第10話 爆ぜよ鼓動、歌えよ絶望
スホーカさんの手が、私の腕を掴んでいた。がちん、と何かが頭の中で噛み合う音がして、混濁していた思考が一気にクリアになる。
「私に触るな!」
私はそう怒鳴って手を振りほどいた。腕から手の感触が消えて、牡鹿を思わせるしなやかな足がわずかなたたらを踏んで後ろに下がる。
「大丈夫、マキナちゃん」
甘く低い、穏やかな声が私に尋ねた。ふと我に返る。……そうだ、これはスホーカさんだ。反射的に沸き起こった煮え滾るような拒絶の感情に理由を見出せなくて、一瞬頭が冷えかけた。だがいつもとまるで変わらない理知的なで穏やかなその目に、再びふつふつと腹の底に怒りが滾り始める。
「……大丈夫に見えますか、これが」
私は低く唸ってデッキの床を示した。そこは無残に転がるプロワリアの身体と、私の吐き散らした吐瀉物で酷い有様だった。
そのすべてに一瞥もくれず、スホーカさんの目はただ私だけを見ている。硬質な音が響いて、水晶のような針が一本、私の足元に転がった。鬣をかすめた銃弾の軌跡を追うようにちらりと背後に一瞥をくれてから、琥珀色の目が私の背中のアサルトライフルを見た。
「それ貸して。ヒモモカトのとこに行ってな、マキナちゃん」
「誰が」
私は血混じりの唾と共に吐き捨てる。冷静さの薄膜は、頭の中身が噛み合った時に消え去っていた。胸の真ん中では、心臓が爆発しそうな鼓動を刻んでいる。どこか曖昧だった意識の焦点は、今やきっちりと憎悪に焦点を結んでいた。
弾薬箱を蹴り飛ばすように開けると、マガジンをいくつか引っ掴んでポーチの合間に無理やりにねじ込む。首に巻いた防弾布を引き上げようとしたところで再び喉元を違和感が駆け上がった。口に押し当てて抑え込もうとした手の合間からぬるくどろりとしたものが溢れ出し、グローブをしとどに濡らす。たまらず何かの塊を含んだくろぐろとしたそれを吐き出せば、粘性の雫が青空の輝きを宿す鬣に跳ね跳んだ。
ぼたぼたと雫をこぼす唇を湿った手の甲で拭って防弾布をゴーグルの真下まで引き上げる。強い死の臭いに麻痺していたはずの鼻が濃い血の香りを吸い上げて、再び吐きそうになったがそれは何とか堪えた。ぬるつくグローブでデッキの手すりを握る。武装特急を追走する装甲車を睨みつけてデッキから身を乗り出した私の襟首を、スホーカさんが掴んだ。
「何する気。ダメだよ」
「離して。このまま引き下がれるもんか」
私を掴むスホーカさんの鋼のような腕に、強靭な尻尾を巻き付ける。この腕を引き千切ってでも奴らを殺しに行くつもりだった。背後からみし、と骨の軋む嫌な音がする。それを打ち消すようにざざ、とインカムからノイズ交じりの声が流れ出た。
『いいよ。行かせてやれ、スホーカ』
「……ヒモモカト。いいのか?」
『ああ、構わん。──よぉく視ておいてやれよ』
わかった、と穏やかに応じる声がして、襟首に掛かっていたテンションがなくなる。なんだか良く分からないが、行ってもいいことになったらしい。ヒモモカトさんもたまには役に立つな。
激しい憎悪と戦闘の高揚、殺しへの昏い喜びが混然一体となって、胸中をタールのように粘つきながら渦巻くのを感じる。スホーカさんの腕に巻きつけていた尾をするりと抜き放って、私はデッキの外に身を躍らせた。
ちり、と首筋に殺気が突き刺さる。私に向けてばら撒かれた銃弾を尾と側碗で弾きながら、乾いた大地に転がるように着地した。地面を抉った銃弾と自らの身体が舞い上げた土埃がもうもうと舞う。土埃で濁ったゴーグルをぐいと拭って視界を確保すると、身を低くして走り出す。
(今みたいな時、尻尾じゃなくて手が出るんだよね)
青空の下で、まだ血に濡れていないプロワリアが私に言った言葉が脳内にリフレインした。ありがとうプロワリア。あなたのおかげで私は今、意識して尾をうまく扱える。
硬い外皮に覆われた尾と側腕は銃弾を通さない。戦術ゴーグルが拡張視界で示す相手の射線を遮るように尾を振り回して、私は高く跳躍した。
じりじりと武装特急の車両へと距離を詰めるように追走してきていた装甲車の前面に飛び降りる。ブーツの先についた鉤爪が噛みつくように強化ガラスに食い込んで、白い蜘蛛の巣状のヒビを走らせた。
「は!?」
装甲車の背を開くように設えられた銃座の、その銃口よりも奥に瞬時に肉薄した私の姿に、"人類"が悲鳴じみた驚愕の声を上げる。そいつがサブウェポンを取り出す前に側腕でその首を鷲掴むと、一息にそれを握りつぶした。喉から絞り出されたかすれた音と頸椎の折れる音が混ざり合って、ひどい仰角を取った頭部がぶらんと揺れる。尾で横薙ぎに殴りつけると、ぐらりと傾いで落ちていった身体が地面に叩きつけられた拍子に、わずかな皮だけで繋がっていた首が捥げてあらぬ方向へと転がっていった。
『アンディ!? ざっけんなクソったれの異星人め!』
『クソが! さっさと振り落とせって!』
罅の入ったフロントガラスから漏れ聞こえる"人類"の声は、チョーカーに変換されて理解できる言葉で私の脳を揺さぶった。クソったれの異星人だと? そりゃお前らのことじゃないか。
フロントガラスと装甲の隙間に、鋭く研がれた側腕の先を捻じ込む。めぎ、めぎと鋼鉄の装甲が拒絶して泣き叫ぶかのような音を立てて軋んだ。
『おいウソだろ』
ハンドルを握っていない個体が、歪んで広がる隙間へ向けて銃口を向ける。その指がトリガを絞るよりほんの少し早く、側腕が前面の装甲諸共フロントガラスを引き剥がした。ガラスの表面から剥がれ落ちた破片が陽光を浴びてきらめきながら装甲車の中に降り注ぐ。白く濁ってたわむ分厚いその塊を、勢いをつけて車内に叩きこんだ。ひどく損傷しながらも防弾ガラスはその役割を果たし、破られた装甲の隙間に向けて放たれたはずの弾丸もろとも車内の二体を強打した。
狭い車内でなんとかそれを跳ね除けようと足掻く身体を、尾で諸共刺し貫く。白濁は一瞬でくろぐろとした粘性の液体に染め上げられ、昏い悦びが胸を満たした。執拗に、ブーツの底で動かなくなった個体を踏み付ける。
制御を失った車体が激しく傾いだ。握る者がいなくなったハンドルに尾を巻き付ける。側面の装甲に弾丸が跳ねて火花を散らした。クソどもが、味方の車両だぞ。
ガタガタに歪んだ窓枠を両手で掴んで、側腕で血塗れの防弾ガラスを引きずり出す。そいつに身を隠して、尾を巻き付けたハンドルを思いっきり切った。死体の足でアクセルはべた踏みになっている。追走していた仲間の装甲車の横腹に向かってトップスピードで突っ込んで行く血濡れの棺桶のハンドルから、するりと尾を解き放った。間髪入れずに尾と足にバネをためて跳躍する。
派手な音を立てて、2台の装甲車は激しく衝突した。銃座で弾を吐き出し続けていた機関銃に射手が顔面から突っ込み、銃撃がぴたりと止む。
側腕に掴んだままの防弾ガラスの塊を、私は飛び降りざまに横薙ぎに投げ飛ばした。銃座にいた個体の頭の上半分が果実のように轢き潰されて、下顎だけが残る。だらしなく舌を垂らしたそいつの襟首を掴んで銃座から放り出すと、ぎゅっと身体に尾を巻きつけてその中へ滑り込んだ。
怨嗟の声と共に銃弾が私を襲う。だが尾の硬い外皮はその全てを弾き返して、呪いの声を絶望じみた絶叫へと変えた。
被害者のように叫ぶその声に、精神の表面が毛羽立つように逆だった。側腕を伸ばして首を掴む。一息に握り潰した先程とは逆に、ゆっくりと時間を掛けて力を込めた。下半分だけが見えている顔が赤く、次いで紫へと変じていく。絶叫はかひゅ、と空気がわずかに漏れる音に変わり、身体が激しく暴れて両の手が虚しく側腕の硬い外皮を引っ掻いた。
『うへ、えげつないねぇ』
インカムから聞こえてくるざらざらとしたヒモモカトさんの声は、若干引き気味だ。蚊帳の外から投げかけられるような調子のその声に、戦太鼓のように激しく胸を打つ鼓動がより一層の熱を帯びた。
その拍子に首を握る側腕に力がこもり、ふっと抵抗が止む。握り潰した頸椎を放り出して、私は据わった目で運転席を覗き込んだ。運転手は衝突の衝撃で気を失ったようで、ぐったりと力の抜けた上体をハンドルにもたせ掛けている。
赤いレンズを嵌め込んだヘルメットを、運転手の頭から取り去る。ぴたぴたと冷たい尻尾の先で頬を何度か叩いてやると、閉じられていた瞼が震えてぼんやりと目が開いた。抜け殻のように意思の光がない目がゆっくりと動いて、生命のない肉の塊と化した仲間と私を交互に見る。濡れた瞳にみるみるうちに憎悪と絶望の色が渦を巻いた。
そいつは引き千切るようにベルトを外し、転がるように車外へと逃げ出す。荒れた大地に足を取られながら距離を取ろうとするその身体を、後ろから引き倒した。情けない悲鳴を上げて助けを請うそいつの胴に尾を巻きつけて、私はその身体を高く掲げる。他の"人類"達から"それ"がよく見えるように。
側腕で足を一本掴んで、一息に引きちぎる。ビンガムキャニオンに近付くにつれて翳り始めた空に、絶叫が響いた。尾をひと振りして、それを投げ飛ばす。血と涙と絶叫を振りまきながら砂っぽい大地に落ちたその"人類は、這いずるようにしてなんとか仲間の元へ戻ろうと足掻き始めた。私は薄く笑んで、高らかに歌うように声を張り上げる。
「さあ、奪い返しに来い。全員殺してやる」




