109・邪竜の幼生体
(え……邪竜の幼生体?)
思考が停止する。
……いや、待て待て。
それってつまり、
――500年前、慈母神マトゥと当時の人々が倒したはずの『邪竜』が復活してるの?
嘘でしょ?
嘘じゃないと嫌だよ。
真眼君、嘘って言ってくれぇ……!
でも、
【邪竜の幼生体】
の文字は変わらない。
周囲の雑踏が聞こえる中、まるで切り離されたように僕と黒い妊婦だけが見つめ合い、静止している。
ああ、落ち着け。
目の前の妊婦が『邪竜の幼生体』なの?
と、その時、
ヒィン
赤い文字が変化する。
【邪竜の幼生体】
・生まれたばかりの邪竜。
・女性の人型の高濃度汚染体の胎内で受肉し、現在、人型の胎児の状態で成長中である。
・自我あり。
・戦闘力、5。
・ただし、女性の人型の高濃度汚染体の戦闘力は、1220。
・戦闘、非推奨。
(赤ちゃん!?)
あの膨らんだお腹の中にいる赤ちゃんが『邪竜の幼生体』なの?
僕は、唖然。
幼生体自体は、弱い。
でも、妊婦がやばいくらいに強い。
まるで『深緑の大角竜』と同じクラスの戦闘力数値……え、こんな人の多い街中に、あの巨大な竜がいるのと同じってこと?
(……洒落にならん)
暴れられたら、どんな被害が出るか。
ゴクッ
僕は、唾を飲む。
――やるべきか?
真眼君は『戦闘は非推奨』と表示したけど。
でも、大人しくしている今の内に『土霊の岩槍』を全力で射出して倒した方が良くないか?
幼生体も殺せるし。
(最悪、殺人罪で捕まるかもだけど……)
説明したら、信じてもらえるかな?
あるいは、黒獅子公の権力で何とか?
もしくは、真眼の力で脱獄して、ほとぼりが冷めるまで逃亡生活とか……?
ああ、
(クレフィーンさんたちとお別れは嫌だなぁ)
と、泣きたくなる。
でも、その方が世界のため、彼女たちのためになる気もする。
(なら、僕は――)
などと考えていると、
『――やめておけ』
頭の中に、声が響いた。
(え……?)
鼓膜に届いた音ではなく、直接、脳内に響いたような男性の老人のような重々しい声だった。
まさか……。
僕は、妊婦を見る。
彼女の青い唇が、かすかに笑みを浮かべる。
(……念話?)
え、マジです?
驚き、固まる僕の前で、妊婦の口が動く。
音の声は出ない。
でも、念話の声が頭に響く。
『――浅慮は、多くの無辜の命を散らすことになる。よく考えて行動することだ、〈女神の使徒〉よ』
ぐ……。
頭、痛ぇ……。
脳内に声が響くたび、頭の中を小さな針で刺されてる感じ。
くそ、
(お前……邪竜の幼生体か?)
僕は、必死に聞き返す。
すると、
『――そうだ』
と、返事が来る。
(……やっぱりか)
黒装束の妊婦の口が動き、
『――我が下僕の発する声なき声を利用し、お前に我が意思を伝えている。案ずることはない、今日の所はこちらに争う意思はない』
『――しかし、そうか、異界の人間か』
『――なるほど、女神もよく考える。そして、その〈眼〉……忌々しき女神の加護まで得ているな』
ズキズキ
複数の声が重なり、響く。
痛い痛い。
多重に念話の声を伝えられると、脳が破裂しそうになる。
てか、
(日本人って、バレてる?)
さすが、邪竜。
しかも、『真眼』にも気づいているみたいだし、やはり、かつての自分を倒した相手(女神)の力はわかるらしい。
あと、
(争う気がない……だと?)
じゃあ、何のために姿を現したんだよ。
僕の心の問いに、
『――顔を見に来た』
と、奴は答えた。
どこか、笑っているような気配がある。
(はぁ?)
顔って、え……僕の顔?
何でよ?
『――我が下僕の1人が倒され、死の間際、〈女神の使徒〉の存在を伝えてきたのでな。1度、見ておくべきと思うたのだよ』
下僕の1人?
もしかして、
(この間、戦った黒騎士……ジオ・クレイアードのこと?)
驚く僕。
幽鬼のような妊婦は、胎児の意思を反映し、肯定の笑みをこぼした。
そして、声なき声で言う。
『――警告しよう』
ズキッ
頭に響く、重い念。
眉をしかめながら、
(警告?)
と、僕は、黒い妊婦の膨らんだ腹を睨んだ。
『――今後、大人しくしているならば、終焉までの短い生を許す。だが、我が慈悲と野望の邪魔をするならば、容赦はせぬ』
ビキッ
(ぐ……っ)
響く声は静かなのに、滅茶苦茶、痛い。
僕は問う。
(慈悲と野望って、何だよ?)
奴は、
『――この世、全ての生命の死』
と、労わるような優しい声で伝えてきた。
……あ。
本気だ。
そうわかった。
本心からそう思い、それが相手のためになると心底信じてる。
相手は、元竜神の邪竜。
死が本当に救いなのか、正直、真偽はわからない。
(……でも)
旦那様を亡くし、泣いているクレフィーンさんの背中を幻視する。
死の悲しみ。
別れの辛さ。
少なくとも、
(わかりました、じゃあ、殺してください……なんて、簡単に言えないよね)
と思う。
黒い喪服のような妊婦は、暗く笑った。
『――愚かな考えだ。だが、それも人の性よ』
病的に細い手が、膨らんだお腹を押さえる。
スッ
半歩下がり、こちらに半身を向ける。
歩道で立ち止まる黒服の妊婦と僕の間を、何人もの通行人が行き交い、彼女の姿が何度も僕の視界から消え、また現れる。
そして、
『――警告は伝えたぞ、異界より招かれた〈女神の使徒〉よ』
(あ……?)
その姿が消えた。
いや、雑踏に紛れたのか?
キョロキョロ
慌てて周囲を見回すけれど……いない。
まずいか?
このまま、逃がすのは……。
(よし)
僕は、真眼を使う。
ヒィン
もう1度、集中しながら周囲を見回していく。
と、文字が見える。
【邪竜の幼生体】
・雑踏の中、移動した。
・人目のつかぬ裏路地で、高濃度汚染体の古代魔法により空間転移を行っている。
・距離、約2480キロ。
・現在、他国にいる。
(ふぁ!?)
空間転移だと?
あの黒い妊婦の古代魔法で……?
しかも、国外。
(居場所がわかっても、手が出せないじゃん……!)
僕、茫然。
そこにいたり、
「ん?」
「シンイチ君、どうかしましたか?」
「何よ、その表情?」
と、少し離れていた3人の美女が、僕の様子に気づいた。
(あ……)
我に返る。
……うん。
時間にして、多分、30秒ぐらいの出来事でしかない。
でも、
だけど、
(ああ~、めっちゃヤバイ奴に目をつけられた感じ~)
僕、泣きたい。
ヘタ……
思わず、歩道にしゃがみ込む。
3人はギョッとした。
1番先に、お母様が僕に駆け寄る。
長い金髪を揺らしながら僕の隣に膝をつき、背中にその白い手を当ててくれる。
心配そうに、
「どうしました、気分でも悪いのですか?」
「…………」
「大丈夫、私がいます。私がそばにいますから、安心してくださいね」
と、優しく微笑んだ。
僕は、顔を上げる。
(……クレフィーンさん)
僕の背中に添えられた手も、じんわり温かい。
心が落ち着く。
見れば、他の2人も心配そうに僕を覗き込んでいる。
ああ……うん。
(そうだね)
こんなの、1人じゃ抱えきれない。
僕は、大きく息を吐く。
そして、
「――ごめんなさい。実は……」
と、今の出来事を、信頼できる3人の大人の女性たちに話したんだ。




