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第17話 ここは地獄の最下層 ④

『こんにちは、ジェーン・ウォーレン。お前が本当に自分を取り戻したのなら、私が騙されているお前だと言うのなら、何故わざわざまたチョーカーを付けるような真似を?』


 ── マキナ・イクスがしたことと同じことをするために、私には奴らの言葉が必要だから。それから、質問は書かなくていい。あなたの記憶は私に引き継がれている。


 書かれた"答え"に苦笑が漏れた。まるで幽霊との会話だ。いや、こいつの言っていることが真実なら、私こそが幽霊なのか?

 だが私には母星の記憶がある。あのコンパートメントと、空も見えない積層した街の記憶。猥雑で、冷たくて、薄暗くて。

 穏やかで美しいあの場所へ、あんなにも帰りたいのに。


 ── あなたはそこで何をしていた? 集合住宅だというなら、隣人はどんな人? 空も見えない街に本当に穏やかさと美しさが? あなたの郷愁は、美しいと思うものはなに?


 透き通る青い空が好きだ。そこを往く白い雲が好きだ。湖畔に立って山を眺める時の、涼しい風。夜空の星と、凍るような月。

 荒野の土と、色褪せた灌木と、青い空のコントラスト。スホーカさんが、殺風景だと評した絶景。

 ……いいや。ヒトの感じ方なんてヒトそれぞれだしさ。


 ── スホーカさんは雪を、知らなかった。スホーカさんもヒモモカトさんも、祈りを理解していなかった。この大地と空のコントラストの美しさに賛同してくれる人なんて、あの武装特急には誰も居なかった。

 

 言いがかりも甚だしい。雪を知らないのは、単に育った環境が私と違うだけかもしれない。祈りはすべてのヒトに平等な価値観ではない。認めるよ、違和感はあった。でもそれは私から見た単なる光景であって、その延長線上にお前が置いた答えが真実である保証はない。主観だけで人を疑うなんてあんまりじゃないのか。


 ── その主観が今のあなたにとって最も大切なものだ。嘘は綻ぶんだよ、マキナ・イクス。あなたの世界はあなたの主観で出来ている。認知を歪められているあなたがそこから抜け出すには、主観に頼って違和感を紐解いていくしかない。


 私はどこで雪を見たんだろう。深々と白いヴェールが降り積もる、窓の外の細い枝。母星にあるコンパートメントの、私の小さな部屋に、窓は、ない。灰色の空から落ちてくる冷たいひとひら。空も見えない街のどこで、私はこれを。

 スホーカさんの鬣を掻き分けて生える足肢(そくし)は蜘蛛のようだ。牡鹿を思わせるしなやかな脚。……そうだ、私はずっと。地球の生き物で、彼を見ている。

 首が苦しい。ただ巻かれているだけのチョーカーの感触がひどく不快で、子猫1匹分にも満たないはずの重量に引きずられるように(こうべ)を垂れる。

 ジェーン・ウォーレンが私であることからはもはや逃げられなかった。だから今の焦点は、私とジェーンのどちらが幽霊なのかということだ。

 だって、私が幽霊なのだとしたら。


 ── あなたが幽霊なら、私たちの敵はビンガムキャニオンにいる。


 敵、と明確に書かれた単語に私はじっと目を落とした。心の奥には、未だに憎悪の炎が燻り続けている。これは奪われた痛みが燃えている熱だ。奪われて苦しいのは、奪われたものが私に多くを与えた存在だからだ。

 だから許せない。許してはいけない。許したら、私に与えられたものが全てなくなってしまう気がして、私は戦い続けてきた。憎しみは正しさだった。正しいと思っていたから、迷いなく引鉄を引けたのだ。この正しさが揺るがされている状況は、確かに恐ろしいものだった。でも今、私の恐怖は別の所にある。

 これは歪められたという認知のせいなのだろうか。認知が逆転して、正しく敵を認識できたら、私は正しく彼らを憎めるだろうか。たたん、たたんとレールの上を走る武装特急(オブリビオン)の規則的な音が、私の頭の中でリズムを刻む。クロムイエローの目玉が私を見降ろして、小うるさく小言を言った。サファイアを溶かして梳かしたような鬣が風になびく。皆が私をマキナ、と呼んだ。

 認知は歪んだままだった。違和感は積み上がっていた。嘘は暴かれかけているのに、今なお正しさの矛先は向きを変えようとはしない。敵だと言い切れるジェーン・ウォーレンが心底羨ましかった。

 殺すだけなら、言葉は要らないだろう。もう――私抜きでやってくれないか。

 

 ──それはできない。


 短いその言葉に、私は酷く打ちのめされた。

 ああ、知っている。だってジェーンは私だからだ。私の底に燃えている炎は、未だに戦えと私に叫び続けているからだ。こんな地獄の底に落ちてなお、私は引鉄を引かずにはいられない。私と(ジェーン)の境目は交ざり始めている。

 それでもまだ私は、私がマキナである根拠を必死に探していた。だけど探せば探すほど、見せられていた当たり前のその奥を掘り返すほどに、現実は嘘に塗り込められて、新たな憎しみの塊となって私の上に積み重なっていく。梱包材の気泡を端から一つずつ潰していくようなやりとりに、ジェーンは根気良く付き合ってくれた。

 私の認識する世界の形はそこにあるのに、真実がそれを侵食していく様は、世界の真理を叫ぶカルトにのめり込む感覚に似ていた。未だにくっきりとした輪郭を伴って認識できるその世界を、信じることはもうできなかった。郷愁はすべて地球(ここ)にあった。私は人間だった。どうしようもなく。

 憎しみに押しつぶされそうだった。それでも武装特急(オブリビオン)で共に過ごしたヒトたちへの仲間意識だけはどうしても消えなかった。

 

 一昼夜、私はチョーカーを外さなかった。外せなかった。夜が来て、朝が来た。

 最後の携帯食をもそもそと食べてから、私はコロニー中を歩き回って武器を集めた。それを全部装甲車に積み込んで、運転席の扉の前に立つ。チョーカーのバックルを、ぱちんと外した。


 * * * 


 運転席のハンドルの上に、紙が置かれている。エンジンはもう掛かっていた。発進を待つばかりの音が、低く唸りを上げている。


 ── 皆を、殺せそう?


 私は鬱屈した笑みを浮かべた。アクセルを踏み込む。


「もう知ってるくせに。——殺せるよ」

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