書簡5:闇の卵
親愛なるお母様へ
ミヤゲは無事に生きて戻りました。ああ、今日は信じられないものを見て来ました。
お母様もご存じのとおり、地獄の谷の奥深く、あの毒の泉に湧き出ているのは、鉄の剣でも長く浸けておけば溶けてしまう恐ろしい熱水です。
現地に着いて錬金術師様が泉を杖でかきまぜると、底に沈んでいるドロリとした膿のような沈殿物が巻き上がり、気味の悪い白さに濁ります。
私は防護服を着ていたので判りませんでしたが、立ち上る湯気は腐った卵のような臭いがしていたそうです。
「ご領主様、この付近の硫化水素濃度は安全基準内です。こちらが泉の水の解析結果になります」
「硫酸系か……呪いは特に無いようだな。水銀は非検出、放射性物質と重金属は痕跡程度。ヒ素が比較的多いようだが」
「飲泉しなければ問題は無いでしょう」
「水温は?」
「源泉湧出孔では地球の単位で100度近いですが、平均としては43度前後です」
錬金術師様としばらく話をしたあと領主様は、
「よし、確かめてみよう」
と言うと、我々にしばらく後ろを向いているよう指示しました。
「もう良いぞ」
と言う声を聞いて振り返ると、なんと領主様は防護服を脱ぎ捨てて、腰に布を一枚巻いただけの姿になっていました。そして、
「ちょっと入ってみる」
と言うと、本当に毒の泉の中に入っていったのです。
私は思わず総毛立ちました。いくらなんでも、自分の体で毒性を確かめるなど責任ある立場の方がして良い事ではありません。
もう泣きそうな気分で、駄目です危ないです、そこからお出になってください、領主様に何かあったら私はお尻から串を刺されて姿焼きの刑になってしまいます、と必死で止めました。
でも、領主様は聞きいれてくれませんでした。
「いや大丈夫、成分的に危険の無い事は確認しました。この装備の防御力は『はがねのよろい』と同等だし、状態異常無効の効果もあるので『湯あたり』になる心配もありません。万が一の場合にも錬金術師殿が解毒や回復の魔法を使えます」
そう言いながら、領主様はずぶずぶと肩まで毒水に沈んでいったのです。
黃白色に濁った、もうもうと湯気の立つ水面にはもう首だけしか見えません。そして領主様は顔を歪ませ、おお、おおぅ、と呻き声をあげて苦しみはじめました。
「うむ熱い、こりゃたまらん、あ~~体が溶ける」
ああああ領主様が溶けてしまう、どうしたら良いの、とおろおろしながら錬金術師様のほうを見ましたが、平然としたお顔をなさっておられます。なぜそのように落ち着いたご様子でいられるのでしょう。
「う~~ん、これは効く。実に素晴らしい。皆も入るか?」
そう言いながら領主様が毒水の中から手をあげて、こちらに笑いながら手を振った時、私は自分がひどい勘違いをしていた事に初めて気がつきました。
領主様は毒性を試していたのではなく、毒無効スキルの訓練をしていたのです。戦闘職の方は自分の体をわざと毒にさらして、魔物の毒が効かない体を造りあげるといいます。そして、この泉の毒がその目的に素晴らしく良く効くと領主様は見抜いたのです。
一方で召喚士様は空間収納から食用卵をお出しになって、源泉の熱湯に浸けて茹で卵を作っておられました。しばらくして引き上げた卵は瘴気が染みこんで闇のような禍々しい黒色に変わっていました。
驚いた事に領主様達は、その卵の殻を剥いて、むしゃむしゃと食べてしまわれました。私も食べないかと勧められたのですが、あのように毒々しいものを口にする勇気はありません。
瘴気を自ら体に取り込んで身体強化する恐ろしい修行、私がやったらたぶん死んでしまうと思います。
領主館に戻ったあと家令のエンガワさんに報告を済ませ、休憩所で毛づくろいをしていたのですが、なんだか気分が晴れませんでした。
無理を言って領主様達についていったのに、丸一日ただ慌てていただけで何の役にも立っていなかったからです。
ぼんやりと自分の尻尾をかかえていると、通りかかった領主様が
「おや、雰囲気が暗いですね」
と声をかけてきました。私は慌てて、さぼっていたわけではございません、これからまた仕事をいたします、と言ったのですが、領主様は笑いながら、
「きちんと成果が出せるならば、仕事している時間が少ないほど優秀な人材です。『時間が空くならもっと詰めよう』と思うのは使用人を使い潰しても入れ替えればいい『商人』の考え方です。領主がそれを真似すると領地が滅びます」
と答えました。そして
「今日は『特別な日』だったから夕食にご馳走を作ってほしい、と食堂のタニタさんにお願いしておきました」
と言うのです。私が、え? 今日は何かありましたでしょうか? 毒の泉の開拓記念ですか? と聞いたら、
「今日一日、この村で理不尽に命を奪われた者は誰もいませんでした。魔物も現れませんでした。天災もなく、誰も病気になっていません。事故もなく火災もなく、苦しんだ者も悲しんだ者も、喧嘩したり憎しみ合ったりした者もいませんでした。
『何もなかった日』それは祝う価値がある『特別な日』でしょう?」
その言葉を聞いて私は悟りました。
領主様が前世で過ごしていた世界は、この世界よりもはるかに過酷だったのです。理不尽な暴力や魔物の襲撃があって、天災や病気や事故や火災によって突然に命が奪われ、苦しみや悲しみや憎しみに満ち溢れた場所。そこは生きているだけで地獄を見て心が渇く世界なのです。
明日があるかどうか判らない世界では、将来に夢が無い、と嘆く事すら許されません。そして一日生きのびられた時はその一日に感謝して、精一杯美味しいものを食べるのです。
夕方に収納庫から宴会用の保存食材がいろいろ出されて、さまざまなお肉やお虫の料理が食卓に並びました。なんと使用人達も残り物ではなく、暖かいお料理を分けてもらいました。ああ領主様、一生ついていきます! いや、ついていきませんけれど。
そういうわけで、ミヤゲは今日一日生き伸びられた幸せを噛みしめています。
どうかあなたも今日の一日、そして明日の一日が「何もない」幸せな日でありますように。
あなたを愛するミヤゲより
*卵が黒くなる原理は「黒玉子」で検索してください。