高級料理について。
高級料理の哲学
最近、友人に誘われて高級レストランに行った。いや、正確には「友人が勧めてきたから、渋々行った」と言うべきかもしれない。だって、メニューの価格を見ると、まるで「食べる」という行為が、何か重大な哲学的探求を含んでいるかのように感じたからだ。私はただ、席に座り、運ばれてきた料理を「これが本当に食べ物なのか?」という疑問とともに見つめることしかできなかった。
無駄に高い料理の選ばれし理由
まず、高級料理を選ぶ側の心理を深掘りしてみよう。あの小さな皿に乗った微妙な色合いのソース、金箔の乗った一口サイズの肉片。確かに、料理は見た目が美しく、味も洗練されている…ような気がする。でも、どうしてこんなにも高いのだろう? まるで料理界のピカソが手掛けたかのような神秘的な料理が、なぜあんなに少ない量で、あんなに高価なのか。
もしかして、この料理には「これこそが真の美食だ!」というインスピレーションが降りてくるのか? まるで選ばれし者のように、ソースが少しだけ皿の端に残されていて、その残りが私の人生の意味をも暗示しているかのようだ。料理人もまた、「この一皿こそが、食の頂点に達した瞬間だ!」と感じているのだろう。彼の中の「食の芸術センサー」がピンと来たのでしょう、きっと。
量が少ないのは、何かの美学か?
そして、料理の量。なんで高級レストランでは、料理の量がこんなにも少ないのだろう。もしかして、少ない量が「質」を強調するための美学なのか? ひと口のソースに、ひと切れの肉。これが本当にお腹を満たすのか、まったくわからない。でも、それが高級というものらしい。きっと、私がこれを食べ終わった瞬間、世界が変わるんだろうな、と思いながら、フォークを手に取る。
でも、結局のところ、満腹感なんて感じない。むしろ、ひと口食べて「なんだこれ、と思っていたら、もう終わり?」とびっくりしている自分がいる。量が少ないだけに、逆に一口ごとに「この料理を食べている時間が、もしかしたら人生そのものなんじゃないか」と思えてくる。それが、まさに高級料理の哲学なのかもしれない。
料理人と私の一方通行な対話
次に、サービススタッフ。彼らは私に「こちらの料理は、アーティストが手掛けた一品で…」と、情熱的に語ってくれるのだが、私はその情熱が私の胃袋には届かないことに気づいていた。どうしても、彼らの語る「一流の芸術」よりも、目の前にある「これ、ちょっと足りないな」という現実が私にズンと響く。
そして、食後のデザート。デザートの一口目を食べた瞬間、「これだ! 人生が完璧に整った瞬間だ!」と思う。しかし、5秒後には「もう、これで終わりなの?」と、何とも言えない空虚感が襲ってくるのだ。いや、待ってください。こんなことを感じてしまう自分がいけないのか? だって、最初からこのデザートの「少なさ」を理解しているはずだったじゃないか。
結論:食べ物はやっぱり愛だ
結局、私が学んだことは、「高級料理とは人生そのもの」だということだ。少しずつしか得られないが、その一瞬一瞬が、まるで永遠のように感じる。そして、食べ終わった後に残る空虚感。それこそが、まさに「生きる」ということだろう。だから次回からは、高級料理を食べるたびに、「ありがとう、少ないけど、この一口が私の人生のすべてだ!」と思って食べようと思う。
そして、次に高級料理を食べたら、私はきっと「これで満足!」と言いながら、外に出て行こうと思う。その時、私はきっと、少ない量でも十分に満ち足りている自分を感じているだろう。そして、人生がどこに向かっていくのかは、また別の話だ。