1.01 虚無
「ッチ、まだ痛ぇ…」
「馬鹿ねぇ、普通喧嘩でここまで酷くなる?」
「馬鹿は遊兎だ!!」
「はいはい、何が原因やら。その馬鹿は今頃亜弥と何か良い事でもしてるのかしらねー」
「やめろ!!虫唾が走って気持ちわりぃわ!!」
壮絶な死闘を繰り広げて約一ヶ月半後――、ガヤガヤとした耳障りな会話が飛び交う教室の中。目の前に立つ松戸裕子は椅子に座る俺の顔に貼られた湿布、そして制服の長袖シャツから出た包帯が巻かれた右腕を見て呆れる。
裕子は椅子にだらしなく座る俺の前席へ短いスカートから出る白い足を組んで座る。そしてブレザーのポケットに入ったスマホを取り出し、ネイルの着いた細い指で器用に弄り始めた。
「それで、どっちが勝ったの?」
「俺だ!!しょうもない事聞くんじゃねぇ!」
「へー…」
興味無さそうに聞く質問に更に苛つきを感じる。俺の怒りに満ちた力強い言葉に裕子はスマホから俺の方へ目を流した。その目はボロボロの体を下から舐める様に見る――、そして溜息をつかれる。
「はぁ…、なんでそんなイライラしてるのかしら」
「知るかよ。あーー!!何か無償に苛つくなぁ!!」
「ほらほら、これ見てみ」
「あ――?」
こちらに向けられたスマホに顔を近づけて覗く。するとそこには消えた馬鹿からのメッセージが届いていた。
――加賀遊兎・俺があんな雑魚に負けるはずねぇだろ。あの馬鹿死んだか?生きてたら伝えとけ、次あったら絶対に殺す。
「殺す」
約一ヶ月半前の殺意が再び湧き上がる――。
冷静な殺意を心に潜ませ、席から立ち上がり廊下に向かおうとした。
「ちょい待ち、どこ行こうとするのよ。だから馬鹿なのよ」
「うるせぇな。連絡来てるって事は場所分かるだろ、着いて来て教えろ」
「知らないわよ。まぁ知ってても絶対に教えないけどー」
「何で」
「…もぅ本当に馬鹿。こういう所はまだ遊兎の方がマシだったかも」
仕方なく再び席に座る。そして苛つきを抑えるように踵を何度も鳴らす。
「カツカツ煩いんですけど。キツツキか何かですか?耳障りなんで他所でやって欲しいんですけど」
「お前から来たんだろ、文句あるなら近寄るな」
「あんたねぇ、自分が何したと思ってんの?」
「ただの喧嘩だろ。お前が煩ぇな、黙ってろよ」
「――いい加減にしなさい!!!」
突然の立ち上がり放たれる大砲の様な裕子の大きな怒鳴り声に、騒がしかった周りは一瞬にして静寂に包まれた。
「どれだけ私達が心配したと思ってんのよ」
「…」
「急に病院に運ばれたと思ったら一週間も意識をなくして、そこから一ヶ月以上も入院して。体の状態を聞いたら骨が何箇所も折れてるって聞いたのに、勝手に外出しては体を壊しかけて。これを馬鹿と言わずになんて言うのよ。たまたま異常な位に体が頑丈で回復が早かっただけで、本当にいい加減にして。もうあんな思いするのは嫌よ…」
裕子は下を向いて震える拳を握る。長いストレートの金髪が前に下がり顔は見えないが、相当心配を掛けていたのだろう。心配されていた事にもムカつくが、その姿に流石に申し訳無さも多少なりと込み上げてくる。
だが――、それでも煽ったのはお前だろと小さな思いが心の隅に生まれる。余計な言葉を発するか、妥協して素直に謝るか葛藤してしまう。
「…」
「なにか言いなさいよ、この糞ったれ。一番苛ついてんのは私なんだけど、それも分からないなら本当に一回死んだ方が良いんじゃないの?このクズ、死ね」
そう言いながら髪の隙間から見える裕子の目は少量の涙を浮かべ、一ヶ月前の俺達を彷彿させるような猟奇的な雰囲気を醸し出す。
流石に言い過ぎじゃないだろうか。その言葉数で胸が痛くて死にそうなんだけど。
言い返すか考えた末、これを言葉にすると目の前から腰の入った正拳突きが顔面に飛んできそうなのでそのまま心の隅に隠しておいた。
「わ、悪かった。取り敢えずゆっくり座ってくれないか。ま、周りが見てるから。な?」
「煩い!!!!本当に悪いと思ってるなら最初に言う事があるでしょ!!!」
裕子は白く小さな顔を座っている俺を更に縮こませる様に近づけて怒鳴り散らかす。キリッとした鬼の様な怒った目には今にでもやってやるぞと言う殺意を感じる。その姿に必死に思考を回すが俺にはその答えが分からず首を傾げて応える。
「…?」
「ゴメンでしょ!!!馬鹿!!!!」
「あぁなる程な!ゴメン!ゴメン!すまなかった!この通り!」
包帯を巻いていない左手を上げて何度も頭を下げる。正直喧嘩した事に反省はしていないのでその場しのぎだが、謝っとけば大丈夫だろう。
「は?何その適当な感じ?本当に思ってんの?だったら謝罪の気持ちを行動で示しなさい」
「え?何で?」
「何でも糞もない!獏!!今日の帰り付き合いなさい!」
「は?」
何故そうなるのか意味が分からない。そんなどうでも良い事よりも遊兎と亜弥の行方を俺は探さないといけないのに。遊兎には今度こそ死ぬまで殴り続ける、亜弥には一つの聞かなきゃいけない事がある。
「いやいや、そんな事より――」
「これ以上文句言ったら本当に殺すわよ。遊兎とあんたがまたやり合う前に私がこの拳であんたを沈めるから、このろくでなし」
黙って俺達を見ていた周りの生徒はその言葉と共にサッと目を逸らして再びガヤガヤと会話を始めた。俺は背筋が凍る様な言葉に渋々了承し、黙って椅子に縮こまる。
――仕方ないのでスマホをポケットから取り出し弄り始める事にした。スマホのロック画面には俺と遊兎が見るからに作られたぎこちない笑顔を浮かべ、亜弥は誰から見られても可愛いと言ってもらえる天使の様な笑顔を浮かべながら三人で肩を組む写真が写っている。何でこの写真をロック画面に設定したのか、今思えばこの設定にした奴を無理矢理にでも止めれば良かった。
「あー…くそ…」
イライラを通り越したのか、こうなったらもう何も感じなくなってきた。
メッセージの画面を開き、河西亜弥と検索する。検索結果、連絡は無し。亜弥からの最後の連絡は一ヶ月半以上前、何の変哲も無いくだらない会話。ずっと自分から連絡するのを避けていたが仕方なくスマホに新しく文字を打ち込む。
――硲獏・今どこに居る。馬鹿と一緒か?
「亜弥に連絡?」
どのタイミングで何で怒りが落ち着いたのか分からないが、裕子は再び椅子に座ってこちらを向いていた。
「あぁ、どうせ一緒にいるだろうからな。さっさと連れ戻さねぇと」
「そうだろうけど、何で亜弥も関係してるの?それに喧嘩する事はたまに合ったけどここまで酷いのは今まで無かったでしょ」
「さぁな、何でも良いんだよ。男同士の喧嘩に理由なんて聞くんじゃねぇよ」
「はーい、出た出た。三人だけの謎の空間。いっつもそう、いっつも私達は置いてけぼりですねー。あー寂しいなー、うざいなー、きもいなー」
「そんなもんねぇから、止めてくれ」
そんな空間を作り上げてる気は更々無いのだが、周りからはそう思われているらしい。小さな頃からの幼馴染みならではの距離感があるのかも知れないが、考えた事も無いし遊兎と同じ空間に居ると思われているのは不快だった。
「あ!そう言えば!」
「何だよ、さっきから次から次に。情緒不安定か」
「あんたが休んでる間に溜まってた課題とかが色々とあってねー。例えばこの日本史のやつとか、偉人を調べてこいってやつでさー。仕方ないからあんたの為に私もまだやってなくて、仕方ないから一緒にやってあげても――」
聞きたくない話が終わる前に机の横に掛けられた肩がけの鞄を急いで取る。椅子を腰で後方へ飛ばし、風を切るように廊下に飛び出た。
「待ちなさい!」
「んじゃ、学校終わったら下駄箱の前集合なーー!」
「もぉー!!初日ぐらい少しは安静にしてなさいよー!!この馬鹿ーーーー!!!」
後ろから響いて来る叫び声を無視して廊下を駆け抜けていると、まだ治りきっていない骨が体中に痛みを訴える。その度、遊兎に殴られた記憶が沸々と蘇ってきて仕方がない。そんなしょうもない痛みにいちいち反応していると勝った筈の遊兎に負けたような気がして苛つくので、何事も無いように平然とした態度で廊下を駆け抜けていく――。
久々に来た学校は何も変わり映えは無く、いつも通りの日常だった。しかしそれは何故かとても退屈に感じ、周りに対して今まで感じなかった怒りみたいなものを感じて窮屈にも感じている。
廊下でくっちゃべったり、楽しそうに遊んだり――、生徒達はそんな日常を当たり前の様に楽しそうに過ごす。俺と周りの一ヶ月の差は何なのだろうか、答えは出ている様な気がするがその答えは気に入らない。他に明確な答えがあれば楽になるのに、一つの答えが思考を邪魔をする。
その答えを否定する様に無理にでも色々と答えを考えながら走っていると、目的の場所に到着した。立入禁止と書かれた看板を無視して階段を登り、少し重たい扉を片手に力を入れてゆっくりと開ける。
「うっ、ちょっとだけ寒いかも…」
そこに広がるのは雲一つ無い真っ青な空と唯一の太陽。まるで青の絵の具で塗り潰された画用紙に赤い雫が一滴垂らされた風景。何故だろう、俺の頭の中を否定している様だった。
十月、午前中の外はまだブレザーやセーターをまだ着てない長シャツ姿の俺にとっては既に少し肌寒いと感じる。
誰もいない屋上から柵越しに見える景色はジャージ姿に着替えて授業を始める直前の生徒達。校庭の真ん中で面倒臭さそうにして待つ生徒達を見下して優越感に浸っていると、一人だけ明らかに雰囲気が違う知り合いの生徒がぼけーっと空を眺めていた。
「――ん?」
「うぉ!やべ!」
何となく眺めていたらその知り合いと目が合った様な気がして咄嗟に身を潜めてしまう。特に隠れる必要は無かったのだが、裕子と一緒で会ったら会ったで後から面倒臭い気がしたので良しとする。
鞄を地面に置いてクッション代わりに座る。そして何気なく右手に巻かれた包帯を取ってみた。
「うおお、意外と凄いな」
包帯の中に眠っていた手の甲は赤黒く腫れ、大量の痣がまだ残っている赤く腫れ上がった右腕が徐々に顕わになる。左腕は既にそこそこ治っているが、流石に利き腕は使い過ぎたかもしれない。
そう思うと遊兎の腕や体、顔はどうなっているのだろうか。もしかしたら俺のパンチで顔面はまだグシャグシャになってるかも知れない。そう思うと何だか不思議と笑えてくる。
鞄に入ったウェットティッシュを取り出して蒸れた腕を優しく拭いていく。
「…」
病院にいつの間にか運び込まれていたのは、きっと倒れる直前で駆け付けた亜弥が救急車を呼んだのだろう。病院にいた時は考えが回らなかったが、遊兎はきっと亜弥の家に行って治療してもらったんだろうと今なら予測できる。だったら今も亜弥の家に遊兎がいるとは俺は思わない。亜弥の父親が幾ら俺や遊兎でも今回の件でそこまでしてくれるなんて事は絶対に無い。遊兎の家にも絶対に居ない。あんな状態の馬鹿息子をそんな都合良く家に入れる筈が無いし、本人も帰りはしないだろう――。
「だったら…って、俺は何でさっきからこんな試行錯誤してんだ」
一人で居た方が楽かと思ったがそうでもない、むしろ逆だった。再び包帯を巻き直す事に集中する事でこの糞ったれた思考を停止させる。そうして慣れた手付きで包帯を綺麗に巻き終わり、地面に寝転び鞄を枕代わりにする。
「あー、アホくさ」
空をゆっくりと飛んでいく真っ白な飛行機を見ながら、モヤモヤとした頭の中の物も一緒に飛んで行かないか何て事を考えていると段々と眠気が襲ってくる。まだ体に疲れが溜まっているのだろう、いつも以上にこの体制が楽だった。
「…ごめんねだって、何がだよ。意味がわかんねぇ」
どこかへ遠くへ飛んでいく飛行機を見ると少し心がザワつく。そうして少しずつ、飛行機と睡魔に導かれる様に意識がいつかの過去へと落ちていった。
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