005 矢部の闇
20分間の恋人 005
リハビリは1単位20分間、患者一人あたり連続3単位まで実施可能だ
矢部の居る病院のリハビリスタッフは理学療法士(PT)、作業療法士(OT)、言語聴覚士(ST)の3部門だが他の病院では柔道整復師、鍼灸師(鍼師・灸師)、按摩マッサージ指圧師、視能訓練士等をリハビリテーション科に雇っているところもある
緩和ケア科のリハビリテーションのコストは一般病棟に居ればガンのリハビリテーション料や廃用症候群のリハビリテーション料が算定対象となるが『治療をしない』という名目で入棟していることと、現行の診療報酬制度では個別のリハビリテーション料を算定できないため治療代金として請求できないのが現状だ
治療する側であるが請求できないからと患者の満足度向上目的にと腹を括ってやりたい放題やっているのが矢部だったりする
「矢部さーん、3号の矢島さんのじかーん」
「はい〜」
かき揚げ前髪の美魔女の湊 璃子看護師長の甘い声に反応してデレた顔で返事をした
「じゃあ今日のリハビリ?はここまでです」
「超楽しかった、リハビリな感じがしない」
「リハビリっていうか時短クッキングだったからね〜俺も楽しかった、お母さんからみりん入れて旨味を出す秘伝も聞いたし大収穫だったわ」
「また明日も来る?」
「その予定」
「待ってるね」
「お!やる気だね〜何かやりたいこと思いついたらメモするか看護師さんにでも伝えて」
「分かった!」
矢部は後片付けを簡単に済ませて3号室に向かっていった
「あの先生、主夫ね」
「そうだな」
「貴方もあのくらいやってみない?」
「できると思うか?」
「やるか、やらないかの2択よ」
「やれないな」
「そう言うと思った、はぁ〜あの先生婿に来てくれないかしら」
溜息混じりの本音はカウンターテーブルに回ってきた実千代が聞いてしまった
「婿って私の?」
「そうよ〜他に誰が居るのよ、パパと離婚して私と結婚してくれると思う?」
「それはさぁ、パパが可哀想だけどそれでも良いんじゃない?」
「2人共パパの扱いが酷くないか?」
「だってね、パパ仕事以外できないじゃない」
「それがなきゃ皆がご飯食べられないぞ?」
「私も働いてて家事全部してるんだからね?」
「いつもありがとうございます」
「ちょっとずつ出来るようになってください
と言うけども!よ、家事が出来る旦那とか最高よ?ママのお友達のうちなんて旦那さんが食事とトイレと風呂掃除して洗濯まで干してくれるっていう人がいて、洗濯畳まずにハンガーで保管できるクローゼットがあって、とか最高よ?
旦那が飲み会で居ない日に自分がしなきゃいけなくてとか愚痴っててさ、惚気にしか聞こえないってのにねぇ〜」
お父さんは居た堪れない顔をしている
「まだ17なんだけど」
「結婚できるじゃない16過ぎたんだもの」
「絶賛入院中」
「絶賛売り出し中ってことでしょ?」
「でもなぁ、オジサンなんだよね〜」
「17歳からしたらそうよね、見た目は40歳くらいだものね」
「男は40歳から脂の乗りが良くなるもんさ!」
「40過ぎてから油臭かったもんね」
「ワイシャツの黄色い襟、枕、車と全部脂っぽくなったもんね」
「…矢部さんすまん、やらかした」
40過ぎると脂乗りがよくなって加齢臭を纏うそうです、お父さんどんまい
その頃、矢部は90歳超えの矢島お姉さんに『あ~ん』をさせていた
認知症で頭の中が若返ってしまっている矢島さんは矢部を旦那(彼氏?)さんだと思い込んでおりご飯を一緒に食べたいという強い要望で矢部の左腕を両手でぎゅっと胸元に引き寄せながら昼食を食べている、若い頃は美人で巨乳だったに違いない
実千代と両親は昼食をラウンジで済ませてからも見晴らしの良いラウンジで3人掛けのソファに並んで座ってテレビをみてのんびりしたあと、テレビに繫がっていたHDMIケーブルとUSBーC変換アダプタを見つけたお父さんがスマホの中の画像をアルバム化したもの映した
「生まれるまでが長かったね〜」
「そうだな、5年も不妊治療したもんな」
「ママね、麻酔が苦手で成長卵子の摘出術でゲーゲー吐いたのよ、嫌だった〜」
「そもそもさ、なんで不妊治療が必要だったの?」
実千代は不妊治療していたことを初めて知った
「私がね、原因不明の卵巣機能低下があったみたいで運動したり半身浴したり豆類食べたり女性ホルモン注射したり大変だったのよぉ〜」
「思えばあの頃、俺が家事できればママは楽だったんだよな」
「今頃〜だけど今からでも頑張ってくれるかしら?」
「あんまり気乗りしないな」
親の甘い空間に子供は居辛いもので…
「ママ、真ん中譲ろうか?」
「なんで?」
「なんとなく」
「じゃあこのままがいいわ、実千代は私達の待望の子供だったんだもの」
テレビには赤ちゃんの頃の写真から幼児期の写真に変わりスッポンポンで家の中を走り回る恥ずかしい動画が流れ始めた
「小さい頃は甘えん坊ですぐに服を脱いで大変だったのよ」
「パパが保育園に連れて行こうとすると駄々こねて服脱いで抗議してたんだ、どうしたらいい!?ってママにメール送っては頑張れって返ってきたもんさ」
「まんまるのオシリ懐かしいわ」
「ママもパパも若かったね」
「そりゃそうよ15年くらい前だもの!あのときは34くらいでママなんてモテモテだったんだから!」
「パパは30歳かな、忙しい時期だったけど実千代に会うために定時に帰れるように我武者羅に働いたもんさ」
「へぇ~」
その後も保育園、七五三、小学校、中学校と晴れ着や制服、家で楽しく過ごした写真や旅行の写真が映るたび両親がエピソードを語り実千代は涙が溢れてきた
「パパ、ママいつもありがとう、でもごめんね、長生き出来なくて」
「だと思うなら少しでも色々なことを経験して楽しく生きなさい、先のことなんて考えないでやれることなんでもやりなさい
まぁちょっと場所が場所だけに?できることは限られるけど、協力はできる限りする」
「パパは実千代が笑顔で居てくれればそれで十分だから、だから楽しい時間を過ごしなさい」
「うん」
泣いて抱き合う3人は見ていなかったが2度目に入院してからの実千代の写真はどれも不安が顔に出ていて笑顔の写真はなく、両親の顔色も優れず色が付いているにも関わらず灰色掛かって見える写真ばかりだった
その日の夕方、お父さんが帰りのエレベータで1階に降りると偶然にも仕事終わりの矢部がそのままの格好でリュックを背負い階段から降りてきたところだった
「矢部さん」
「あ、相崎さんのお父さん、これから帰られるところですか?」
「そうなんです、イビキが五月蝿いから一緒に寝れないと言われたもので」
「それは厳しいですね」
「娘よりも妻ですけどね
そうだ、矢部さんご結婚は?」
「残念ながらまだ、独身で通すかもしれません」
「何故か窺っても?」
矢部がちょっと嫌そうな顔をしたのを見て実千代のお父さんは聞くのは不味かったかもとちょっと身構えた
「はぁ、学生時代に遡るんですけどその時の彼女を急性発症の病気で目の前で亡くしていまして、なんというか頭を過っちゃうんですよね」
「それは辛いことを思い出させてしまってすみません」
「いえいえ、よく聞かれるんで慣れたもんですよ
あんまり言わないで下さいね」
「はい、それはもちろん
引き止めてしまってすみません、明日からもよろしくお願いします」
「はい!全力で楽しませます!」
「必要な物があれば言ってください、用意しますので」
「分かりました、基本的には実千代さん経由でお知らせしますが何か企画したときなんかは病院から電話するのでよろしくお願いします」
「はい、いつでも出られるようにしておきます」
「ではまたお願いします、帰りの道中お気をつけて」
「ありがとうございます、矢部さんも気を付けて」
言質は取った、と矢部は心の中でガッツポーズを決めた
今度は何をしようかな〜と常に考えながら歩いて帰る矢部のスマホのメモには患者さんやその家族を愉しませる企画で溢れている
しかし実現できたのは数%程度で肥やしになることがほとんど、明日部屋が突然空いてしまっているなんてこともザラの病棟だ
患者さんが苦痛なく長く生きることはもちろんだが近々来るその日までいかに愉しさを提供するかずっとずっと考えている
「何が愉しかったか教えてくれる人が居たら良いのになぁ」
幽霊くらいなもんかと1人で身震いしたのは決して寒かったわけではない