書簡3:あふれて流れる野菜汁
親愛なるお母様へ
送ってくださった茹でシロアリ、とても嬉しかったです。懐かしい故郷の味に涙が出ました。
休み時間に手を使わずに舌でお皿から拾って食べていたら、後ろから
「うわ、器用ですね」
という声がして、振り返ってみたら領主様が立っていました。お行儀が悪いところを見られてしまって、巣穴があったら入りたかったです。
デンジャラス煮込みにご領主様がとても興味を持って、今度実際に作ってみようと言っています。でも、生のヒカゲシビレタケが手に入らないとあの味は絶対に出せないと思います。
さて、あの日の話の続きです。
領主様と召喚士様が部屋からいなくなったあと、錬金術師様は領主室の中をしばらくお調べになられたあと、何か考えこんでおられるご様子でした。そして、
「前の領主様は、領地経営が破綻して夜逃げなさったとお聞きしたけれど、それは本当ですか?」
とお尋ねになりました。
私は思わずドキッとしましたが、表情に出さないように注意しながらお答えしました。
前の領主様は愛人や愛獣人に入れ込んで無駄遣いが激しく、領地経営も下手で勇者様への献納ができなくなりました。
困りはてた末に領民の若い娘を集めて愛玩奴隷商に売り飛ばすと言い始め、それを聞いて怒り狂った村の者達が夜中に領主館に押しかけてきて大騒ぎになりました。
翌朝になったら、前領主様はこのお屋敷からいなくなっておられました。
はい、嘘は言っておりません。魔術師の方々は虚言を見抜く魔道具を持っておられると聞いた事があるので、嘘にはならぬよう慎重に言葉を選びました。
それをお聞きになった錬金術師様は、
「そのあと、このお部屋をお掃除したのは、あなたなの?」
とお尋ねになりました。
私はもう心臓が止まりそうでした。嘘は言えないので、はい、と答えました。
特殊清掃の教本を見ながら念入りにお掃除したので、見ても判るはずがない、と自分に言い聞かせました。
錬金術師様は「遮光」の呪文をご詠唱になり、部屋を暗くなさいました。それからまた何かの呪文をお唱えになられました。
そして詠唱が終わると同時に、部屋の床がまだらに青白く光りはじめました。
これは……? と私がお聞きすると、
「『鑑識』という魔法です。床に染みこんで残っている目に見えない汚れ――生き物の体液などを魔力によって光らせています」
た、体液、というと、この青い光は、つまりその、
「たとえば、生野菜の汁でも反応が出ます」
あ、生野菜、あはははは、お野菜の汁ですかー、おやまあそんな汚れが?
「この広がり方だと、手桶に2杯分ぐらい流れた感じですね」
あーなるほど、手桶に2杯の野菜汁が、この床にプッシャーっと、
「部屋中に一面に飛び散って、ほら、後ろの壁にも」
……え?
私は恐る恐る後ろを見ました。
そこにはヒトの手形がべたべたと、いくつも壁に遺されて、ぼんやりと青白く光っておりました。
ぷにゃああああ! と悲鳴をあげて、私は後ろに倒れてお尻をつきました。
錬金術師様は私が慌てる様子を見ながら、無言のまま立っておられました。暗闇の中から魔力で淡く金色に光っている眼が、こちらをじっと見おろしています。
やがて私に向けてゆっくりと手を上げると、状態異常解除の呪文を詠唱なさいました。私は魔法の効果で気分が落ち着いて、はううぅ、と声を出して大きく息をつきました。
そのあと錬金術師様が「浄化」の呪文を詠唱なさると、部屋の中の青い光はだんだんと薄くなって、すべて消えてしまいました。そして「遮光」の呪文が解除されると部屋は元のように明るくなりました。
「これで『鑑識』の呪文を使っても何も判らなくなりました。私もあなたと一緒にお掃除をした事になります。私とあなたはもう『お友達』ですね」
そうおっしゃって、とてもお優しそうな顔で、にっこりと私に微笑みました。
あの、なぜ、どうして、と私がかすれた声で尋ねると、錬金術師様はおっしゃいました。
「このような汚れが残っていた事を、ご領主様がお知りになったらご気分を害されます。ご領主様と召喚士様にはこの事は内緒にしておきましょう。これは私が勝手にやった事です。お二人は何も知らない。よろしいですね?」
そう言いながら錬金術師様はしゃがみこんで、私と同じ高さの目線になられました。
「前の領主様が今どこにいらっしゃるのか、私はそういう事には何も興味がありません。この村の方々と前の領主様の間で何かがあったとしても、それは今のご領主様と関係の無い事です」
そこで少し言葉を切って、私が理解するのをお待ちになってまたお続けになりました。
「ご領主様は、この村の方々にとって良き領主になりたい、と思っておられます。皆様がそういうご領主様を応援し、お味方になってくださるならば、私は皆様の命と健康を力の及ぶ限りお護りいたします。
……そして、ご領主様に敵対なさった方には」
な、なさった方には?
「身体を守り、命を育み、精神を癒やす守護魔法を付与させていただきます」
はい???
「ただし、その魔法の効果数値は正ではなく負にしておきます。……つまり付与された者は常に身体が壊れ、命が削られ、心が潰れ続けます」
そ、それは守護魔法ではなく、呪いと言うのでは?
「いえ、術式としては治癒呪文です。ですから呪い避けが効きませんし、普通の方法では解呪できません。そして生涯にわたって永続いたします」
そうおっしゃると錬金術師様は、またにっこりと微笑まれました。
私はそのまま床の上で動けませんでした。その時、部屋の外から家令のエンガワさんが顔を出して、
「ミヤゲ、呼んだのに聞こえなかったのか。何をしているんだ、錬金術師様に何かご無礼な事でもしたのか」
と声をかけてきました。錬金術師様は、
「いえ違います。小間使いさんが足をすべらせて転んでしまって。大丈夫ですか?」
そうおっしゃいながら私の手を引いて立たせてくださいました。
この件についてはそれ以降、何も話はありません。
あの日はそれから事務室でエンガワさんから領地の状況について説明があって、領主様達はそれぞれ部屋をお決めになられて、私は皆様のお部屋を整えるお手伝いをいたしました。
錬金術師様がなさった事については、エンガワさんにすべて報告しました。エンガワさんは難しい顔をして、
「……事情は判った。錬金術師様のお言いつけを守って、ご領主様達には何も話すな。
お前はご領主様達に尻尾を振っておけ。できるだけお側にいて、気付いた事があれば私に報告しろ。反抗したり、敵意を見せたりはするな」
そう言われた私が、味方のふりをしておけば良いのですか、と聞いたところ、
「ふり、というか、しばらくは様子見をする。新しいご領主様がこの村にとって有益なお方であれば ―― 少なくとも無害であるなら我々も敵対する理由は無い。だが有害だった場合には」
どうするのですか、と私が聞くと、エンガワさんは言いました。
「……有益であってほしいものだ。ご領主様ご自身のためにもな」
―― はい、明日は早いので今日はこれぐらいにいたします。
明朝に領主様が「トーフ」という食べ物を作る予定です。
「トーフ屋の朝は早いのです」
と言っていましたが、領主様はトーフ屋ではないと思います。
アリクイ族の娘 メイドのミヤゲより