009 怪我の功名
腹が重たい
お腹が苦しい
怠い
実千代の腹は腹水が溜まっており張りがあるのは入院前からだがこの日はいつもより張りが強く重く動きにくかった
『コンコンコン』
「はーい」
「お邪魔します
ミッチーおはよう、おぉ顔色悪いね、腹痛い?」
矢部が部屋に入ったときにはまだベッドサイドテーブルに朝食のお盆がありほとんど手つかずで残っていた
実千代は中途半端に体を起こしていて布団に足を入れたままお腹に右手を置いていた
「痛い」
「どのくらい痛い?」
矢部はポケットから顔の書かれたフェイススケール(0−10)のプラバンを取り出して見せた
「7くらい」
「痛み止め居る?」
「うーん、朝分は飲んだ」
「便は最近出てる?」
「そういえば3日くらい出てないかも」
「食欲ない?」
「うん」
「カマ(酸化マグネシウム)飲んでる?」
「うん」
「ちょっとお腹の音聴くね」
「うん」
矢部は聴診器を持ってきて腹と胸の音を聞いた
「トラムセットもけっこう長い飲んでるんだっけ?」
「うん」
「レスキューはロキソニン?カロナール?」
「ロキソニン」
「ちょっと先生と相談しておく、今日は動くのどう?」
「ムリ」
「そうだよね〜、看護師さんとも相談してくるわ」
「後でまた来てくれる?」
「体の状態を伝えたら戻って来るよ」
「うん」
どうしようもない痛みを感じているとき人は心寂しくなるものだ、矢部はその辺も心得ているが自分がまず動かなければいけないところにいるということも分かって動いている
「お待たせ〜、温めた薄い食塩水とホットパックとバスタオルでーす
血圧と体温、血中酸素濃度も測りまーす」
矢部は一通り抱えて戻ってきた
体温は正常、血圧はいつもより少し低め、発汗はほぼなし、SPO2(経皮的動脈血酸素飽和度)も97%で問題なしだ
「血圧いつもよりちょっと低いくらいかな
便通はまずホットパックを腹に置いてタオルで包んで蠕動運動を促してみてからあんまり出なかったら下剤が浣腸するかってさ」
「浣腸ヤダー」
「じゃあホットパックで温めてから足を動かして様子見よう、長く部屋にいるかもしれないけどいい?」
「ありがとう」
「じゃあホットパックからね」
矢部は手際よくタオルを背中の下に通しカバーに入れたホットパックをお腹に置いてタオルで巻き洗濯ばさみでタオルがズレないように固定した
「あったかーい」
「ご飯下げるね、お湯飲めたら飲んで」
「うん」
矢部は朝食のお盆を持っていきすぐに戻ってきた
「お、ちょっと飲めたね
梅干しのお湯割りとかも持ってこれるけどなんか飲みたいのあれば言ってね」
「それ飲みたい」
「すぐいる?」
「うん」
「待ってて、もう少しするとお腹動いてくると思うよ」
「え?」
「梅干し湯持ってくるまでに出そうになったら行っていいからね」
矢部が出ていって5分も経たないうちになんだか下っ腹がムズムズしてきた
「え?もう?マジで?」
重たい腹にホットパックを抱えながらトイレにのっそり歩いてトイレに腰掛けると手袋と使い切りサイズの注入用のオイルが置いてあるのに手を伸ばした
「やっぱり要らないか?でるか?痛いか?」
使おっかどうしよっか考え中の状態でドゥルん、ドドドと出てきた
スッキリしてトイレから出てくるのと矢部が部屋のドアを開けたのはほぼ同時だった
「出た?」
「出た!」
「良かった、腹の痛みは?」
「あれ?ちょっといいかも」
「おう、ベッドに戻るかい?」
「うん、今日はちょっと無理しないでおく」
「OK、介助要る?」
「腕組ませて」
「しょうがないな、細腕で申し訳ないが」
実千代は矢部の左腕に自分の右腕を回して肩を寄せベッドまでの数メートルを歩き腕を組んだまま2人でベッドに腰掛けた
矢部の腕は肩の古傷のせいで少し細い
「ホソ」
「怪我の功名というやつだな」
「後遺症でしょ?」
「そうとも言う」
大きめの湯呑みに入った梅干しは白く粉を吹いたちょっと小さいものだった
「塩っぱそう〜」
「これにお湯たっぷりが美味いんだよ」
「えーほんとに〜」
「飲んだら分かるって」
水筒からアツアツのお湯を注ぐとフワッと粒子まで見える湯気があがり梅と赤紫蘇の香りが追ってきた
「良い匂〜い」
「ちょっと特殊な作り方の梅干しで数は少ないんだ〜、俺とGGのイチオシさ」
「あっか〜」
実千代は矢部の言葉は届かないほど梅湯に集中している
「うま~」
「でしょ〜」
ベッドに腰掛けたままズズズッ〜っと音を立てながら一気に飲みきって種を飴のように転がしながら肉片を削ぎ食べきった
「ごちそう様でした〜あんまり塩っぱくなかった
なんだかお腹空いてきたわ」
「朝飯食ってないからしょうがないさ、調理師さんがもう少し来るから10時のオヤツで頼みな」
「もう10時か〜」
「ここまで元気になればもういいかな?」
「もうちょっといて」
「お、うん」
矢部は左腕を掴まれて引き止められた
流石に寂しいかぁと思ったが口には出さず左肩に置かれた頭を見て撫でようかどうしようか考えてやめた
「やめたの?」
「何が?」
「右手がチラッと動いたよ」
「体が脳に負けたか、なんでか頭を撫でようかなって思ったもんで」
「撫でていいよ、むしろ撫でろ?髪少ないけど」
「少ないのはそんなに気にならないけどね、艶があっていいわ」
矢部が頭に触れても実千代は体を強張らせることなく撫でられた
「シャンプーしとけば良かったな」
「2.3日洗わなくても大丈夫、外に出たわけでもないし」
「ありがと」
…ほんの数分、無言の時間が流れた
「おじゃましまーす」
佐藤医師が元気に入ってきて2人っきりの雰囲気を見てニヤついた
「独身同士だしこの病棟だから良いんだけど鍵くらい締めておきな?」
「いえ、あの、下心はそんなに無かったんですけど」
「「あったんかーい!」」
佐藤医師と実千代の突っ込みがコラボした
実千代は頭こそ矢部から離れたがまだ腕は掴んだままだった
「怠いんですって」
「分かるよ、私も同じ病気だったから一度寝たら起きれないかもっていう恐怖心がどうしても出てきちゃうんだ」
実千代の目線はしっかり佐藤医師を捉えていた
「言ってなかったっけ?私も子宮頸がんでね、1回目の手術で子宮全摘したんだ
19歳だったけど医学生だったから女医の結婚なんて無いだろうな〜って思ってさ、勢いで取ったまでは良いけど、なかなかの喪失感で1年棒に振ったわ」
「今は?」
「再発も転移もあって大腸も一部取ったけど抗がん剤が効いてね、50歳過ぎた」
「いいなぁ」
「そのうち再々発してぽっくり逝くよ
まぁ私のことは良いとして薬のことでちょっといいかしら」
「はい」
実千代はそれでも矢部の腕を離さない、むしろ強く指先を押し込むように力を込めた
「麻薬?」
「いいえ、薬の副作用の便秘だけど後発薬のトアラセットに変えてから出てるみたいなのよ
だから一度トラムセットに戻してみてから考えるでもいい?決してジェネリックの薬が悪いわけじゃなくて主成分以外のところで合う合わないが出たかもしれないってだけだからね」
「はい」
「で、トラムセットで吐き気を伴うとか効かないとか便秘で痛いってなるとサインバルタ追加して違う薬試してにしようかなって思ってます」
「はい」
「詳しい話は薬剤師に聞いてね」
「はい」
「じゃ、ラブラブタイム邪魔してごめんね、続きをどうぞ」
「はい」
「ラブラブタイムって!」
佐藤医師はニヤついた顔のまま部屋を出ていった
「ちょっと単語が古いよね」
「急に冷めた感じに言うね、俺もそう思うけどその時代に生きてきたから普通だわ」
「うーわ」
実千代は腕を離してベッドに倒れ込んだ
「そろそろ調理師さんくるよ?」
「じゃまた来るわ」
「バイバイ、ありがと」
「うん、あっ忘れてた、今日またエアロバイク持ってくるからやれたらやって」
「分かった、午後の調子次第で」
「それで良いよ、お邪魔しました〜」
実千代はドアが閉じきるまで矢部の背を見送ってから布団を頭まで被って不貞寝を決め込んだ
「お祭りで焼きそば、食べたいな」
小さい子供頃のお祭りの焼きそばはお父さんが買ってきてくれて膝の上で一緒に食べたが想像の中では隣に矢部が座っていて「美味しい?」とお父さんと同じ優しい声を掛けていて、なんだか胸が苦しくなった