2.02 選択
「美貴!ここにいるなら出てきなさい!!」
突如下から聞こえてくる大人っぽい女性の声。彼女のマネージャーか関係者だろうか。
「ヤバ、バレちゃった」
バレたと言う言葉の割には態度はあっさりとしている。そして渋々鞄にノートを仕舞うと、あっさりとした態度に反して重い腰を持ち上げるように立ち上がった。
「お兄さんごめんね、嘘ついちゃった。本当はもう準備もあるし行かなきゃいけないんだ。何かの縁だし次いでに病院まで連れてってあげるよ」
「そりゃどうも」
華奢そうな体に似合わない大きなカバンを背負う背中はとても苦しそうで、今にも倒れて消えてしまいそうに見えた。
「よっし、行こうかー」
ゆっくりと一歩ずつ階段を降りて行く姿が俺には心残りが見えてきた。逸れた道から元の真っ直ぐな道に戻っていく様な――、俺は座ったまま疑問を投げかける。
「つかお前何しに隠れてたんだよ」
「…分かんない。でも確かにお兄さんの言う通り寂しかったのかもしれない。周りを見て羨ましくなったのも――、寂しかったからかもねっ」
「美貴!いるなら返事しなさい!!いつもいつも突然消えて!!いい加減にしなさい!」
下から聞こえてくる大きな声は怒っているの心配しているのかよく分からない――、無理矢理手を引っ張ろうとしているのか、それとも支えようとしているのか、曖昧で気持ち悪い不快な声に聞こえてくる。
「はぁ、まるで魔法が解けていくシンデレラみたいだね」
「このまま戻って良いのか?」
「これ以上ここに居ると周りに迷惑かけちゃうしね、私ってお姫様だから。ちょっとの間だったけど楽しかったよ、何だか少しは楽になった気がする」
俺も立ち上がり鉄階段を降りて行く。
聞こえてくる下の声もそうだが、目の前から発せられる波打つような一言一言や矛盾した行動の一つ一つにも何故か同じ様な歪なモノを感じる。
「それにどうすればその寂しさが埋まるのかも分からないし」
「…」
「良し!ライブ頑張ろ!お兄さんも体調良さそうなら見てく?前の方は整理券がいるんだけど、特別に場所作るよ?」
彼女は自身に無理にでも言い聞かせているんじゃないのだろうか。しかしそれは鼓舞じゃない、無理矢理にでも心を洗脳させて前に進ませようとしている。
「…こっち向いて話せよ」
「えー?なんで?良いから行こうよ。私のライブ楽しいよ?アイドルだけど歌も凄い上手だし…、でもダンスはちょっと苦手かも」
「そんな事聞いてねえよ」
「えー、何で?お兄さんカッコイイから恥ずかしいよー」
「…いいから向けよ」
そんな彼女を見て何かをしてやりたいなんて傲慢な事を思った訳じゃない、そんな大層な人間になったなんて思わない。
だけど一般人とアイドル何て立場は関係なく、自分の気持ちに素直になって言いたい事があった。そうしなければ俺はまた余計な物を抱え込んでしまう、俺はまたきっと後悔をする。
「声が震えてんだよ、そんなんで人前で歌って踊れるのかよ」
「…」
「諦めてんじゃねぇよ!!」
――振り返る彼女の仮面は崩れ落ちていく。
「…だったらどうすれば良いのぉ?」
今直ぐにでも大粒の涙を流しそうな大きな瞳。唇を力強く噛みしめる様な悔しそうな表情を浮かべながら閉ざされた心の声を漏らす。
――人形の様に作られた仮面は崩れ落ち、彼女本来の気持ちが表に出た普通の女の子の表情に変わっていた。それはまるで俺自身の影、心の奥を映し出しいた。認めたくない弱さ、言葉にはできない負の感情――。
アイドルの求めているものがどうやったら手に入るかなんて分からない。でもうじうじして諦めるのは間違えてる。
俺が諦めないから――。藤枝美貴が諦めたら、俺の親友達が帰ってこない気がした。
「――逃げるぞ」
「えっ、でも」
「誰かと一緒なの?!写真とか取られたら大変になるから早く戻って来なさい!」
「うるせぇな…」
態とらしい汚く大きな足音と怒鳴り響いてくる厳しい声は藤枝美貴と言う存在に一つの選択を強いるように近づいてくる。ムカつく、だから大人は嫌いだ。
「下の奴が言ってるみたいに何度も逃げて、探そうとしてたんだろ?諦めんなよ」
「そうだけど…」
「きっとここで戻ったらもう手に入らないかもしれないんだぞ?」
「…でも本当に逃げて良いのかな、見つかるのかな」
「知るか、でも逃げるのは任せろ!!」
下にいるの女性には悪いが俺はアンタが気に食わない、会った事もないが正直嫌いだと思う。藤枝美貴との関係がどういうモノなのか知らないが、下の女性はきっと色々と間違えてる。
――弱々しい冷たく小さな手を掴み逃走が始まる。
痛む体を抑え込む――、しかし遊兎達を追うのに比べたら楽な事だった。
「でも!お兄さん体が!」
「舐めんなよ、こんぐらい余裕だろ!」
「え?こ、こら!待ちなさい!!」
再び階段を駆け上がって行きドアから出た。相変わらずの人混みについさっきまでは困っていたが、今度はそれが有利になる。
「取り敢えず屋外に出るぞ!」
「わ、分かった!!」
後ろを気にしつつ、歩く人混みを掻き分けながら真っ直ぐ進んでいく。
その先に答えがあるかは分からない。結果答えがなくても、ここで逃げる事には意味がある筈だと俺は思ったから――。
「あ?なぁ、あれ」
突き進む中、俺は一つだけ甘く考えていた事があった。
「え、あれって藤枝美貴じゃねぇか?」
「いやいや、まさかー。ライブあるんだぞ?」
「え、でもあの格好って…」
周囲からの視線が刺さり始め、不審な声がチラホラと耳に入ってくる。
「早速ヤバイな…!」
アイドルと言う存在の大きさ、自分でも実感していた筈なのにさっきまでの姿を見たら完全に忘れていた。
これ以上注目を浴びる前に何とかしないといけない。急いで握っていた手を一度外し、シャツのボタンに手を掛けた。
「っくそ!これでも被って隠れてろ!」
「え!でもその下って!待って待って!!ちょっと、ちょっとってば!!!」
「馬鹿か!着てるに決まってんだろ!!ほら!さっさと被れ!」
慌てて脱いだシャツを彼女に頭の上から被せる。
「ひゃー!」
これで頭から上半身位なら隠れるだろうが、いつまでもこの程度のその場しのぎじゃ無理がある。一刻も早くここから出て一度全く人混みのない場所へ隠れないと。
そうして二度と離さないように再び強く手を握った。
「…クンクン」
「おい馬鹿!!匂い嗅いでるんじゃねぇよ!!」
この状況で能天気に被ったシャツを必要以上に匂いを嗅ぎ始める。馬鹿なのだろうか、マジで止めて欲しい。恥ずかしい上に無償に気になってしまって走るペースに支障が出そうになってくる。
「お父さんの匂いがする。懐かしいような、臭いような…」
「だったら嗅ぐんじゃねぇ!深く被ってろ!」
「仕方ないじゃん?それに馬鹿って何度も言わないでよ。私の名前は美貴!」
「分かったから!無駄に気になるから止めろ!」
「待ちなさい!!隣りにいる男は誰なの?!」
馬鹿な事をやっている場合じゃない。急げ――、後ろからは着々と近づいて来ている声と足音が聞こえてくる。何でこんなに早く着いて来れるのか。そんな疑問も確認してたら更に追いつかれる気がして後ろを振り向けない。
「美貴!後ろの奴は誰だ?!なんでこんなに早い?!」
「私のマネージャー!!元陸上選手らしいの!!」
「馬鹿!!そう言うのは最初から言え!!!」
「ひぇー!そんなタイミング無いよ!!」
このまま進んで行ったとしても今の俺の体じゃ間違いなく追いつかれる。咄嗟に奥を見ると、大量の群れた稚魚の様なとんでもない数の人混みが出来上がっている十字路が見える。
「行くしかねぇよな…」
「お兄さん!やばいやばい!!キャーッ!!」
一番人混みが多そうに見えるこの十字路で曲がって俺達を見失わせるしかない。そこで見つかってしまったら俺が足止めして逃がすか、どっちも捕まってゲームオーバーだ。
「スタッフ!!貴方達は回り込みなさい!!」
「うわわわ!!人増えてる!!私こういう番組出演したことあるよ!!」
「馬鹿みたいに楽しんでないでこの先急いで曲がるぞ!!!」
「声でか!!それにまた馬鹿って言った!!お兄さんだってこんな状態なのに笑ってるじゃん!」
「うるせぇ!しっかり手を握って着いて来い!!」
「そんなー!でもどっちに曲がるの?!」
十字路のほぼ隙間の無い人混みの僅かな隙間から体を捻り込ませて入っていく。
「いっ…てぇな…」
そして体と頭を伏せながらゆっくりと慎重に進む。右か左か、それとも真っ直ぐか。どこへ進もうと結局は運、迷ってる暇なんて俺達にはなかった。最初から決めていた方向へ迷わず行くしかない。握っていた手を身体に寄せ、美貴の肩を抱いて行く。
「黙ってろよ、ゆっくり進むぞ」
「…」
「それぞれ分かれなさい!!見つけ次第無理にでも連れ戻すように!」
周りに溶け込みに静かに――、ゆっくりゆっくりと蹴られた小石の様に時間をかけて進んでいく。一か八か、周りにもバレるかもしれない。
少し震える肩を確りと抱いて、出来る限り体に寄せる。かなりの緊張感、人混みの数に俺の足まで震えてきそうになる。
暫くすると周りの声もかなり煩いが、分かりやすく怒鳴り上げる様な大きな声をマネージャーが出してくれているので段々と遠くなっていくのが分かる。
「もう少しだけ我慢しろよ、多分逃げ切れる」
「…」
俺の体で周りから守る。まるで宝石に傷を付けない様に大切に慎重に――。
「奥を探しなさい!!二手に分かれるわよ!!」
勝ちを確信して笑みが溢れそうになる、けどまだ我慢だ。
そうして十字路の人混みから追い出される様に抜けると、体に隠れていた美貴がもそもそと出てきた。
「っぷはぁ!息が止まるかと思ったよ!それにしてもお兄さん大胆だね」
「だろ?余裕だったな。こっちに案内図がある場所見つけたから急ぐぞ」
流石に後ろに戻るとは思いもしなかっただろう、声を張り上げてブラフを掛けておいて正解だった。これで数分間は大丈夫だとは思うがまだ安心は出来ない。周りには他にも関係者が彷徨いている可能性、そして何らかの強行手段を突然使ってくるかもしれない。
「え…ま、まぁいっか!」
「ん?行くぞ?それとシャツちゃんと被ってろよ」
「うん!」
若干の不安はまだあるが、何とかなるだろう。
これまでもずっとそんな感じでやってきたから、だから今回もきっと大丈夫――、の筈。
この逃走はきっと俺にとって重大な事になる予感がする。美貴を逃がす事ができれば、俺はこの先も自分の目的に負けずに立ち向かっていく事が出来ると不思議とそう思える。これは美貴の問題であり、俺にとってもやらないといけない事なんだ。
俺は落ち着きを取り戻した小さな手を、再び強く握って静かに走り出す――。
§§
俺達は急いで来た道をもう一度戻った。そして少し進んだ先に見つけた商業施設の案内図を見てみると、一番近い出口は先程の十字路を真っ直ぐ進んだ場所にあるらしい。
「うわー、どこの出口も遠いねー」
「仕方ねぇ、一回隠れるしかねぇな」
「その後どうするの?」
「もう一回さっきの十字路を進んでくぞ、きっとそれが一番だ」
「オッケー!んじゃ、レッツゴー!」
他に出口は無いかと見たが、ここからではどの出口も距離がある。この姿のまま歩き回っているのが一番見つかる可能性が高いと踏んだ。少しの間何処かで身を潜めて再びさっきの十字路に戻る事にしよう。
案内図の確認を済ませ、その裏にあった人の少ない多目的トイレに一度隠れる事にした。