってしまえば次に見るのは地獄だぞと、説教にも似た声がするんだ。
その声は僕らがそう思うことをやめない限り、いつでもどこでも、どこからでも響いてくる。
ああでも、違うんだ。
僕らは知っている。
この声たちが意地悪でこんなことをしているのではないことを。そして、間違ったことを言っているわけでもないことを。
立ち止まってしまえば、振り返ってしまえば、その先にはもちろん「楽」がある。人によってはそれを天国とすら例えるかもしれないし、実際その「楽」はオアシスのようなものだと思う。
だけれどそれを一度味わってしまった人間は、果たしてそれらを捨ててこの道へと戻って来れるだろうか。
僕らはそれを想像してみて、いいや無理だな、と。
目を伏せたり笑ったり、舌を打ったり頭を掻いたり、まあ各々の反応で、だけどいずれも不可能だと結論付けて、また文句を垂れながらも一歩を踏み込むんだ。
だからこれは、この旅への不満を綴った文ではない。
僕らが言いたいのはそんなに簡単なことではなくて、一言で表せるようなものでもなくて。
もっと複雑でもっと難解で、もっと気持ちが悪いものだ。
それがなにを指すのか、なにを言いたいのか。
僕らは僕らを総動員して考えた。
ああでもないこうでもないと、それぞれがそれぞれの意見を聞きながら、自分の意見も出し合って。だけれども、それでも無理だった。
結局言いたいことの一片だってまともな形にはならなくて、それは今この瞬間だっておなじで。
だからそれは、今はできない何かなんだと、僕らはそう結論付けた。
僕らは自身を「僕ら」だとしなければ、怖くて足が震えてしまう。心細さで歩みが止まってしまう。
だから僕らは自身のことを僕らだと言いはり続けるし、「僕ら」でなくなった人たちを想うことはしない。
それはもしかすると、弱さなのかもしれない。
頭ばかりが良くなって、ケモノ的な部分は一向に変わっていない、未だに争いを続けているような種の、克服すべきなのにずっと残っている汚点なのかもしれない。
だからそれを越えたその先に、言いたいことはある…のかもしれない。
だけれども、だとするのなら。
仮説を立てるたびに巻き起こる疑問と、検証への恐怖。
どうにもできないそれらを奥歯で噛みしめながらも、また歩くしかない。
歩きながら考えて、時には走りながら話さなければいけない。
僕らはそういう旅をしているんだから。
君だって、そうだろう?
もしも君が僕らでなくなって、僕も僕らでなくなったのなら、その時僕たちは初めて出会うんだろう。
そうしたら話そう。どんな道を歩いて、どんなものを見てきたのか。そして、どんな未来を見据えているのか。
きっと本当に話したいことっていうのは、そういう事なのだろうから。
見ず知らずの君へ、僕らのひとりより。
人生は長距離走である。
そんなことをどこかの偉人が………いや、隣の家のおばさんだったか…まあ、誰かが言ってました。
君はどう思いますか?