最終話 ビンガムキャニオン発、地獄行き ④
瓶の中身は空っぽだった。
がたがたに緩んで崩壊しかけている私を繋ぎとめてくれる薬剤はもうない。スホーカさんの側肢は私の身体を三か所、深く貫いていて、もはや歩くので精いっぱいだった。混濁した頭が、私をふらふらと連れ歩く。
気付くと私はこの最後の地獄が始まった場所の前に立っていた。ヒモモカトさんのオフィスの硬く閉ざされた扉を、片方残った側腕で何とか引き開ける。
ひっ、と息を呑む音がして私は正直驚いた。デスクの向こうには、縮こまった巨大な塊が見える。私は武装特急のヒモモカトさんの車両にお邪魔した時と同じトーンで、その背中に声を掛けた。
「どうも。戻りましたよ、ヒモモカトさん」
「スホーカが制圧に向かったはずだ。な、なんでこっちに」
「スホーカさんなら死にました」
「……嘘だろ」
トゲトゲした触角の先についたクロムイエローの目が、あらぬあちこちに視線を走らせながらぶるぶると震える。私が一歩室内に踏み込むと、デスクの向こうのでっぷりとした巨体が更に縮み上がった。
「や、やめろ殺さないでくれ。俺は非戦闘員なんだ」
「コロニーB22の殲滅任務を私は完遂しましたよ。半分以上非戦闘員でした。みんな殺してきましたけど」
「わ、悪かった! 仕方なかったんだ、仕事だからやらなきゃいけなくて、」
ずんずんとデスクに迫る私を、デスクの端から突き出したクロムイエローの瞳が忙しなく動きながら見る。更に進むと、急に体が重くなった。側腕と尾が、意志の通らない重りになって軋む体にぶら下がる。私はそれを一瞥すると、腿のホルダーから厚刃のナイフを引き抜いた。コイツを殺すだけならこんなものは別になくてもなんとかなる。おたおたと逃げ回る巨体を壁際に追い詰めて、鈍色の刃を突き付けた。
「ひぃ、やめてくれ! なあマキナ、俺いつもお前の事を診てやったろう。ほ、ほら、酷い怪我だ。そいつを仕舞って手当をしよう、な?」
水面に工業油をこぼしたように淡く虹色に色彩が揺らぐ吸盤が連なった触手が、ずたずたになったジャケットの合間を一撫でした。揺らぐ色彩が赤一色に染まる。ヒモモカトさんは痛いだろ、と言いながら布切れのようなものを取り出した。
私はそれに答えずに、蠢く触手を冷ややかに見降ろす。そうしておもむろに手にしたナイフを湿り気のある肌の上に滑らせた。浅くついた傷口からたらりと青い液体が零れると、ヒモモカトさんは断末魔のような絶叫を上げる。
「やめろ! 痛い、痛い殺さないで、死にたくない! 殺さないでくれ頼むから! なあ、俺たち仲間だっただろ、お前たちは情を大事にする生き物じゃなかったのか!?」
「大丈夫ですよ、ヒモモカトさん。地球には死後の世界の概念がある。ここで死んだら、あなたも行けるかもしれません。きっとまだ終わりませんよ」
「や、やめ……────っっ!!!」
ぎゃあぎゃあと喚くヒモモカトさんの身体に刃を沈める。ぱっくりと開いた傷口から青い血が溢れ出して、命乞いの懇願が一層激しさを増した。
武装特急の仲間たち。特殊戦闘部隊35分隊は、良い部隊だったと思う。全て嘘だったけど、その時の私にはそれが真実だった。
痛い、とヒモモカトさんが言う。殺さないで、と懇願する。情に訴えかける命乞いは、確かに効いていた。だけどそれは私の心を傷つけるだけで、私の手を止めるには至らない。スホーカさんとの対話が頭をよぎる。徹底して私を突き放したスホーカさん。彼はせめて私の心を傷つけまいとしていたのだろうか。その答えはもう未来永劫わからない。
「急所はどこですか、ヒモモカトさん。長く苦しませたくはないんです」
「言う、はぁ、わけ……うう……ない、はぁ、だろ……!」
暴れる巨体が私を突き飛ばす。私はチョーカーを毟り取った。命乞いの言葉は、分からない音の羅列へと変じた。即腕と尾が制御を取り戻す。押さえつけた巨体にナイフを捻じ込むたびに上がる悲鳴は、意味を理解できなくなっても私を蝕み続けた。
* * *
すこしも動かなくなったヒモモカトさんを私は見下ろした。死後の世界の概念がないこのヒトの魂はどこへ行ったのだろう。地獄に囚われたのなら、すぐにまた会えるかもしれない。なんとなく、スホーカさんにはもう二度と会えない気がした。
視界の端で淡い光がちらついた。そちらに目を向けると、デスクの上に光る表示領域が浮かんでいるのが見えた。誘蛾灯に引き寄せられる虫のようにふらふらと底に歩み寄って覗き込むと、理解できない異星の文字が整然と並ぶウィンドウが重なり合って映し出されている。
私はきょろきょろと床に視線を這わせる。探し物はかすむ視界に映り込む青い血溜まりの中、切り飛ばされた触覚の下敷きになっていた。私は投げ捨てたチョーカーを引きずり出す。刈られた青草に似た香りがする粘つく青い液体にまみれたそれを、首に巻いた。
デスクに戻ると、エキゾチックな意匠にしか見えなかった文字は意味ある言葉の連なりへと変わっていた。指で触れると動かすことの出来るウィンドウを選り分けて目を通していく。
Report.373-01。
Report.373-02。
Report.373-03、04、05……。
私には373番という管理番号が与えられていたらしかった。
――NF-373 が正しい認識を取り戻すことは、非常に危険で暴走の恐れがあります。
最初のレポートに付記されていた注意事項の通りになったわけだ。暴走、と私はその単語を頭の中で反芻する。薬が感情を制御してくれなくなった今、私の中には憎悪と一緒に恐怖が渦を巻き始めていた。
私はどうしたら良かったんだろう。殺してしまったみんなのために、一矢報いてやらなければならないと思っていた。騙し続けていた報いを受けさせなければいけないと思っていた。もう死にゆく私に出来る、これが最後のやるべきことだと思っていた。
この復讐が終われば、心安らかに死ねると思っていたのだろうか。許してもらえるとは思っていなかった。でも、やるべき事をやれば自分の事だけは少し許せると思っていた。
手の震えが止まらない。私はデスクに突っ伏するように上体を預けた。頭は光る表示領域を通り抜けて、閉じた瞼を投影の光が眩しく照らす。私は相変わらず異星人たちを許せなかったし、自分の事も許せないままだった。
武装特急の行き着く先、やつらの母船は健在だ。何人も逃げたし、ここ以外にもサイトは点在している。私がここで破壊と死を撒き散らしても、人類は助からないし侵略も止まらない。終わった途端に、何もかもが無意味になってしまった気がした。復讐に伴い満たされるはずだった器はからっぽのままで、そこに何を注ぎ入れたらいいのかはもう、分からない。
頭が割れるように痛くて、ふらふらと持ち上げた視線が見慣れた数字を捉える。35。重なり合ったウィンドウの中から引っ張り出したそれは、特殊戦闘部隊35分隊への指令が書かれたもののようだった。
「研究セクションへの配置……収容……緊急時……処分……」
もう文章なんてものは頭に入ってこなくて、認識できた単語だけを譫言のように呟く。研究セクションは地下にあるようだった。
「行かなくちゃ……」
私は、特殊戦闘部隊35分隊の所属だから。部隊への指令が、真っ白になってしまった頭の中に、行き先を示す。私はよろよろと立ち上がると、足を引きずってヒモモカトさんのオフィスを後にした。地下へ降りなくては……でも、どうやって……?
エレベーターまでやってきたが、いつも私をカプセルのある階まで運んでいたそれは硬く扉を閉ざしている。あてどなく歩いて、ようやく私は階段を見つけた。薄暗い灯りだけがおぼろげに照らす鈍色の階段を、見えざる手にひきずられるようにして降りていく。
どれくらい降りたのだろう。今どこにいるかも分からないまま、私は収容、と書かれたフロアへ続く扉を引き開ける。真っ白な空間が私を迎えた。白い廊下には、銀色の扉と床から天井まで届くはめ殺しの窓が連なっている。なんだか魚の居ない水族館のようだった。
水槽じみた部屋はどれも空っぽで、人どころか生き物の気配も感じられない。耳に痛いほどの沈黙を、私が足と尾を引きずる音だけが乱していく。
霞む視界が、白い世界にぽつんと倒れた人影を捉えた。夢と現の間を彷徨っていたような意識が、僅かに現のほうへと戻ってくる。銀の扉は空いていた。駆け寄らなければと思ったのに、身体は言う事を聞かなくて私はのろのろとそれに歩み寄る。
うつ伏せに倒れているその背には亀の甲羅のような機械のユニットがついていて、そこから義肢のようなものが生えていた。下半身も機械に置き換えられているようだった。人間の肌の質感を持っている身体を仰向けに裏返す。蒼褪めた顔の、半開きの口の端には小さな泡のようなものが付着していて、虚ろな瞳は濁って輝きを失っていた。頸動脈に触れるが脈はなく、すでにこと切れているようだった。半分抱き抱えたような格好のその身体は、まだほのかに温かい。
──緊急時には、収容個体の処分を行う事。
先ほど頭の中で組み立てられなかった文章が、パズルのピースを嵌めこんだように組み上がった。緊急時、に、は。……誰が、今日の事態を引き起こした?
逃げるように私は収容室を飛び出した。廊下に連なる他の収容室にも、機械を取り付けられた人々が転がっている。誰もが死んでいた。誰もがまだ体温を残していた。
何もかもが間違いだった。私の復讐は何の意味も持たないどころか、もっと悍ましい結果を引き寄せたのだ。ごめんなさい、と言葉が漏れた。壊れたレコードのように、収容室を渡り歩きながらただただ謝罪を重ねる。謝っても謝っても、誰も私を許してくれる人はいなかった。
最後の収容室の扉は閉ざされていた。中には小さな子供が倒れている。背中に取り付けられた翼のような形の機械が、その小さな体を抱きくるむようにしていた。私ははめ殺しの窓に縋り付いて、拳でその表面を叩く。傷だらけの拳が摩擦で剥けて、透明な窓の表面に血糊を付けた。それでも構わず叩き続ける。
何でそうしているかもわからずに何度も何度も叩いていると、横たわった足の先がピクリと動いた。弱弱しく拍動を刻んでいた心臓が、どきりと跳ねて全身に血を巡らせ始める。私は扉に駆け寄ると、側腕と尾で固く閉ざされたそれを引き開けようと躍起になった。扉の合わせ目に尾の突起を捻じ込んで、僅かに開いたその隙間に片方になってしまった側腕の指を捻じ込んで、出力を全開にしてぎちぎちとそれを開いていく。
ひどく扉を歪めながら、何とか私が通れるくらいの隙間を空けることができた。身体を押し込むようにして中に入ると、よたよたと小さな影に駆け寄る。
倒れた小さな体を抱き上げると、首に青いチョーカーを巻かれた少年は小さくむずがるような声を上げて、ぼんやりと目を開けた。小さな手が、眠たげな目をこする。
「おねえさん、だあれ……?」
声変わり前の、天使のような高い声が眠たげに私に問うた。私の両目から涙が溢れ出す。目尻から頬を伝うそれは温かくて、自分の中にまだ体温が残っていたことに驚いた。何かの底が抜けてしまったように、温かな雫はとめどなくいくつもいくつも頬を滑り落ちて行く。
「どうして泣いてるの? 蜘蛛のおにいさんはどこ? 待っててね、っていわれたのはもうおしまい?」
突然泣き出した私に驚いたように少年は目を丸くして、質問を重ねた。幼い子供特有のふわふわとした細い髪が小さく揺れる。私は細い体に腕を伸ばした。扱いを間違えれば壊れてしまいそうな華奢な体は、血に濡れた腕の中にすっぽりと収まってしまう。
「……ロニ」
「……?」
突然私に抱きすくめられて、ロニは、私の欺瞞を弾き飛ばしたティモシーが探していた小さな弟は、困惑したような吐息を淡く漏らした。
しばらく硬直していた身体はやがて柔らかくほどけ、小さな手がそっと私を抱き返す。その小さな手の温かさに、限界が来た。私は小さな少年に縋り付いて、小さな子供のように泣きじゃくる。
「私の全ては無駄じゃなかった……。私の罪は、無意味じゃなかった……」
「つみ……?」
知らない言葉をくりかえす子供の声で、少年は呟いた。もう一度小さく戸惑いの息をこぼしてから、ぽんぽんと小さな手が私の背を叩く。
「……こわいことがあったんだね。もうだいじょうぶだよ、ぼくがいるからね」
それに答えることも出来ずに泣きじゃくり続けている私の頭に、ロニはおずおずと手を伸ばして、血で固まった髪をそうっと撫でた。
ー完ー




