2.01 似て異なる者
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――暗闇の中、深海に潜っている感覚が俺を襲う。奥深くから小魚の群れが泳ぐ様に沢山の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。その場から立ち上がり、後ろから続いて前に進んで行っても一向にその声の正体に辿り着けない。
聞こえてくる声は楽しそうな筈なのに、俺にとっては不快感を生む。
それでも、その声に俺は縋りつこうとしている。
「――!」
その中に混ざって一人、明らかに浮いた声が聞こえた。聞いた事のない、不快な靄を晴らしてくれる様な透き通った声。唯一手が届きそうな声なのに、どれだけ進んで行っても何一つ得られるモノが無い。
「――い!」
すると再び、背後から浮いた声の正体――。俺の背中を眩しい光が照らしている事に気づく。そして光は天使の様に上がった俺の肩を後ろから優しく抱え込む。
光は俺の足を止めようとしているのか、それとも俺と同じで何かを探していたのか。目的は分からない、しかし俺の冷たくなった体に温もりを与え、冷静さと落ち着きを思い出させてくれた。そして何かを気づかせてくれようとしている――。
「――おーい!」
どのぐらいの時間が経っただろうか、長い眠りだった気がする。体の痛みと誰に呼ばれるように目が覚め、顔をゆっくりと上げる。
「…ん?」
「寝てるのーー?!」
すると下から何か声が聞こえて来た。
「いてて…」
痛む体を支えながら手スリを持って真っ暗な鉄階段の下を覗いてみる、そこには一人の女の子らしき物陰がこちらに手を振っていた。
「おーい!これ君のー?」
目を凝らすとそこにはどこかで見た事ある様な気が、確りと見えないのに異様なぐらいの鮮明な輝いたオーラを感じる。
別世界の人間――。
亜弥や裕子もそこそこの周りを魅了させる何かを感じるがそれ以上。特別な人間特有の圧倒的なまでの魅力を感じる。
「…あ」
――見惚れていたのか、それともまだ体が弱っているのか、また意識が遠くにいってしまいそうになる。
「す、すんません!」
慌てて返事をしながら手すりを掴んでゆっくりと階段を降りる。同時に下にいた女の子の喋り声と階段を上がって来る小さな足音が聞こえてくる。
「危ないよー、人に当たったら洒落にならないぞー?」
透き通った少し低めの綺麗な声が狭い鉄階段に響く。それはまるで鉄階段の鍵盤をそっと――、細く綺麗な指で撫でる様に奏でられる美しいピアノの音色。荒れていた気持ちを落ち着かせてくれる様な美しい声だった。
「それにこれ画面はバリバリだけど修理すれば直せるよー、奇跡だね!」
声と足音で段々と距離が縮まっていくのが分かる。一歩一歩――、鉄階段を踏みしめる度に謎の緊張感が襲ってくる。そして俺達は丁度真ん中あたりで互いの顔を合わせた。
「こんにちはっ――」
――美しく完璧な美貌を持ち合わせた唯一無二の女の子は俺に笑顔を向ける。
ノースリーブの赤と黒が混じったチェク柄の服、そして同じデザインのフリルの着いた短いスカート。その衣装らしき服は体のラインが確りと出る様に作られており、服とスカートの間から出た腰は細く程良く鍛えられている。
美しい衣装、茶色の艶のあるショートへア、指先から光るネイル、鍛えられた細かい筋肉――、美しさを増す為の装飾の筈なのに、全て彼女が美しさを増大させている様に見えてくる。俺が今まで見た事のある人間の中では群を抜いて――、いや、一緒にしてしまう事すら痴がましい程整った見た目をした人間。
さっき見た画像とは全くの別人。別人と言うと少し語弊があるが、雰囲気やオーラ、それぞれの顔のパーツの出来が画像を遥かに凌駕している。――そう、階段差で俺の顔を見上げる彼女はついさっきまでスマホに映ったインターネットという大海で見た今話題の芸能人だった。
「――藤枝美貴…」
「おぉ?私の事知ってる?サインあげようか?特別だよー?」
彼女は俺の状態を見て気を使ったのだろう。躊躇なく落としたスマホを直接ポケットに入れてくる。
「ちょ、お、おい」
「物は大切に扱わないと、ん…?」
そして米粒よりも更に小さく整った人形様な顔でじっと見つめられ――、何故か困った顔をされた。
「も、もしかして失恋とか?ほらハンカチ貸してあげるよ」
「は?失恋?ハンカチ?」
「目――、涙出てるよ?」
「っ!!」
咄嗟に俺は右手の包帯で目を擦る、すると包帯には涙が滲んでいた。いつの間に涙なんか出ていたんだ。恥ずかしい――、自分でも何で涙が出ているのか意味が分からない。
「あー!ダメダメ、ちゃんとハンカチ使って!目にバイキンはいるから!」
「いや、大丈夫だから!」
「任せなさい、照れないの!ほらほら!」
「ちょい!っく…!」
俺の抵抗など無視して背伸びをしながら俺の目をハンカチで強く擦る様に拭いてくる。
この距離の詰め方で分かる、苦手なタイプだ。
「うわー、涙もだけど顔の怪我大丈夫?熱も少しあるみたいだし…。病院から抜け出してきたとか?」
「っおい!止めろって!」
手を振り払いたい――、だが階段で暴れて怪我でもさせてしまったら困るので抵抗せず受け入れるしかない。すると抵抗する事を諦めたのが分かったのか、頬に垂れた涙の跡も確りと拭いてくる。
「よしよし、カッコいいのに怪我で勿体無いよ。体は大切にしないとね」
「…」
「こんなもんかな、上手に待てました。よしよし」
顔を拭く事に満足したのか、彼女は満足気な顔でサラッと流れる様に俺の頭を撫でてくる。当たり前の様にやるが恥ずかしくないのだろうか。
「くそ…」
「ん?どうした?」
親にもそんな事されたのがいつか忘れる程なのに、熱くなる顔を咄嗟に後ろを向いて隠してしまった。
「おいっ、なんだよ」
彼女はその場の階段に腰を下ろしながら、同時に俺の手を握ってきた。
「よいしょ、丁度良いし暇つぶしに付き合ってよ。その体じゃ立ってるのもしんどいだろうし。病院に連れてってあげたい所だけど、私も今は外には出れないから。ゴメンね」
俺も握られた手に導かれるように自然とその場に腰を下ろされる。
すると後ろから見える小さな肩に少し掛かった首元が隠れるくらいの茶髪のショートヘアからフワッ――とした甘い香りが鼻に漂ってきた。見た目は俺よりも子供っぽいのに、少しだけ大人な雰囲気まで漂わせてくる。これが違う世界の人間なんだと改めて実感する。
超有名大人気アイドルと、ただの平凡一般人が二人きり。それにその一般人の俺は大人気アイドルの事をほぼ知らない。感じた事の無い謎に緊張感のある空間に少し違和感を感じてしまっていた。
「…あんた、それよりこんな所にいていいのかよ?それに初対面の男だぞ、アイドルが良いのかよ」
「ライブの事ならまだ当分は時間じゃないし大丈夫だよ。それにお兄さん見た目の割に優しそうだし、その怪我なら私でも勝てたり!?てかそれよりさ!君その制服って水野高校だよね?何年生?」
「二年だけど…」
彼女は座りながら後ろにいる俺の制服を触って素材や質感等を確認する。そんなに珍しいのだろうか、興味津々で見てくるが俺からすればアイドルの格好の方が珍しいのだが。
「へー!じゃあ年は私の一つ上なんだ!高校かー!良いなー!」
「良いなーって、通ってないのか?」
「通信なんだー。こう見えて忙しいからね。てかシャツだけどブレザーとか学ランとかないの?」
「ブレザーあるけど今日は着てない、流石にちょっと寒いけどな」
「へー、着なくて良いんだねぇ。見てみたいなぁ…。あっ――、そうだ!」
そう言って彼女は突然に背負っていた大きな鞄を降ろし、その中から自慢げに一冊の教科書を取り出した。
それは俺が去年少しだけ見た事のある教科書だった。
「こういう暇な時間に勉強したりするの、こことか分かる?」
「…あー、まぁ。うん、うん。なる程な」
「絶対に分かってないよね、ウケる。絶対に私より勉強してるんだから当たり前のように分かってよー」
そのカバンから更にノートが取り出される。後ろから開かれたノートを覗いてみるとそこには英単語がビッシリと細かく書かれており、色ペンで綺麗に纏められていた。
「どう?高校生っぽいでしょ?」
そんなノートとは真逆のいつ買ったか分からない真っ白な新品のノートをふと思い出す――。
「確かに…」
毎日遊んでばかりの俺がどれだけ勉強をしてないのか思い知らされ、悔しくも少しだけ感心してしまった。
そして彼女はその取り出したノートをじっと見つめる。暗記でも始めたのだろうか。
「英語は歌詞とかでも出てくるから得意なんだー、得意な教科とかある?」
「ない、勉強嫌いだからな。そもそも俺が勉強好きに見えるか?」
「っふふ、全く見えないね。じゃあ普段は学校で何してるの?」
「遊んでる」
俺の素晴らしい言葉にノートを真剣に見ていたであろう顔を振り向かせ、口を開けて驚いた顔を向けてくる。
「え…、勉強する場所だと思ってた…」
さっきからリアクションがオーバーだな、何がそんなにおかしいのか分からない。殆どの学生がそうだと思うんだが、アイドルって世間知らずなのだろうか。
「勘違いだな、学校ってのはどれだけ勉強をサボるかってのが一番の勉強なんだよ。お前は社会人だから分かるだろ?社会に頭の良さなんて関係ないって」
「そうかもしれないけど…ホントかなー?お兄さんやっぱり悪い人にみえてきたかも。なんてねっ」
ニコニコと広角を上げながらクシャッとした誰もが魅了させられる完璧でお手本の様な笑顔を向けられる。流石アイドルだなと更に感心してしまう。
「でもチョットぐらい分かるでしょ?見てみてよ!お兄さんも勉強になるかもよ?」
「いや、別に間に合ってるから」
「良いから!見て見て!凄く分かりやすくまとめてあるんだから!」
俺の嫌がる姿など気にもせず、手に持つノートを広げて無理矢理顔に近づけて見せてくる。
「分かった、分かったから…」
仕方なく見てみると確かに綺麗に纏めてあって見やすいとは思うが、それでも俺の頭は追い付いてこない。
「よし、じゃあね――」
そして数分間の特別講師、トップアイドル藤枝美貴先生による勉強会が勝手に始まった。
「まずは英文には主語と動詞が必要でね。人を表す主語これで、動詞にはビー動詞と一般動詞が――」
長い呪文の様に唱えられる説明、頭の中では沢山の言葉の文字が無数に浮かぶ。そして理解しようとその文字を組み合わせていくが、何一つ当てはまる事はない。
段々と余計な事を考え始める。一生懸命説明してくれているが、彼女にその知識は必要なのだろうか。いくら歌詞に英語があってもとても簡単な英語だろうし、周りに聞けば幾らでも教えてくれるだろう。そもそも英語なんて理解して歌っても意味なんてあるのだろうか。プロにこんな事聞くのも失礼だと思って流石に聞きはしないが不思議だ。
――そして数分の間に千教えられても頭に入る知識はは一も無かった。
「へぇへぇ」
「あ、ごめんね。流石に分かるよね?馬鹿にしたつもりじゃなかったんだけど…」
「まぁ…?」
「え?!ヤバいよ!これ中学生のレベルだよ!君本当に高校生?」
教師や亜弥達に無理矢理勉強させられるのが嫌いな俺にとってはこの時間が苦痛のはずだった。教え方が分かりやすいとか、興味が湧く様な事を教えられようが、誰が教師だろうと勉強が嫌いな事は変わらない。
「それで、ビー動詞の種類が基本はこの主語の後に来るの。それで――」
しかし一生懸命嬉しそうにノートを見せてくる可愛らしい姿は勉強を教えるのではなく、まるで大切な物を嬉しそうにみせてくる子供の様だった。さっきまでの作られた笑顔じゃなく、本来の彼女の笑顔だという明るさを感じる。
そんな友達と楽しく話をしているような感覚は不思議と俺を夢中にさせ、感じていた緊張感もいつの間にか無くなっていた。
そうしていつもなら寝てしまうような話だったが眠気など一切起きず、彼女が教える事に満足するまで全てを聞き終える事が出来た。
「――お兄さん少しは分かった?途中笑ってたように見えたけど…、それに私このノート人に見せたの初めてだし、初めて教えたから下手だっかもしれないけど…」
「あー、まぁ少しは。勉強になったよ、ありがとうな」
「え…!、いや…うん!こっちこそありがとう!」
一瞬時が止まった様に固まり、動いたと思ったら慌ててお礼を言い返される。何故頬を染めているのか分からないが意外と充実した時間だった。
話している内に最初に感じた苦手意識もなくなり、写真を見た時の印象も変わっていた。
「て、て言うか!お兄さんはそんな身体でここに何してたの?本当に失恋とか?」
「…」
「マジ?それなら本当にごめんなさい。タイミング悪かったよね」
「ちげぇよ。人探してたんだ」
「え?その身体で?凄いね」
「…大切な奴だったんだよ。この怪我もそいつのせいだけど」
そう思えなければどれだけ楽だったか、だからこそムカつく。二人にも、自分にも、周りにも。
「大切な人かぁ…、喧嘩してまで探すって事は大好きだったんだね。――羨ましいな」
「羨ましい?世間から見たらお前の方が羨ましいだろ。俺達みたいな凡人には無いモノを沢山持ってる、俺からしてみれば未知の世界で楽しそうだけどな」
「もちろん楽しいけど…、無い物ねだりだよ。友達なんて一人もいない、恋なんてした事もない、何が普通がなんて分からない。それに意外と私って無い物ばっかりだしね。まぁそれでも全然平気なんだけどね」
何かを遠くに見つめる様に――、先程までの明るかった綺麗な声は楽器の様に分かりやすく、何かを隠すように急にワントーン低くなった声が聞こえてきた。
「平気ねぇ…、友達が欲しいのか?」
「…友達って言うか何だろう。分からないけど、同い年ぐらいの子達を見ると色々思うの。なんで私はあの子達を見て羨ましく思うんだろうとかって。君もそう、私には大切な人なんていないから。でもそれは私には手に入らないものだって分かってるんだけどね」
そう言いながら彼女は再び前を見てノートと向き合う。藤枝美貴の放つ幾つかの言葉には聞き覚えがあった。認めたくない思いを隠す様な辛くて苦しくて苛ついてしまう、そんな言葉に俺は聞こえた。
その一瞬――、何故か藤枝美貴と言うアイドルの後ろ姿は俺達と同じ一人の一般人に見えた。さっきまで感じてたオーラは消え去り、無知で無垢な孤独の少女へと姿は変わっていた。
「そんなの…分かんねぇだろ。もしかしたら手に入るかもしれないだろ」
「…ずっと見つかんなかったから、もう諦めたんだ」
「…」
前までの俺には他人の気持ちなんて微塵と分からなかったかもしれないが、大切なモノを失って初めて少しだけ分かる。今まで学校で感じた事の無かった周りとの違い。いつも隣に居た二人の親友がいなくなり、周りは当たり前のように友達と楽しそうにしているのが羨ましく――、そして寂しくなった。
そしてそんな思いをいつの間にかしてしまっていて、体と頭が勝手に動きだす自分に苛つきと辛さを生む。
俺にはアイドルとして生きてきた藤枝美貴の今までの苦労や悲しみなんて物は分からないが、少しだけ共感してしまう物を感じた。そして苛つきまでもが嫌にでも流れてくる。
「――お前も寂しいんだな」
「え――?」
その瞬間、二人だけの共有された暗闇の世界を壊す様に――。
下のドアが強く開かれる音がした。
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