第17話 ここは地獄の最下層 ②
ぷしゅっと高圧ガスが薬剤を押し出す音と共に、一瞬の酩酊感が私を襲う。割れそうな頭の痛みと、身体ごと吐き出してしまいそうな気持ち悪さと、犯した罪への恐怖が波が攫う砂浜の文字のように押し流された。
すっきりと軽くなった頭と身体の中にあって、私は依然ジェーン・ウォーレンだった。マキナ・イクスという、異星人たちに上書きされた私は剥がれ落ちたまま、私の上にうっすらと漂っている。
贖罪が叶わないほどに積み上がった罪は依然としてそこにあった。それに怯えて縮こまる私だけが、綺麗に消えている。思考は明瞭で、身体と意識に万能感が満ちていた。
クリアになった思考は、冷静に状況の分析を始める。この拠点に居たすべての人を殺し尽くしてしまったことで、コロニーB22殲滅というマキナ・イクスの任務は達成された。恐らく連中は私を使い捨てるつもりだったのだろう。この薬は恐怖を消し迷いを消し、思考を真っ直ぐに整えてくれる。身体の痛みも綺麗になくなっているが、それは治癒ではなく思考を阻害する痛みというファクターを抑えているだけだ。これでは自分の身体の限界も分からないままに使い潰してしまう。私が自分をすりおろしながらここの人々を殲滅して共倒れになることを連中は望み、事実ほとんどそうなった。
だけど私はまだ死んでいない。かろうじて。任務を達成した私は帰ることができる。あの毒と欺瞞の渦巻くビンガムキャニオンの、やつらのコロニーに。
小さく身動ぎをすると、かすかにアクチュエータの音が唸る。未だ私の制御下にある尾と側腕は、機械で出来ていた。なんて皮肉。存在そのものからすべてが嘘で塗り固められていたマキナ・イクスの、「異星人の兵器を私が手に入れた」というその言葉だけはどうやら真実になったらしい。
プロワリアの顔の隣にあった顔を思い出す。副頭のあの無機質な目が瞬きをするときに聞こえる奇妙な音もまた、機械の音だったことが今ならわかる。彼女もまた私と同じく、無自覚な捕虜だったのだ。
──私は弱いね。だって、いつだって引鉄を引けずにいる気がするんだもの。
自嘲と諦観の色が濃い彼女の声が、頭の中にリフレインする。彼女は自分を弱いと評したが、そうではなかったのだ。認識を上書きされ、偽りの役割を与えられてなお、プロワリアは殺すということがどういう意味を持つのかをちゃんと理解していたんだろう。
ああ。奴らへの憎しみをいとも簡単にすり替えられてあっさり引鉄を引いた私と違って、なんて、なんて──強い。
私の祈りなんかなくても、彼女はちゃんと天国に行っただろう。やさしいプロワリア――ううん、きっと違う名前のあなた。もしあなたがまだ天国からこちらを見ているのなら、どうかもう少しだけ私を見ていて欲しい。あなたの最後の問いへの答えを、私はこの身で示すから。
幾度も投げかけられたどうして、という言葉の意味が今ならわかる。誰も敵ではなかったからだ。私が殺していたのは、私が殺すべき相手ではなかったからだ。
美しい星空の下で銃口を降ろした、赤いレンズのひと。
最後まで引鉄を引けなかった、やさしいあなた。
最後に口づけをくれた、愛しいひと。
騙されていた。でも殺したのは私だった。家族を殺されて、友達を殺されて、家を、居場所を奪われて。そうして膨れ上がった怒りと憎しみを奴らは利用しただけなのだ。私はなんて愚かで、連中の何と悍ましいことだろう。
恐怖と迷いが消えた思考の底には、今も冷たく憎悪の炎が燃え盛っている。まだ死んでいない私にくべる燃料は、まだ残っている。だから同じことをしよう。ジェーン・ウォーレンの居場所を破壊し尽くした私のように。
できるはずだ。だってあの場所では、私は今もマキナ・イクスなのだから。
* * *
肩に埋まったままの弾丸を取り除き、一通り手の届く部分の手当てをして薬品棚から見つけ出してきた人口血液を輸血しながら、私は机の上に置かれた血塗れの青いチョーカーを見つめた。バックルを嵌めこむと、インジケータライトが小さく灯る。ティモシーに撃たれて壊れてしまったと思っていたのだが、どうやらロックが外れただけだったらしい。
私が殺していた人々の言葉を理解できることを疑問に思わなかったのは、このチョーカーに言語翻訳の機能が搭載されていると説明を受けていたからだ。識別票の機能も併せ持つというこの機器を、あの施設では誰もが身に着けていた。恐らく、これには言語を含めた認識を上書きする機能があるのだろう。まあ自己認識まで上書きされていたのは人類側だけなのだろうけれど。私に与えられた認識錯誤機能という嘘は、ある意味では真実だったわけだ。錯誤されていたのは、周りではなく私だったと言うだけの話で。
騙すには言葉が必要だ。私がマキナ・イクスと同じことをするためにはこのチョーカーに頼るしかない。だがこれを付ければ私はふたたびジェーン・ウォーレンを失ってマキナ・イクスに戻ってしまうのだろう。この拠点の内部構造など一部の記憶は限定的に解除されていたようだが、マキナ・イクスは基本的にはジェーン・ウォーレンの記憶を持ってはいなかった。今の私はマキナ・イクスの記憶を持っているが、認識がマキナに上書きされた時、ジェーンである今の記憶を持っていけるかは分からない。記憶のマスキングは人格に依存するのか時系列に依存するのか……こればかりは賭けるしかないだろう。
バックルの横の小さなボタンを押し込むと、それはぱちんと軽く外れた。今までがどうだったかは分からないが、恐らくこれは自分で外すことができる。問題はマキナにどうやって外させるかだ。私はこの首輪じみたチョーカーが嫌いだったが、これが自分の平衡感覚を司っているという刷り込みによってこれを外そうとは思わなかった。もしマキナがジェーンの記憶を引き継がない場合、私はマキナを説得する必要がある。
私は私の上に薄っすらと漂っているマキナ・イクスに問いかけた。マキナは説得に応じるか? 私は答える。応じない。少なくとも1回では。
私は表紙にクレヨンでたどたどしい恐竜の絵が描かれたノートをめくった。ごめんねロニ、少しページを分けてね。何も書かれていないページを破り取る。そうして私はペンを手に取った。




