寝台列車幻想号
気がつけば私は、狭いベッドのある部屋にいた。
足もとに微かな振動があり、定期的にガタンゴトンと心地のいい音が鳴る。――そうだ、私は寝台列車に乗っていたんだった。
夏休みに入り、家でだらだらと過ごすのは損だと思って私は遠い田舎に住んでいる親戚の家にお邪魔することにした。そこなら自由研究だって昆虫採集にすれば簡単に済むし、何より静かで宿題にも集中しやすいし、私は田舎の空気が好きだった。
だけれど両親はお互い仕事に忙しく、何とかならないかと模索していた時に寝台列車の存在を知り、私はすぐこれに乗ることに決めた。
女の子一人で旅をさせるのは不安だった両親は最初は反対したものの、引き下がらない私に負けてしぶしぶ個室を取ってくれた。
そして、私は今ここにいるのだった。
――今何時だろう。左腕を見て時計を忘れたことに気がつく。もう、めんどくさいなぁ。
ドアを開けてその隙間から顔をのぞかせてみる。廊下には人はいない。
妙に静かだった。まるで私以外みんないなくなってしまったかのように。
乗っている人はみんな寝ちゃったのかな。じゃあ今は、真夜中なのかも。
私は時間を確認するため、ラウンジに行くことにした。
しんと静まり返った廊下に、私の足音と規則正しいレール音だけが聞こえている。その静けさが、なんだか不気味に思えてきた。
もし今真夜中なら、私はいつの間に眠ったのだろうか。列車に飛び乗ったところは覚えているけれど、そこから記憶がない。疲れていつの間にか眠りに落ちてしまったのかもしれない。
ラウンジのドアを開けても、静けさは相変わらずだった。やはりここにも人っ子一人いない。
少し年代を重ねた時計が壁に掛けられている。私は体を斜めにしてそれをのぞきこんだ。
七時。七時?そんなはずない。
それなら私とすれ違った人がいてもいいはずだ。
よく見ると、時計の針は動いていなかった。秒針が中途半端なところで首をかしげて止まっている。なぁんだ。壊れているんだ。
しかしこのままだと本当の時間がわからない。こうなったら仕方ないけれど、乗っている人の誰かに時間を訊こう。歩いていればすれ違うだろうし。
「この列車には誰も乗っていないよ」
ラウンジから出ていこうとする私に、声がかかった。
振り向くと質素なソファに少年が座っていた。
どこか不思議な印象がある男の子だ。私に向かってにこにこと微笑んでいる。
誰も乗っていない? 私は少年を見ながら、きっと怪訝そうな顔をしていることだろう。
「ここには、君と僕しかいない」
……さっぱり意味がわからない。
「訳わかんないんだけど、どういうこと?」
「君と僕がおそらくおんなじ理由で乗ってるってことさ」 彼はさらに意味不明なことを口走ると、ゆっくりと立ち上がって私に手を差し伸べた。
「ついておいで」
私はまるで赤ん坊のように彼に手を引かれて廊下を歩いていた。
相変わらず列車内は静まり返っており、一切の音を消し去ってしまったかのようだ。――もしくは、彼の言う通りここには私たちしかいないのかも。
「名前は?」
無言だった彼が前を向いたまま私に問いかけてきた。突然の質問に面を食らった私は、その必要もないのに慌てる。
「え、えっと。美代」
彼は振り返る。さっきと同じように私にほほ笑みながら。
「へえ、いい名前だね」
もともと恥ずかしがり屋の私は、それを聞いて耳まで真っ赤になってしまった。そんなことを言われたのは、生まれて初めてである。
前を先導していた彼は、いきなり止まった。
よそ見をしていた私は危うくぶつかりかけ、寸前で立ち止まる。
「着いたよ」
目の前に重々しい扉がそびえ立っていた。まるで門番みたいだ。ふとそれを連想させた。私の身長2つ分くらいあるその上に、
「運転室」とあった。
彼はまったく躊躇もせずにノブを引いて扉を開けた。見た目通りの重々しい音とともにしぶしぶとそれは開いていく。
中に入ると、まずたくさんの機械が目に入った。
温度計のようなものにたくさんのスイッチ、そして何かのレバー。だけれど、そこに人の姿はなかった。
「どうやって動いてるの、これ」
思わず私は絶句してしまった。運転手なしで列車が動くわけないだろうし、自動操縦にしても、車掌さんの誰かがいてもよさそうだ。――だけれど、ここには今私と彼しかいない。
「だから言ったでしょ。僕らしかいないって」
ごく当たり前のように、彼は言う。
私は意地になって正面を見据えた列車の窓をのぞいてみようと試みたけれど、身長が届かなくて背伸びしても無理だった。そりゃあ、クラスで一番小さいからなぁ。
「ねえ」
必死につま先で立とうとしている私の肩を、彼は背後から軽くたたいた。びっくりしてその場で尻もちをつき、私はまた真っ赤になる。
彼はそんな私をくすくすと女の子みたいに笑いながら言った。
「旅をするんだったらさ、どこへ行ってみたい?」
唐突な質問だ。それに今そんなこと聞いてどうするんだろう。
人の前で恥をかいてまだ真っ赤な私は、半分やけくそだった。
「えーっと、宇宙かな」
すると不意にエレベーターに乗った時のような浮遊感に襲われたかと思うと、ガタンゴトンというレールの音がなくなった。
「見てごらん」
背の届かない私は、彼に手を貸してもらって窓の外を見てみた。そしてまた尻もちをつきそうになった。
窓の外は星空のような風景が続いており、その中央に収まるようにして青い地球が私たちを見据えていた。紛れもなく、あれは地球だ。私たちが住んでいる、水の惑星。
「この列車はね、好きな場所に連れてってくれるんだ」
彼は何の変哲もなく微笑んだままだ。
「ち、地球って、ほんとに青いんだ……」
呆気にとられた私は、間抜けなことを言っていた。
それから私たちは、海の中へ潜ってみたり、念願の海外旅行に出向いたりもしてみた。
窓の外を魚の群が優雅に泳いでいたり、世界遺産の遺跡を見たりするうちに、私はすっかり楽しくて仕方なくなっていた。自然に飛び上がったり、大声で笑って拍手をしたりしてしまう。
なんて楽しいんだろう。こんな気持ちは、小さい頃にお父さんとお母さんに手を引いて連れていってもらった遊園地以来だ。それから、二人は忙しくなり、私なんかに構っていられなくなった。
そのことを考えるとちょっぴりだけ悲しくなったけれど、すぐそれは楽しさの感情に埋もれてしまった。
しばらく経ち、イルカの行列を指差してはしゃぐ私の肩に、彼は優しくそっと触れた。振り向いてみると、彼は悲しげに眉を下げている。それでもまだ微笑んだまま。
「残念だけど、もう時間だよ。君は帰らなくちゃ」
「え? やだ。私まだここにいたいよ」
こんなに楽しいのに、こんなに心の底から笑っているのに。帰りたくない。戻りたくない。両親に気を遣う日々に。本当はもっと構ってほしいのに、もっと見ていてほしいのに、大丈夫だよって無理して笑う時間に。そんなの、もう嫌だよ。
次々とそんな言葉が溢れ出し、私はいつの間にか泣き出していた。まるで小さい頃に戻ったかのように。
そんな醜い私を見ても、彼は優しく微笑んでいた。全部包み込んで、私の肩を優しく掴む。
「君はさ、子供ながらに沢山の悩みを抱えてる。僕だってそうなんだ。誰だってたくさんの悩みに押し潰されそうになってるんだよ」
けれど、と彼は言う。
「この列車にいる内はさ、そんなの吹き飛んでたでしょ?」
ホントだ。あれほど巨大でどす黒い問題は、楽しさの中に埋もれてしまっていた。最初から、そんなものあったのだろうかと疑うほど、問題は小さくなっていた。
「また悩んだり寂しくなったらさ、いつでもおいでよ」
言いながらも、彼は少し恥ずかしげに頬を掻いた。それが、彼の見せる初めての仕草だった。ふふ、と笑いが込み上げた。
「また会えるよね」
お互いに見つめ合ったまま、私は訊く。答えはわかっていたけど、彼の口から聞きたかった。彼は力強く頷く。
「またすぐ会えるよ」
やがて規則正しいガタンゴトンというレールの音が戻ってきた。微かな振動が、心地よく私たちを揺らす。
「もう目覚める時間だよ」
彼がそう言って微笑んだ瞬間、目の前が急に光に包まれて何も見えなくなった。
――またすぐ会えるよ。
彼のその言葉が、私の頭の中で繰り返されていた。
――まもなく、ホームに到着いたします。降りる際はお忘れ物がございませんよう、ご注意ください。
列車のアナウンスが聞こえて、私は狭いベッドの上で目を覚ました。
窓の外は既に明るく日の光が差しており、温かかった。
私はふと自分の肩に触れてみる。彼が掴んでいた感触が、まだ残っている気がした。
――あれは夢だったんだろうか。夢だとしか思えないけれど、そうじゃなかったかも。もしかしたら。
出来れば、夢じゃなかった方がいいな。
次の駅が目的地なのに今更気付き、私は慌てて荷物をまとめ始めた。
列車を降りると、目の前に自然に囲まれた風景が広がっていた。
体を伸ばしてから、ゆっくりと歩き出す。ビルやたくさんのお店に変わって、田んぼや畑が道路脇に続いている。 少し迷いながら、やがて私は親戚の家の前に着いた。インターホンがないので、玄関の引き戸を直にノックした。
「はーい」
中から元気な男の子の声が聞こえてきた。そういえば親戚のおばさんには男の子がいるんだった。
どんな子かな。仲良くなれるかな。――あれ、でもこの声聞いたことがあるような……。
引き戸が目の前でゆっくりと開いていく。そこから覗かせた男の子の顔を見て、私は唖然とした。
「ほらね」
彼は私に向かって、にっこりと微笑んだ。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
何となく寝台列車の話が書きたかったんで書いてみました。
本当に何となくですので、ちょっと無茶苦茶ですがお許しを。