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牢獄塔から花束を、隣のあなたには約束を

作者: 流丘ゆら


 王侯貴族の罪人を収監する『牢獄塔』。

 その最上階の一室に、公爵令嬢のシルヴィア・オランジュは幽閉されていた。


 窓辺の椅子に腰かけて、今日もシルヴィアは一人でのんびり日向ぼっこを楽しんでいる。開けた窓からはそよそよと風が入ってきて気持ちがいい。

 牢獄であるにも関わらず、この部屋の窓は人が出入りできそうなほど大きくて、しかも開閉が可能だった。しかし地上十階という高さであるため窓が開いたところで脱走は不可能で、ついでに脱走どころか侵入もできないほどに塔の側面は絶壁である。

 それにしても、ここに来てから一体どのくらい経っただろうか。シルヴィアはぼんやりとカレンダーに目を向けて、そしてすでに半年が経過していることに気づいて驚いた。……もうそんなに経つのか。食っちゃ寝生活をしていると時間の進みが早くていけない。



「あー……」



 同時に、そろそろ手紙を書く時期だということを思い出して憂鬱になる。ここに投獄された初日に「週に一度は必ず手紙を書け」と念押ししてきた鬱陶しい王族がいるため、そいつに宛ててなにかしら書かねばならないのだ。面倒臭いが仕方ない。

 のそりと椅子から立ち上がり、シルヴィアは机の引き出しの中からレターセットを引っ張り出した。なにやら王家の紋様が描かれているそれは、間違いなく普段使いするような代物ではない。しかしこれを差し入れてきたのは手紙を書けとうるさい張本人だ。彼が使えと言うのなら遠慮なく使うべきなのだろう。そもそも他にレターセットを持っていないので、これを使う以外に選択肢などないわけだし。


 それにしても、書くことがない。インク壺を引き寄せながらペンを片手にシルヴィアは唸る。

 ここ一週間の出来事を思い出そうとするも、おもに食べるか寝るしかない牢獄生活だ。わざわざ手紙に書くような話題などとっくの昔に尽きている。そのため最近は『今週の献立報告』と銘打って朝昼晩に提供された食事の内容を箇条書きして誤魔化していたのだが、先日ついに「いい加減にしろ、面倒臭がらずにちゃんと書け」と便箋五枚に及ぶ説教を食らってしまった。こうなったらまた別の手段を考えねばならない。


 悩んでいたら、扉の脇にある小さな引き戸がガラリと開いた。そして食事を乗せたトレーがそこからずいっと差し込まれてくる。



「シルヴィア・オランジュ。食事の時間だ」



 無愛想な女性看守の声が聞こえたかと思えば、すぐさまピシャリと引き戸が閉じる。なかなか冷たい態度に見えるが、看守としては正しい対応だと思うのでシルヴィアは別に気にしない。むしろ職務に忠実な人物なのだと好印象さえ持っている。特にこの牢獄塔においては担当看守によって囚人への扱いが変わるので、やはり真面目な人物を引き当てたほうが精神衛生上とても良い。


 ともかく食事だ。手紙の件を一旦保留にしたシルヴィアは、いそいそとトレーをテーブルに運んでしばらくは無心でもぐもぐと口を動かした。質素ながらも普通に美味しい。やはり食事は日々の貴重な楽しみのひとつである。

 食べながら、そういえば、とシルヴィアは再度カレンダーへと目を向けた。ここへ放り込まれて半年ということは、もしかしてそろそろか。



「お、やっぱり」



 カレンダーをめくって来月の予定を確認すれば、『ガイアス殿下とエカテリーナ姫の結婚式』とでかでか書かれているのを発見した。もちろん書いたのは自分である。今月もあと数日で終わるので、日付的には来月というよりも今週末だ。シルヴィアは満足げに頷いた。今回の手紙の内容はこれで決まりだ。

 残っていたパンとスープを綺麗に完食し、空の食器をトレーに乗せて引き戸の前に戻しておく。こうしておけば定時に看守が引き下げに来てくれるのだ。ちなみに洗濯物も毎朝きちんと籠に入れて置いておけば持って行って洗ってくれる。


 それからまた手紙を書くため机へと戻ったシルヴィアは、彼らの結婚を祝う言葉をどんどん書き連ねていった。なにを隠そう手紙を書け書けとやたらとうるさい王族こそが、今度結婚する王太子ガイアスなのである。ついでに彼の婚約者である隣国の王女エカテリーナとも友人であるシルヴィアは、できることなら二人の結婚を盛大に祝ってやりたかった。牢獄塔にいる以上は手紙で騒ぐくらいがせいぜいだけども。


 なおシルヴィアがここに放り込まれることになった罪状は、そのエカテリーナに害をなそうと刺客を雇ったことだった。未遂なのでこの塔での幽閉程度で済んでいるが、もしも実行に移していたら極刑になっていた可能性も否めない。


 まあ自演である以上は無実でしかないので、まかり間違っても極刑にはならないわけだが。


 ふと脳裏に、いつぞやのガイアスとの会話が蘇ってきた。幼い頃からの友人と言っても差し支えのない彼を説得するまで、それはもう大変な苦労をしたものだ。



『なんでお前がそこまでする必要がある! 俺とエカテリーナのためだからって、いくらなんでもやりすぎだ!』


『そうは言いましても殿下、もはや私が表舞台から退場しない限り事態は収束しそうにありませんし。私だって前科持ちにはなりたくありませんが、このままではエカテリーナ様が危険です』



 シルヴィアが一芝居を打って罪人となることに、ガイアスは最後の最後まで反対し続けていた。しかし彼らの結婚に一番邪魔なのがシルヴィアであった以上、こればかりはいくら王太子の言葉といえど聞いてやるつもりなど毛頭なくて。

 ここでシルヴィアが消えなくては、公爵家の娘を王太子妃にと推していた『シルヴィア派』の人間がエカテリーナに危害を加え続けていただろう。彼らは巧妙で狡猾だ。エカテリーナに明らかな被害が出ているというのになかなか尻尾を掴めなかったのも痛い。

 となると、こちらとしてもなりふり構ってはいられなかった。最終的にガイアスが折れた理由もここにある。愛すべき婚約者に万が一のことが起きればそれはもう悔やみきれない。


 そんなわけで、シルヴィアはガイアスを説得したうえで摘発対象だった裏組織に接触し、エカテリーナに害をなすよう依頼した。あえて正体を隠さずに依頼しておいたおかげで、万全の体制で待ち構えていたガイアスに捕縛された彼らは「依頼人はシルヴィア・オランジュだ」と簡単にゲロってくれたのである。

 おかげで摘発対象だった裏組織は壊滅し、めでたくシルヴィアもお縄となって、無事に表舞台から退場することに成功した。それに伴いシルヴィア派も解散する他なくなり、これでようやくエカテリーナの身の安全も確保されることになった。

 これぞ一石三鳥。万事成功。だというのに、当のガイアスとエカテリーナからは号泣された挙句に左右から全力で抱きしめられて、危うく圧死しかけたシルヴィアである。なにがそんなに気に食わないのかと二人を引き剥がしながら尋ねてみれば、「無実のシルヴィアが悪女扱いされたうえに前科持ちになったことだ」と口を揃えて言われてしまった。そこはまあ、ごめんとしか言いようがない。


 そうして若干二名にトラウマに近いものを押し付けつつも、悪女という称号と共に牢獄塔に放り込まれて今に至る。これで微塵も後悔していないのだから、もしかして自分は性格が悪いのだろうかとシルヴィアは最近気がついた。別に、自分の性格がいいと思ったことなど一度もないが。


 書き終わった手紙を見直して、ミスがないことを確認してから封蝋をする。ちらりと引き戸を確認すれば、いつの間にか食事のトレーは回収されてなくなっていた。いつものことながら仕事が早い。

 書いた手紙はいつも食事のトレーが回収されるタイミングで担当看守に渡すようにしていた。渡すというか、引き下げられるトレーに乗せておけば、それを見つけた担当看守が投函しておいてくれるのだ。シルヴィアは手紙を片手に思案する。別に急ぎでもないし、次の食事の時に渡せば問題なく届くだろう。



「手紙なら僕が届けておきますが?」



 不意に、シルヴィアしかいないはずの室内で声がした。反射的に振り返れば、ちょうど開けたままにしていた窓から一人の青年が入ってくるところだった。思わずシルヴィアは半眼になる。



「オルランド様……日中に窓から侵入するのはご遠慮ください。誰かに目撃されたら完全に事案ですよ」


「そんなヘマはしません。それよりその手紙、ガイアス殿下宛てですよね。届けておきますよ」



 完璧なバランス感覚で窓枠に腰掛けながら、シルヴィアの苦言をサラリと受け流すオルランド。シルヴィアはげんなりしたが、彼の神出鬼没ぶりはいつものことなので、もう半ば諦めながら手紙を渡す。



「じゃあお願いします。今週末にガイアス殿下とエカテリーナ様の結婚式があるので、おめでとうくらい伝えておきたいんです」


「あなたが幽閉を余儀なくされているのは、あの二人のせいなのに?」



 渡された手紙をジロジロと眺めながら、オルランドは不機嫌そうに眉を寄せた。そんなに嫌そうな顔をするくらいなら、初めから手紙を届ける提案なんてしなければいいのではと内心思わなくもない。まあ不機嫌だろうと不本意だろうと、申し出た以上はきちんと届けてくれるだろうが。シルヴィアは軽く肩を竦める。



「私がここにいるのは誰のせいでもないですよ。そんなこと、あなたも知っているはずでしょう?」


「ええ。でも納得はしていません。今でもあなたがあの二人のために動いたことが許せない。彼らにそれほどの価値はない」



 きっぱり言い切ったオルランドにシルヴィアは呆れ果てるしかなかった。まさかあの二人とシルヴィアを天秤に乗せたうえでシルヴィアのほうに比重が傾くと公言するような人間がいるとは。


 ちなみにオルランドはエカテリーナの腹違いの兄だった。つまり紛うことなき隣国の王子であるのだが、エカテリーナが正妃の子供であるのに対して彼は妾妃の子供である。そしてその違いゆえにオルランドは幼い頃から人質としてこの国に送られてきて、以来ずっとこの国に留まっていた。

 各国の王たちが自分の子供や血縁を他国に送って同盟や和平を結ぶのは、このあたりではそう珍しい習慣ではない。それに人質といってもひどい扱いを受けるわけではなく、あくまで『他国の王族を預かっている』という扱いになるため不自由を強いられることは一切なかった。なお何気にシルヴィアも、罪人扱いでさえなければいつ他国へ送り込まれてもおかしくない血筋だったりする。



「それ絶対に他の人の前では言わないでくださいね。世間的に私は悪女なんですから」


「……言っておきますが、その話題はもう随分前に過去のものになっていますよ」


「は?」



 思わぬ返しにシルヴィアは目を点にした。……随分前に過去のものになっているだと?



「どういうことですか」


「どうもこうも、社交界を席巻する噂話は日々どんどん更新されていっているということです」



 確かに王太子の婚約者を害そうとした悪女の話は、それなりに長く語られていた。しかし、それでもせいぜい二ヶ月程度だ。その後はすっかり別の醜聞や不祥事の話題で持ちきりになっていたし、特に今は王太子の結婚を間近に控えているせいか外聞の悪い話題はほとんど誰も口にしない。むしろお祝いムード一色だ。

 つまり、シルヴィアが悪女であるという噂もとっくの昔に飽きられて鎮火している。だから安心していいとオルランドが伝えてやれば、予想に反してシルヴィアは表情を固くした。



「まさか……いや、可能性は低いけど……でも……」


「……シルヴィア嬢?」



 安心するどころかどんどん厳しい顔つきになっていくシルヴィアに、さすがのオルランドも訝しげな顔をする。てっきり喜ぶものと思っていたのだが。

 窓枠に腰掛けたまま、オルランドはじっとシルヴィアを見つめた。しばらく一人でブツブツ言っていた彼女だが、不意に顔を上げて真正面からオルランドを見る。その真っ直ぐな眼差しに、オルランドの心臓がドクリと一度大きく跳ねた。



「オルランド様」


「はい」


「『シルヴィア派』と呼ばれていた一団の最近の動きに関して、なにかご存知ありませんか?」



 シルヴィア派。その言葉だけでオルランドは彼女がなにを危惧しているのかを悟った。



「あなたが捕らえられて以降、解散したという話は聞いています。だからこそ、その後の彼らの動向はほぼ見過ごされてきました」



 シルヴィアは天を仰いだ。これはもしかすると、もしかするかもしれない。



「すみません、書き直しますので一旦その手紙を返していただけますか」


「はい。……あと僕にできることは?」


「ではひとつだけお願いが」



 返却されたそれをシルヴィアは躊躇いもなくビリッと開封し、無用になったその裏面に何事かを乱雑に書きつけた。



「これを用意できますか。難しければ断っていただいて全然構いません」


「わかりました。……うん、たぶん大丈夫です。どうにかします」



 走り書きを読んだオルランドは頷きながらも考え込む。……いまいち意図が掴めないが、彼女の頼みならば聞き入れるまでだ。問題はこれをどこで調達するかだが。

 オルランドが頼まれたものの入手方法を思案している間、シルヴィアは急いでガイアスへの手紙を書き直し始めた。杞憂に終われば一番なのだが、そうでなければ一刻を争う事態なのだ。

 しばらくして、とりあえず入手の目処がついたらしいオルランドが一心不乱にペンを動かしているシルヴィアに声をかけた。



「……シルヴィア嬢」


「はい?」



 顔も上げずに返事をするシルヴィアだったが、それでも彼女がちゃんと聞いていることはわかっている。オルランドは静かに続けた。



「あの二人が結婚したら、この国での僕の人質としての価値はなくなります」



 予想もしていなかった話題を振られ、忙しなく動いていたシルヴィアのペンがぴたりと止まった。



「恐らく近いうちに、僕は別の国にまた人質として送り込まれることになるでしょう。だからこうしてあなたと会えるのもあとわずかです」


「…………」



 シルヴィアは押し黙った。……確かにそうだ。彼の言うことは正しい。

 ガイアスとエカテリーナが結婚するなら、もはや人質としてのオルランドの存在は不要になる。万が一の時にはエカテリーナを人質に取れば済む話だからだ。手を止めたままのシルヴィアを眺めながらオルランドが続ける。



「僕はあなたが好きでした。自分より大事な誰かのために、なにを失っても一切後悔しないあなたのことが」



 ミシ、という鈍い音と共にシルヴィアが握っていたペンの先が折れた。その衝撃で漏れ出たインクが紙に滲んで、書きかけの手紙を台無しにする。

 シルヴィアは唇を噛み締めた。出会って半年。この近辺では一番背の高い牢獄塔に、暇潰しと運動を兼ねて定期的によじ登っていたという彼と窓を開けた瞬間にたまたま鉢合わせたのが交流の始まりで、その時はお互い死ぬほど仰天したものだ。

 それ以来、脱出も侵入も不可能とされる牢獄塔の最上階に、いつも窓から会いに来ては話し相手になってくれていたオルランド。さすがに不審者なので普段は夜の訪問が多かったが、今日のように日中に堂々と来ることもあって、シルヴィアは苦言を呈しながらもいつだって嬉しかった。



『こうしてあなたと会えるのもあとわずかです』



 ……思った以上に動揺した。エカテリーナから贈られたお気に入りのペンの先を折ってしまうくらいには。



「そ、れは……」


「独り言です。返事は不要なので安心してください」



 台無しになった手紙を書き直すことも忘れて呆然とこちらを見上げてくるシルヴィアに、オルランドは安心させるように穏やかに笑いかけた。彼女にしては珍しいこの表情が見られただけで、彼にとっては十分すぎるほどのご褒美だったから。



「大丈夫。ちゃんと待っていますから、ゆっくり手紙を書いてください」


「……はい」



 所在なげに答えて、シルヴィアは別のペンで再度手紙を書き直した。しかし書くことは決まっているのに、頭が混乱しているせいかなぜか全然進まない。

 それでもなんとか書き上げて、見直しもして、それからようやく封蝋をして、シルヴィアはオルランドへと手紙を渡す。



「お待たせしました。お願いします」


「確かに。では今日はこれで。また来ます」



 軽く頷いてから、オルランドは手紙を片手にさっさと窓から出ていってしまった。相変わらずだ。上に行ったのか下に行ったかもわからない。

 窓を閉めようと手を伸ばした時、ついでとばかりに身を乗り出して塔の壁を観察する。いつもと変わらぬ見事な絶壁。足場になるような引っ掛かりは上にも下にもどこにもない。



「…………」



 シルヴィアは無意識に詰めていた息を吐き出しながら窓を閉めた。どうせオルランド以外は入って来られないので鍵は閉めずに開けたままだ。

 それからシルヴィアは、壁に寄りかかりながらずるずると床に座り込んだ。先ほど彼に言われた言葉がまだ頭の中で反芻している。



『僕はあなたが好きでした。自分より大事な誰かのために、なにを失っても一切後悔しないあなたのことが』



 ……そんなことはない。買い被りだ。確かに後悔はしていないが、怖いと感じることは何度もあった。

 強く糾弾してくる他者の声。先の見えない幽閉生活。そして自分を案じてくれる家族と引き離されて一人きりになったこと。

 不安だった。それでも自分で選んだ道だと腹を括って、できるだけ気にしないようにと意識して努力してここまできた。毅然として見えたのは、きっと悪女としての評判を守ろうと頑張った結果だろう。



「だからオルランド様、私はあなたに好かれるような大層な人間じゃないんですよ」



 呟いて、瞑目して、それからシルヴィアは意識して思考を切り替えた。

 今は感傷に浸っている場合ではない。皆が王太子の結婚に浮かれているなか、シルヴィア派と呼ばれていた彼らを注視している者は少ないだろう。だからこそ、彼らが動くとしたら今が絶好の――。



「ぇ……?」



 突然、視界が白く染まった。座り込んでいたはずの姿勢が崩れて、なすすべもなく床に倒れ伏す。自分になにが起きたのか分からないまま、シルヴィアの全身から冷や汗が吹き出した。



「毒、ではない……けど、遅効性、の……」



 ここへ来て早半年。初めこそ気をつけていたものの、最近はあまり頓着しなくなっていた食事への警戒。

 声しか知らぬ無愛想な担当看守のことを考えたのを最後に、シルヴィアの意識はそこで途切れた。




✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎




 日付が変わる前になんとか公務を終わらせた王太子ガイアスは、寝室の扉を開けた瞬間に感じた強い違和感に顔をしかめて立ち止まった。



「…………」



 言うなれば、まるで空き巣被害にでも遭ったかのようなひどい違和感。しかし室内には荒らされた形跡など一切なく、調度品の位置も変わっておらず、誰かが潜んでいたような気配もない。それを確認してからガイアスは慎重に室内に足を踏み入れて、それから後ろ手に扉を閉めた。



「随分と遅かったですね、ガイアス殿下」


「……オルランドか。あまり驚かせるな。心臓に悪い」



 つい先ほどまで誰もいなかった室内に、忽然と一人の青年が姿を現した。違和感の正体はこれかと、ガイアスは疲れた顔で溜め息をつく。

 オルランドとは子供の頃からの付き合いだが、人質という彼の微妙な立ち位置が邪魔をして、付き合いの長さのわりには友人とも幼なじみとも呼べない中途半端な関係のままだった。それでも最近の彼は以前よりも多少は取っつきやすくなった気もするが。



「なにか用か? まさか俺の顔を見に来たわけじゃないだろ」


「シルヴィア嬢から頼まれたものをお届けに。どうぞご確認ください」



 差し出されたのはシルヴィアからだという手紙の封筒と、そしてなぜか花束だった。珍しいなとガイアスは首を傾げたが、あのシルヴィアが変なものを寄越すはずがないと確信しているため、特に不審がることもなく普通に受け取る。



「アザミ……じゃないな。なんだこれ」


「ゴボウの花です」


「ゴボウの花!?」


「花束にして見栄えするほどの本数を集めるのに苦労しました」



 没にした手紙の裏面に書かれたシルヴィアの走り書き。間違いなく『ゴボウの花束』と書かれているそれをオルランドは二度見したが、それでも彼女が望むならと見たこともないそれを入手するため彼は奔走した。

 幸い季節的な問題はなかったが、あいにく王城にはゴボウなんてものは植えられておらず、花屋でもやはり売られていない。悩んだ結果、オルランドは図鑑を片手に野生のゴボウを探しに出かけた。おかげで戻ってくるのがこんなに遅くなってしまったわけだが、明日にはシルヴィアに良い報告ができそうなので頑張った甲斐はある。



「では僕はこれで。……なにやら不穏な動きがありそうです。十分お気をつけください」



 そう言って、ガイアスが引き止める間もなくオルランドは姿を消した。目の前にいたはずなのに、どこに消えたのか全然わからない。

 残されたのは、シルヴィアからの手紙と花束だけ。とりあえずガイアスは手近な花瓶にゴボウの花とやらを突っ込んだ。本当はちゃんと活けてやりたいところだが、いかんせん今日は疲れすぎているし眠すぎる。やるなら明日だ。手紙を読むのも明日にしよう。そう思ってガイアスはベッドに潜り込もうとしたのだが、ふと思い立って本棚から植物図鑑を引っ張り出した。寝る前にゴボウの花についてだけ調べておこうと思い立ったのだ。

 花が好きなエカテリーナのため、花言葉を調べてから贈るのがガイアスの習慣になっていた。そのためシルヴィアからの突然の花束にもなにか意味がと思い至ったらしい。確かにいきなりゴボウの花が贈られてきたのだ。勘繰ってしまうのも当然だろう。



「ゴボウ、ゴボウか……お、あった。…………って、え?」



 見つけた説明を読んで瞠目する。――花言葉は、用心、そして警戒だ。


 普段は他者に無関心なオルランドがわざわざ気をつけろと言ってきたことといい、まさかなにか起きようとしているのだろうか。ガイアスは険しい顔で図鑑を閉じる。そして明日読もうと思っていたシルヴィアからの手紙をその場で即座に開封した。


 ……余談だが、どうやらシルヴィアはガイアスが手紙を読むのを後回しにしないようにと、あえて意味深な花束を贈ったらしい。彼が花言葉を調べるのを見越しているあたり、彼女のガイアスへの理解度はかなり高いと言える。

 そしてガイアスも幼い頃からの友人であるシルヴィアのことを無条件で信頼している節があり、だからこそ今回も疲れていたが彼女からの手紙を優先させた。そこにあるのは清々しいまでの友情であり、ある種の理想的な主従関係でもあるのだが。


 そんな二人の関係性が、変な連中を変に奮起させてしまうとは、なんとも皮肉な話である。




✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎




 ――ズキリ、と頭に痛みが走ってシルヴィアの意識が浮上する。眠りから覚めてしまうほどの鈍痛はしばらく尾を引き、シルヴィアは呻きながらも起き上がろうとして、なぜか力が入らず失敗した。

 どういうわけか、思うように体が動かない。あと瞼が重すぎて目が開かない。いくら寝起きとはいえこれはない。



「う……」



 それでも意志の力でなんとか瞼をこじ開けてみれば、いつもの見慣れた牢獄塔の天井が映り込んできた。あまりにもいつも通りの光景に、自分の身に何が起きたのかを思い出すまでやや時間がかかってしまう。


 確かガイアスへの手紙をオルランドに託したあと、遅効性の薬の効果でその場に昏倒したはずなのだが。



「……ええと」



 とりあえずシルヴィアは今はいつだろうと考える。自分がどのくらい眠っていたのかわからない。しかし時計を見ても、カレンダーを見ても、さすがに時間の経過まではわからなかった。しいて言うなら太陽の高さからして今は朝だろうということがわかるのみだ。

 シルヴィアは頭痛を散らすように眉間を揉みほぐしながら、どうにかこうにか起き上がる。起き上がってから、自分がベッドで寝ていたことに気がついた。記憶では床に昏倒したはずなので、恐らく誰かが運んでくれたのだろうが。……一体誰が?



「シルヴィア・オランジュ。食事の時間だ」



 そして、まるで見計らったかのようなタイミングで食事のトレーが差し入れられる。すぐさまシルヴィアは「ちょっと待った!」と大声で叫んで担当看守を引き止めた。思った以上に声が掠れていてぎょっとしたが、幸い相手の耳には十分届いたらしい。いつもならピシャリと閉じられるはずの引き戸が今日はそのままになっている。



「すみません急に。誰かが私をベッドまで運んでくれたようなんですが」


「…………」


「もしかして、あなたが?」


「そう。床で気絶していたから」



 淡々と返ってきたその答えに不自然な点は見当たらない。自分が担当している囚人の状況を把握しているのは、看守として当たり前のことだからだ。当然室内で倒れているのを発見したなら保護するだろうし介抱もする。シルヴィアは頷いた。



「やはりそうでしたか。ありがとうございます。でもすごく寝た気がするんですけど、もしかして私が倒れてから数日経っていたりします?」


「……私があなたを見つけたのは、一昨日の夕食の時」



 一昨日。シルヴィアはカレンダーに目を向けた。つまりガイアスとエカテリーナの結婚式まであと四日。



「大丈夫。あなたはなにも心配しなくていい。必要な手筈はすべて私たちが整えるから」


「え?」


「あなたは結婚式当日まで、この部屋で今まで通り心穏やかに過ごしてくれたらそれでいい。もちろん当日は朝から準備に追われることになるだろうけど」



 一拍おいて、担当看守が言わんとしていることを察したシルヴィアは一気に表情を険しくした。しかし顔が見えない担当看守は扉の向こうで話し続ける。



「今でも私たちはあなたこそが王太子妃にふさわしいと確信している」


「…………」


「私たちにとって仕えるに足る存在はあなたのほう。なのに王太子殿下は隣国の王女を妃に選んだ。ありえない。もしも殿下の目は曇っておいでなら、それを正すのは私たち臣下の役目。そして隣国の王女が殿下を誑かしたのであれば、排除するために行動するのが当たり前」



 珍しく饒舌に語る担当看守にシルヴィアは思わず舌打ちをしそうになった。しかし窓がカタリと開いた気配にハッとして、貴族令嬢にあるまじき失態をギリギリのところで回避する。もしも()に舌打ちする姿を目撃されでもしたら憤死するしかない。

 それはともかく、やはり担当看守はシルヴィア派の人間だったらしい。食事に薬を混ぜ込んだのも恐らく彼女だ。その目的はきっと以前と同じであり、再びエカテリーナを排除してシルヴィアを擁立すること。そのためにもシルヴィアには大人しくしていてもらいたかったのだろう。



「……そういうことでしたか。あなたたちの主張はよくわかりました」


「ご理解いただけたのなら良かった。では今しばらくは辛抱してこの部屋でお待ちください。すぐに王太子妃の座をあなたに捧げ」


「オルランド様、よろしくお願いします」



 瞬間、固く施錠されていた部屋の扉が蝶番ごと吹き飛んだ。そばに立っていた担当看守もその衝撃に巻き込まれ、背後にあった廊下の壁に背中を強かに打ち付ける。



「な、なに、が……」


「手荒な真似をしてすみません。でもガイアス殿下とエカテリーナ様のお気持ちを踏み躙る者は、すべからく私の敵ですので」



 全壊した扉をくぐって廊下へと出てきたのは、なぜかオルランドに抱えられた状態のシルヴィアだった。



「まったく愚かなことをしてくれますねえ。あの二人に手を出したりしなければ、私だってここまで怒らなかったのに」



 本当は自分の足で悠々と歩み寄るつもりだったのだが、二日も寝たきりだったせいでまだ思うようには動けなかった。そのためいつものように窓から入ってきたオルランドにお願いして運んでもらった次第である。


 ちなみにそのオルランドだが、シルヴィアからの手紙で状況を把握したガイアスにこき使われて、ここ二日はずっとシルヴィア派を炙り出してはしょっぴく作業に明け暮れていた。おかげでシルヴィアのところに顔を出す暇がなくて彼の心はささくれた。

 そしてつい先ほどようやくひと段落して彼女の顔を見に来てみれば、扉越しに担当看守と話しながらなぜかベッドの上でジタバタしていたわけである。どうやら体が軋みまくって動かなくて焦っていたらしい。


 オルランドに抱えられたまま、シルヴィアは担当看守の顔を覗き込んだ。間近で見つめられた担当看守はその瞳の強さに息を呑む。まだ薬が抜けきっていない頃合いだろうに、そんなことは感じさせないほどシルヴィアから向けられる眼差しは強烈だった。



「ガイアス殿下は幼い頃からの私の友であり、生涯に渡ってお仕えしようと決めている私の主君です。妃として彼の隣に立とうなどと考えたことは、これまで一度もありません」



 呆然と見返してくる担当看守に、シルヴィアははっきりとそう告げた。

 そう、彼女の望みはただひとつ。いつかは王になるガイアスのもとで死ぬまで仕え続けることだ。だからこそシルヴィアは彼の隣ではなく下にいることにこだわり続ける。



「それなのに、あなたたちは私の望みも殿下の気持ちも無視して一方的にエカテリーナ様を断罪しようとしている。到底許せることではありません。……オルランド様」


「はい」


「シルヴィア派の残党を一掃するまであとどれくらいかかりますか」



 オルランドは驚いた。どうやら自分がなにをしていたのか、シルヴィアにはお見通しだったらしい。



「明日中には終わります。ガイアス殿下が自ら動かれましたから、予想よりも早く決着がつきそうです」



 せっかくシルヴィアが身を挺してまで収束させた事態を蒸し返されて、ガイアスは相当激怒していた。だがそれ以上に憤激していたのはエカテリーナで、自身が狙われているにも関わらず「どこからでもかかって来いやオラァ!」と無駄に覇気をみなぎらせては周囲を無意味にビビらせていた。最低限の護身術しか習っていないはずなのにどうしてそこまで強気なのか。一応兄であるオルランドは疑問に思ったが、近付いただけで殴られそうなので何も訊けずに今に至る。



「おいっ! 今ものすごい音が聞こえ……うぉぉぉぉいなんだこれぇ!?」



 気がつけば階下からバタバタと看守たちが集まってきていた。どうやらオルランドが扉を破壊した時の轟音が塔全体に響き渡っていたらしい。慌てふためいてすっ飛んできた看守長に、シルヴィアを抱えたままのオルランドが平然と告げる。



「ちょうど良かった。今すぐこの看守を取り押さえてください」


「はい!? え、というか貴殿はもしやオルランド王子!? なぜここに!?」


「詳しい話はあとでガイアス殿下から知らされるでしょう。とにかく今はそこで腰を抜かしている看守を捕縛してください」



 面倒なのですべての説明をガイアスに丸投げしたオルランドであった。散々こき使ってくれたのだから、ここでの尻拭いは任せてしまおう。

 一方のシルヴィアは担当看守が捕らえられるのを見届けてから、もう限界だとばかりに意識を落としてさらに丸一日爆睡した。そして次に目覚めた時には薬は完全に抜け切っており、どういうわけか半年ぶりに牢獄塔ではなく公爵邸の自室にいたことで、今度はなにが起きたのかと目を白黒させるのだった。




✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎




 直前までバタバタしていたものの、ガイアスとエカテリーナの結婚式は予定通り盛大に執り行われた。

 その頃までにシルヴィアの悪女という評判はすっかり塗り替えられており、『ガイアス殿下とエカテリーナ姫のために自らを犠牲にしてまで奔走した立役者』というよくわからない噂が社交界中に席巻していた。



「もう嫌です、私もう社交界には出られません」


「出なくても僕は全然構いませんけど、出ようが出まいがあなたの噂は当分収まらないと思いますよ」



 ガイアスたちの結婚から早三ヶ月。シルヴィアに関する噂は鎮火するどころかますます加速しているような気がしてならない。悪女としての噂は二ヶ月で鎮火したらしいのに、今回はなぜこんなにも長引くのか。

 不貞腐れて自室のテーブルに沈没しているシルヴィアを眺めながら、向かいに座っていたオルランドがちょっと可笑しそうな顔で頬杖をつく。



「話題性がありすぎるんでしょう。なんたって王太子殿下の結婚式で、なぜか僕とあなたの婚約が大々的に発表されたわけですから」


「私あれなにも聞いていなかったんですけど」


「僕もです。どうやら殿下なりのサプライズだったようですね」



 まったく、自分たちが主役の結婚式なのだから自分たちのことだけを考えていればいいものを。そもそもあの騒動のどさくさに紛れてオルランドがシルヴィアを口説き落としていたことをガイアスがいつどこで知ったのかも謎である。



「……ま、いっか。私たちは私たちなりに焦らずのんびりいきましょう」



 あまりにも予想外なサプライズであったが、あれのおかげでオルランドが別の国で人質になるという話がなくなったのだ。そういう意味ではガイアスの機転に感謝しているシルヴィアである。

 しかしオルランドとしては他に思うところがあるようで、なにを思い出したのか憂鬱そうに溜め息をついている。



「でも最近ガイアス殿下が『いつ結婚するんだ?』『早く決めてくれ、その日は国民の休日にするから』って纏わりついてくるので正直かなり鬱陶しいです」


「なんですかその斬新な嫌がらせは。わかりました、休日を増やしたいなら自分たちの結婚記念日を休日にするようにとあとで進言しておきます」



 だがどうやら諌めてくれるはずのエカテリーナがこの案にかなり乗り気であるらしく、今のところガイアスを止められる者が誰もいないという事実がつらい。なんなら国王も王妃も面白がって傍観に徹しているようなので、進言したところで却下されるだろうことは目に見えていた。もうさっさと結婚するしか解放される道はない。ような気がする。



「本音を言うと、僕も早くあなたと結婚したいと思っていますし」


「……ちょっと待ってください。いきなりデレられると心の準備が」



 とはいえシルヴィアの前ではほぼ常にデレているオルランドなので、これは単にシルヴィアが彼のデレに弱いだけの話であった。オルランドは赤く染まった彼女の頬に指先を滑らせながらにこりと微笑む。



「なら、結婚するまでに心の準備を終わらせておいてくださいね。このままじゃ身がもたなくなりますよ」


「み、身がもたないとは一体どういう」


「なにを想像しているんですか。まあ好きに想像してくださって結構ですが」



 笑いながらそう言えば、シルヴィアの頬がますます赤みを増していく。というかもうすでに首まで真っ赤だ。



「……オルランド様がそんなに意地悪だとは知りませんでした」


「またひとつ僕のことを知ってもらえたようでなによりです」


「…………そういうところも、好きですけど」



 数秒の沈黙の後、予想だにしていなかったシルヴィアのデレにオルランドが思いっきり赤面して椅子から盛大に滑り落ちたというのは、二人だけが知るささやかな後日談である。


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