2025
占いは楽しい。当たっても外れても笑うことができる。
最近やっと、自分は、人生の指針や、ひとつひとつの選択について、自信と責任をもって自分一人で決めることができる人間ではないのだと素直に認めることができるようになった。同時に、自分の人生を預けることができるほど信頼できる他者がいるわけではないという事実も、痛いほど身に染みている。
別に信頼も尊敬もしていない他者に対して、情報収集のために相談して、その意見を参考にすることが自分の中で間違った行動ではなく、むしろ積極的にすべきことであるというのならば、論理的な根拠に乏しい占いや診断のようなものに頼ることも、決して悪いことではないのだと、そう思えるようになった。
自分の弱さ、幼稚さ、凡庸さをやっとこさ、痛みなしに受け入れられるようになった。悔しさや、悲しさ、向上心といったものとは距離を置いて、それが生涯続いて当然のものとして、自らの人間としての未熟さや脆弱さを自分の一番大切にしているものの隣に置くことができるようになった。
それが、自分の経験してきたどんな成長や変化よりも、ある意味では大きな成長であり、大きな成果であると今の僕は感じている。
僕はあともう少しで、他者の弱さや醜さを許し、笑って済ませられるような人間になれると思う。無関心を装ったり、過剰な憐憫を向けたりすることなく、その人間の幸不幸や応報に向き合うことができるようになると思う。
今年は、新しい仕事や挑戦が成功する年だと言われた。それがいったい何を意味するのか、具体的に思い当たることはなにひとつない。僕の今年の予定で、不運な失敗の可能性はあれど、成功して喜べるようなことは何もない。
だから、今ふと思ったものとしては、さっき述べたような、人間精神的な成長が、うまくいくのではないかと思う。これはとても困難なことであろうから。自分が人間として大きな成長を迎えられるというのは、他のどんな現実的な成功よりも幸運で稀な成功であろうから。
それは僕ひとりの幸福にとどまらず、身近な人や、ひょっとすると、ほとんどかかわりのない、偶然一度出会っただけという人をすら、幸福にする可能性のある成功であろうから。
希望はある。
去年の自分の目標は「印象」を理解することだった。それをコントロールする技能については、一年程度では身につかないだろうと予測していたし、それは当たっていた。理解も、今それが高いレベルでできているとは思っていない。だが、当時ではわからなかった「印象」にまつわることについて、僕は多くのことに気づき、理解することができた。
「印象」の決定要因は「タイミング」である。コンマ1秒単位のズレで、どんな発言も、どんな仕草も、まったく違う印象を与える。
タイミングというのは、別の言い方をすれば「沈黙の長さ」でもある。「機を待つこと」と言い換えてもいい。
こういった事柄は、みな感覚的、無意識的にやっていることで、普通言語化されないし、誰かに教えたり教えられることもない。だからこそ僕はこれまで、そういったものを軽視して生きてきた。
ある内容について、その内容そのものとは異なった印象や感情を抱くのは、受け取り手の問題であると僕は勝手に思っていたから。
ある意味では、受け取り手が自分のタイミングで受け取ることのできる、文章表現という表現形式が、僕にとってもっとも身近で信頼できるものとしていつも一番近い場所にあったからかもしれない。
僕がこれを学ぶのに一番役に立った教材は、意外にももっとも役に立たなそうなコンテンツ、つまり、動画サイトなどにある、ゲーム配信などの切り抜きだった。
ゲーム配信の構造は、他にはあまり見られないものである。
演者がリアルタイムで活動と発言を行い、それに対して視聴者たちは文章でコメントすることで反応する。それらは非対称的でありながら相互的である。
またそれらの要所要所を切り抜いて動画化されたものは、さらにもう一層構造が追加される。つまり、その一連の流れ自体が、ひとつのコンテンツとして再現可能なものとして保存され、またそれに対する視聴者の反応が、また別の層の文章、つまり動画に対するコメントとして残されるのである。
さらに、その後配信者がその切り抜きやその動画についたコメントに対して配信中でリアルタイムで反応することがある。配信という即時性と、文章表現という永続性が混在しているのである。
ひとつのエンターテイメント、つまり「印象」が最優先される世界で、そのような複雑な構造を、皆が受け入れ、多くの感情が引き出されている。それがビジネスとして成立している。
配信者は、適切なタイミングでコメントを拾い、適切なタイミングでゲームや、コラボ相手の発言に反応する。それが少しでも遅れたり、視聴者の体験とズレると、それだけでマイナスの要素として印象に残ってしまう。あるいは、よい印象が残らなくなってしまう。
視聴者の側は、適切なタイミングで適切なコメントをすることで、他の視聴者たちと一体感を味わったり、場合によっては配信者に拾ってもらって、注目を浴びることができる。逆に、不適切なコメントがあるたびに、それに対して不快感を感じ、無視を決め込んだり、敵意をむき出しにしたり、自分はそうならないようにと反省をする。
それにかかわる人々が、その一連の体験をよりよくするために、その場に適した「タイミング」をはかっている。また、それが当たり前のこととして共有され実行されている。
配信者も視聴者も、同じゲームをしていても、あるいは同じコメントをしていても、そのタイミングによってまったく結果が異なることを熟知している。そのうえで、よりよいタイミングを探るという技能を、ほとんどすべての人が習得している。
この光景は「印象」というものを学ぶのに、非常に役に立った。どういったタイミングがよい印象を与え、どういったタイミングが悪い印象を与えるのか。
通常、TPO、時と場所と場合が、発言や行動の評価に影響すると考えられているし、それは僕も間違ってはいないと考えている。しかし印象は違う。印象は、適した時、適した場所、適した場合であったとしても、残る場合と残らない場合、よい場合と悪い場合がある。それを決定づけるのは、タイミングである。別の言い方をすれば、ある個人が、自分の力でもっともコントロールしやすいものが、タイミングなのである。
その他の印象を決定づける要素など、つまり、話し方や容姿、話す内容などは、技能に分類される。それを、都度状況に合わせてよりよくしていくことは、経験と才能と運が必要なことであり、個々人が短時間でどうこうできるものではない。
だからこそ、僕らが印象というものについてもっとも意識しなくてはならないのは、タイミングなのである。よきタイミングを熟知していることが、よき印象を与えるコツを知っているということなのだ。
昨年の成果を語るのはこれくらいにしよう。
今年の目標は、先ほども述べたが、もっと人間として、多くのものを受け入れられるようになることだ。それも、努力や我慢を必要とせずに。
努力や我慢をもってして、何かを受け入れるというのは、それすなわち、不自然な状態が継続することを望むことを意味する。
不自然なものは長続きできない。短期間の間にそれが成功したとしても、いずれすべてが元通りになる。僕はそれを何度も経験してきた。
永続的な変化を望むなら、それが自然なものでなくてはならない。限度を超えた痛みや苦しみ、不快感が続くものであってはならないのだ。
本当の意味で、他者に貢献したいのならば、その貢献が、自分にとっての不利益になるようであってはならない。もちろん、それが自らの大きな利益であってもならない。大きすぎる利益は痛みや不安感を生じさせるから。
一般に、何かを継続するのに重要なのは、適切な量と頻度の、安定した感情的刺激である。
それは小さな苦痛と小さな快感の連続であり、大きな苦痛と大きな快感の突発的かつ低頻度の継続である。
自然であるということは、ごく稀に、涙を流すほど嘆き悲しみ、時に飛び跳ねる程大げさに喜ぶことを意味する。
自然であるということは、だいたい毎日、少し悲しいことや、少し残念なことに遭遇し、少し嬉しいことや、少し安心することを享受することである。
そういう風に生きながら、今より多くの人やものを、そこに当然あり、継続してあり続けるものとして認めること。
目を背けたり、不必要に軽蔑する回数を減らすこと。
自然な状態のものに対して、不快になったり、絶望したりする機会を、もっともっと減らすこと。
特別な努力も我慢もなしに、普通の人と、普通に関われるようになること。
これが僕の今年の目標だ。